第52話 邪神教


 ロープを使って穴の中から這い上がる。森から吹く澄んだ風を吸うと、いかに穴の底が媚薬で充満していたかが分かった。


 パトレシアもすっかり正気に戻って、リタを説得していた。


「……穴の中から妙な声がしていると思ったら、お前らこんなところで何しているんだ」


「だから違うの! わざと入ったんじゃなくて、放り込まれたんだから……信じて!」


「だからって……あんな場所でヤることはないでしょ!」


 なんだんかんだ言って俺たちを引き上げたリタは、散々にパトレシアをしかっていた。

 上がってきた俺の顔を見ながら、「いつの間にこんな変態カップルになっていたんだ」と呆れたようににつぶやいた。


「リタ、違うんだ。実は女神……じゃない知り合いのシスターが罠を仕込んでいて」


「シスターが?」


「そうそう。あ、帰ってきた」


 助けられた俺たちの姿を見て、残念そうな顔をしたサティが歩いてきていた。暴食の限りを尽くしてたらしく、口の周りに食べカスを付けて、ポンポンと膨れたお腹をさすっていた。


「ちっ、その様子だと作戦は失敗したらしいな」


「この人、シスター? まじで?」


「残念なことに」


 信じられない顔したリタを横目で見て、サティは大きくため息をついた。


「やれやれ、君は誰だ? 本当に何てことをしてくれたんだ。せっかく良い感じだったのに」


「良い感じって……あんたか?2人に媚薬を仕込んだのは」


「うん、効果はばつぐんだった」


 あっさりと返答したサティに、リタはしばらく固まったあとで、そのほっぺをぎゅうっとつねった。


「いたたたたた」


「一体何考えているのか知らないけれど、悪ふざけでやる域を越えているよ、シスターさん」


「私はただ手助けをしようと……」


「シスターのなりをして不貞ふてい行為の手助けだなんて。修道衣を着ておきながら、なんてことするの。もう一度聖堂の床掃除からやり直して、ちゃんど女神さまの教えを学び直した方が良いんじゃないかな」


 目の前の女が女神だとは言えまい。


 ゴムのように伸びた頬からリタが手を放すと、パチンと良い音がした。腫れた頬を痛そうにさすって涙目になりながら、サティはリタを睨みつけた。


「むー、私にこんなことをするなんて、天罰がくだるぞ」


「はん、それはどうだか」


「言ったな……!」


「はいはい、2人ともそこまで、そこまで」


 ピリピリと臨戦態勢に入っていた2人の仲裁に入る。この2人に暴れられたら、ひとたまりもない。買い物どころではなくなってしまう。


「悪いな、リタ。彼女は俺の連れでサティって言うんだ。まだ世間知らずで、非常識なところもあるけれど、悪いやつではないんだ」


「そうそう、私は悪いやつではないよ。『欲望はめるものではなく、吐き出すものである』って女神からの教典にもあっただろう」


「そんな教えあったかなぁ……」


 首を傾げながら、リタはうーんと唸っていた。

 だが、見た目は純情な少女であるサティに毒気を抜かれたのか、肩をすくめて首を横に振った。


「まぁ良いや、私も悪かった。ついカッとなってしまったよ。ほっぺたつねって悪かったね。あめちゃんやるよ」


「わーい、ありがとう!」


 リタからもらった飴玉を、サティはすぐさま舌で転がし始めた。安い女神だ。

 

「パトレシアも今度はちゃんと家の中でやるんだよ」


「はい、すいませんでした」


 パトレシアが、リタに頭を下げる。

 

 ……家の中なら良いのか?


「ところで、リタはここで何をしているの?」


「あぁ、最近ここらで悪い噂があってね。知っているかい、『邪神教』の噂?」


「邪神教?」


 聞いたことがあるような……ないような。

 パトレシアはまったく知らなかったらしく、ううんと言って不思議そうな顔をしていた。


「知らないのも無理はないか。何せ私たちが子どもの頃にはすでに消滅していたからね。教祖とほどんどの信徒たちは死亡している」


「死んだ? どうして?」


「自滅したんだよ。邪神教は女神信仰に対抗していた……いわゆるカルト宗教だ。邪神とかいう良く分からないものを降臨させようと、いろんな魔法にも手を出していたらしい。まぁ、結局は魔法が暴発して勝手に壊滅したらしいけれど」


「壊滅したなら、何が問題なの?」


「問題はそいつらの残党なんだよ。最近、邪神教のコスチュームをかぶった連中がウロウロしているって噂があって。見なかった? ぼろきれみたいな服を着て仮面を付けている奴ら」


「いや、見てないな」


「だよね。一応自治会の見回りを頼まれてパトロールしていたんだけれど、何もない。平和そのものだね」


 リタはそう言って『パトロール中』と書かれた腕章わんしょうを、誇らしげに見せびらかした。


「見つかったのは変態カップルくらいかな」


「分かった、分かった。平和で何よりだ」


「邪神教か……」


 リタは何かと見間違えたのだろうとは言っていたが、ただ1人サティだけがその『邪神教』名前を聞いて、ポツリとつぶやいていた。

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