【シチュー(NO.05)】
手で抑えると血と肉の生暖かい感触が伝わってきた。もしかしたら内臓が少しこぼれているかもしれない。パックリと開いた切り傷の
深い夜の森には人の気配はなかった。
当然だ、この森には凶暴な魔物がはびこっている。鋭い牙を持った巨大な白い狼の魔物が森を支配している。夜になると近くの住人は絶対に近寄らない。
『バンガルの森は魔境だ。行って帰ってきたものはいない。あそこは森の
……その森の
数時間に及ぶ死闘の上に私は勝ち、証拠となるように巨大な首を抱えて森への出口を歩いていた。
私の数十倍もの
あとはこれを依頼主に渡して対価を貰うだけだった。
『化け物め』
その時、グサリ、と嫌な音が聞こえた。
森の入り口で待っていると言っていた依頼主は、木々の暗がりから私に襲いかかり、背後からナイフで突き刺してきた。驚いて振り向くと、依頼主の男たちは勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
『お前には賞金がかかっているんだよ。知っていたか?』
知らないが、どうでも良い。
その首も、もいで殺した。
紙のように皮膚を破って絶命させた。周りの仲間も全て殺した。こいつらの本当の狙いは私だったということだ。こいつらも悪だ。全員殺した。
……まぁ良い。
この魔物の首だけでも売り飛ばせば、適当な業者が買い取ってくれるだろう。強い魔物の首は高く売れる。
ポタポタと血を
魔法を使って治癒力を高めていたが、それでも間に合わないほど多くの血が流れてしまっていた。
……痛い。
どこかで休む必要がある。寝転んで、回復に集中する場所が欲しかった。
足を止めると魔物の
ガサガサと近寄ってくる音が聞こえてくる。敵意をむき出しに襲いかかろうとしているのが分かる。
「……ちっ」
魔物は一匹ではない。深い森にはたくさんの魔物がいる。あとをつけて来ている魔物もいる。私が歩みを止めたら、ここぞとばかりに襲いかかってくるだろう。
早く森を抜けなければならない。
こぼれ出そうな腸を抑えながら進んで行く。もしかしたら、ここで死ぬかもしれない、嫌な想像も
あるいは、それでも問題はないのかもしれない。
深い森の中でのたれ死ぬ。死体は森の魔物に食われて跡形もなくなる。存在そのものが消えて無くなる。
「これが私の罰か」
私が死んで悲しむ人など、この世界にいないのだから。
そんなやつに生きる資格は、最初から無かったのかもしれない。そういう風に思った瞬間から、景色が徐々に白み始める。歩みが遅くなって、もう立つことすらできなくなってくる。
ぐしゃ、と落ち葉の上に崩れるように膝をつく。
ぼとぼとと流れた血が
あぁ、人はこんな風に死ぬのだと、
私は思った。
「おい、起きろ……!」
失いかけた意識の中で、人の声が聞こえた。
目を開けると、私の身体はいつの間にか誰かに抱きかかえられていた。全身を支えられながら、木々の中を進んでいた。
「意識はあるな……!」
その問いかけに小さく頷いて、周囲を確認する。
いつの間にか獣の声は聞こえなくなっていた。パチパチと燃える焚き火の灯りが見えてくる。
……久しぶりに見る光だ。
それはまるで、幼い頃に読んだおとぎ話のようだった。真っ暗な森でそこだけは穏やかさを保っていた。温かくて優しい香りに身体が包まれていた。
ふわ、ふわ、ふわ、と。
身体の力が抜けていくような良い匂いだった。
「ひどい……、おまえ良く生きていたな」
男は慣れた手つきで切り傷を治療していった。薬草を傷口に塗り込むと、ピリピリと
少し体調を整えた後で、周囲の状況を確認する。
周囲には魔物の気配がしなかった。焚き火を恐れて近づかないのもあるが、それ以上の何かがあった。この空間だけ夜の森の中で、不思議な雰囲気に包まれている。
そして目の前の人間も同じだった。
この人間からは血の匂いがしなかった。まるで汚れていないキャンパスのようだった。屋根裏にひっそりと仕舞われていた真っ白なキャンパス。この世界にあって、初めて出会う
「おい、どこ行くんだ?」
立ち上がった私に、その人は驚いて声をかけた。不安そうに揺れ動く瞳は、私のことを心配してくれることが良く分かった。
その瞳に私は深々とお辞儀をした。大丈夫だと言うように、すぐに
「何言ってんだ、まだ怪我が治っていない。休んでおいたほうが良い」
慌てた表情のその人に、私は自分の服をまくり上げて傷跡を見せた。ぐちゅぐちゅと
「おまえ……」
その人は
だが、この男は予想に反して、私を再び呼び止めた。
「待て待て、まだ完全に治っていなかったじゃないか」
その人は私の肩に手をかけた。
真剣な表情で私の顔をまっすぐ見ていた。その顔に、また
「まだ傷口が開いている。良いから座っておけよ」
服を元に戻すと、その人はパチパチと燃える焚き火に顔を赤く染めたまま、言いにくそうに言葉を発した。
「それと、女の子が男に無用心に肌を見せるのも良くない」
男は困ったようにため息をついた。
私に座るように促すと、ゴソゴソと自分のカバンを漁って木のおわんを取り出した。そして焚き火の近くに置いてあった鍋から、湯気の立つシチューをよそった。
「ほら。せめてこれだけでも飲んでけ、旨いぞ」
男は私の手に押し付けるように、お
ちゃぷ、ちゃぷと中の液体が揺れるたびに、心の内がホッとするような香りが広がった。この空間に入った時に感じた香りはこれだったんだ。
しばらく目を閉じて、その香りを一身に感じる。
シチューに口をつけずにいるのを不審に思ったのか、男は眉をひそめて私の顔を覗き込んだ。
「なんだ、もしかして熱いの駄目か……?」
男は私の質問に嬉しそうに微笑んで返した。
「ハーブだ。この辺りで採れるハーブを隠し味に仕込んであるんだ」
そんなもの1つで、こんなにも温かい香りがするものなのか。
今まで色んなものを食べてきたが、触れただけで心が温かくなる食べ物は初めてだった。
その香りを抱きしめながら、シチューを一口飲む。
口の中に入れると、一層強い風味が広がった。
舌の上で転がすと、程よい塩味が目を覚ますような刺激になった。
喉の奥へと飲み込むと、温かさが身体全体に染み渡った。
「おう……泣くほど美味かったのか」
「え……?」
男に言われて、自分の
手でぬぐったが、次から次へとどんどん涙があふれ出した。まるで決壊したダムのようにボロボロと大量の涙がこぼれていた。
心のどこかが壊れてしまったみたいだった。
どうして良いか分からずに、そのシチューを抱えたままうずくまって涙を流した。
温かい。
その感覚は心の奥を何度も、強烈に締め付けた。
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