第16話 イザーブという街


 最初にパトレシアと会った時に果たして想像出来ただろうか。肌と肌が触れ合うような状態で一緒にお風呂に入ることを、あの時の俺は夢にも思わなかっただろう。


「わー、男との人って本当に背中おっきいんだねー。わたし、父親と仲悪かったから全然知らなかったー」


 シャカシャカと音を立てながら、パトレシアが俺の背中を洗う。何かのハーブのような爽やかな香りを放つ石鹸せっけんの香りが鼻腔びこうをくすぐった。


 今、俺の後ろには裸のパトレシアがいる。

 湧き上がる煩悩ぼんのうをなんとか押しとどめようと、理性が必死に戦っていた。がんばれ、がんばるんだ。


「あ、また傷跡きずあとみっけ。これで16個目。ねぇこれって消えないの?」


「たぶんな。毒を持った敵も多かったから、早めに治療しなかった傷は後が残った」


「へー……大変だったんだね。あ、17個目」


「……多分、キリが無いぞ」


 俺の忠告にも関わらず、パトレシアは俺の傷跡を探す遊びを続けた。


 怪我をいくつ負ったかなんて覚えていない。

 『異端の王』を倒す旅路は並の困難さでは無かった。敵の本拠地へと近づけば近づくほど、魔物の強さはけた違いに増していった。


「ねぇ、これとか、ひどい。やけどの跡」


「それはたぶんヒドラの息炎ブレスだな」


「ヒドラとも戦ったんだ……あんなの想像上の生物だと思ってたのに」


「俺が戦ったのは『異端の王』が作り出した贋作がんさくだ。土でこねて魔力を通したまがい物。それでもとんでもない大きさだったけれどな」


 俺が戦ったのは、いわゆる幻影魔獣と呼ばれるものだ。

 動物が魔物化したものではなく、『異端の王』によって想像された魔物。紛い物だが、幻影魔獣の力は恐ろしく強力だった。


 そんな話をパトレシアは興味深げに聞いていた。時折、俺の傷跡を撫でる彼女の指が妙にくすぐったかった。

 

「道理でこんな身体になるわけだ。私と最初に会った頃とはずいぶんと変わっている」


「……俺の方からすれば、お前の変わりようの方が信じられないけれどな」


「わたし?」


「昔はもっとピリピリしていただろ。人を寄せ付けないあの感じ」


「あーそういえば、そうだったかもしれない」


 パトレシアは照れ臭そうに言って、俺を洗うタオルに力を込めた。彼女の身体が一層近づいて、濡れた髪が俺の背中に触れる。


「余裕無かったからかなー、あの時の私は。今考えると恥ずかしくなっちゃう」


 サラダ村に帰ってきた時にパトレシアの変わりようは、正直驚いた。緊張した空気感は全く無くなっていた。常に人を警戒する雰囲気はもうまとわないようになっていた。

 

 かつて一緒に過ごしていた時は、外を歩けば穏やかとは程遠い感じでパトレシアは周囲の視線を気にしていた。


「変わったのよ。全てはアンクたちと一緒にいたことのおかげ。私はやるべきことを見つけて、そして終わらせることが出来た」


「……それはもう辺りを警戒する必要がなくなったってことか」


「うん、もう必要性がなくなったの。私は資産家の令嬢であることを捨てたから」


 パトレシアの手が優しく泡を立てていく。タオルを捨てて、彼女は素手で俺のに触れた。

 背骨をパトレシアの指の腹がなぞる。ごつごつとした感触を確かめるように、ゆっくりと丹念に洗っていく。


「どう?」


「あぁ、とても良い」


「良かった」


 泡立った手で隅から隅へと丹念に、彼女の手のひらが肌の上を滑る。20個近くあった傷跡の1つ1つもなぞるように触れていく。


 多分、パトレシアの変化は喜ぶべきことなんだろう。

 最近の彼女は本当に楽しそうで活き活きしている。こんな片田舎に出てきて、普通の暮らしを満喫している。


「アンク」


「なんだ」


「私ね、あなたとまた一緒にいられてホッとしているの」


 彼女の声のトーンが変わる。それはささやくような小さな声だった。

 パトレシアの身体が動く。後ろから覆いかぶさるように、彼女の身体が俺に触れる。背中から腰の方へと手を回して、パトレシアは俺を抱きしめた。


 素肌と素肌。

 生々しい感覚。暖かくて柔らかくて、干したばかりの布団よりもふわふわな感触。


「パトレシア……?」


「じっとしていて。こっち向かないで」


 耳元でパトレシアの声が聞こえる。

 俺の肩の上で動いた彼女の髪が、頬にかかる。太ももから足を静かに動かして、俺の腰をはさむ。温かな体温が伝わってくる。


 彼女の胸は俺の背中に密着したピタリとくっついた。柔らかな膨らみを感じ、熱がこもる。


「またこんな日が訪れるとは思わなかった。アンク、あなたと過ごしたかつての日々は私にとって夢のように楽しかった。あなたが離れてしまったあとの日々は胸が張り裂けそうなほどに苦しかった」


「あぁ、俺も……寂しかった」


「……きっと私の方が寂しかった。残された後は最悪だったわ。一緒に付いていけば良かったって何度思ったことか」


「そんなことはないだろう。だってパトレシアは1人でも十分、強いじゃないか。俺がいようがいまいが、うまくやれる奴だよ」


 その言葉にパトレシアは何も言わず、俺の背中に顔を押し付けた。抱きしめる腕の力が少し強くなる。


「パトレシア?」


「じっとしていて。ねぇ、あのままだったら私はきっと自分の街に潰されていた」


「…………イザーブか」

 

「そう、私の故郷。私が憎んでやまなかった場所」


 かつて俺たちが暮らした都市の名前を口にする。

 プルシャマナでも異質な商業都市として栄えたその都市は、資産の有無による弱肉強食で成り立つ世界だった。


 この世界ではいびつとも言えるシステムの世界で育ったパトリシアも、また厳しい教育を施されていた。


 持たざるものになってはいけない。与えるものになってもいけない。

 奪うものになること。金を、物品を、人を奪い続けるものになること。それがイザーブという都市で生き残るたった1つの術だった。


「昔はね、私は世界で一番強くならなくちゃと思っていた。大人たちに負けないように。誰にも負けないようにって考えて、私は師匠に魔法を教わりに訪ねた」


「切羽詰まっていたな。あの時のパトレシアは」


「けれど、あなたと師匠が私の町に来た時、本当に驚いた。中の世界しか知らなかった私にとって、外の世界のあなたはあまりにまぶしかった。しなやかなくせに、たくましい。与えることを拒まず、奪うことを嫌う。私と変わらない年齢なのに、あなたは私と真逆の価値観を持っていた。肩の力を抜いて、それでも自分でいられる術を持っていた」


「……それは買いかぶりすぎだ。俺は少しヒネくれていただけだ」


「私はそうは思わなかった。少なくとも当時の私は。大人たちの中で生きることに必死だった私とはあなたは違っていた。イザーブの中にあってもなお、あなたは太陽のような輝きを失わなかった」


 パトレシアはどこか後悔するように、昔のことを話し始めた。


 ……イザーブと呼ばれるその都市はもう存在しない。

 数年前、幻影魔獣の大侵略を受けて崩壊した。パトレシアが言った「役割を終えた」というのは、憎んだ街もろとも彼女を取り巻いていた全てが消滅したからなんだろう。

 

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