1-13

「なんだこの汚らしい体は! 聞いてないぞ?」 


 パンツ一丁になった、背の低い、でっぷりと太った「客」が、坂本を指さして声を荒げる。うらぶれたラブホテルのベッドの上で、全裸にひんむかれた坂本は、慌てて毛布を引っ張り上げて青あざだらけの体を隠すと、必死で頭を下げた。


「す、すみません……今日、学校で突然、上級生に呼び出されて……」


 あながちすべて嘘というわけでもないので、真に迫っていたらしい。いきり立っていた「客」は鼻でため息をつくと、坂本がかけていた毛布を乱暴にはぎ取り、馬乗りになって体の下にある彼の裸体をまじまじとながめやった。


「俺は壁の中で医者をやってるんだが……お前、ホントにこの体で「ヤれる」のか? 見たところ、肋骨が数本逝ってるみたいだし、肺挫傷起こしてる可能性もあるみたいだが」

 

「で……できます。大丈夫です」


 坂本がうなずくと、「客」はいきなり坂本の額に手を当てて、きつく手のひらを押し付けながら、自分の顔を至近距離まで近寄せた。


「熱もかなりあるみたいだが、こんな状態で満足のいくサービスができると本気で思ってるのか? ああ?」


 「客」の酒臭い息がふうふうと顔にかかる。吐き気を覚えつつも、坂本は必死でうなずいた。


「せ……精一杯、やらせていただくつもりです。ご満足いただけなかったぶんについては、値引きも考慮して……」


 「客」は拳を握ると、いきなり坂本の折れた肋骨を殴りつけた。


「……!」


 激痛に呼吸がとまり、息をのんで目を見開いた坂本を、「客」は嗜虐の快感に酔いしれるような眼で見降ろした。


「そんな状態で、満足のいくサービスができるわけねえだろうが! 完全に『詐欺』だなこれは。サイト運営者に連絡して、お前を除名してもらわないと」


 激しい痛みに脂汗をながしながらも、坂本は息をのんで首を振った。


「いえ……詐欺だなんて、そんなつもりは」


「こんなボロボロの体を売りつけようとすることが詐欺じゃなくてなんなんだよ?」


「お、……お願いです、サイトに連絡だけはしないでください。あそこを追い出されたら……」


 「客」はにやりと口の端を片側だけ引き上げると、坂本に覆いかぶさり、坂本の顎を掴んで顔を限界まで近寄せた。


「……まあ、俺もそこまで融通がきかないわけでもない。無料サービスってことにしてくれるんなら、連絡はしないでおいてやってもいいぜ」


「無料……」


 坂本は呆然と「客」の言葉を繰り返した。


「俺は忙しいんだよ。壁の中では、中央政府病院の外科部長って肩書でな、担当患者もごまんといる。その忙しい俺を、くだらない詐欺でこんな壁の外くんだりまで連れ出したんだ。俺が一時間で何万稼ぐと思ってる? その時間をお前は無駄にした。こんなボロボロの体、一発無料でしたくらいじゃ本当は足りないくらいなんだぜ? それを、それだけで丸く収めてやるって言ってるんだ。悪くない話だと思うがな」


 坂本はゼイゼイと浅い呼吸を繰り返しながら、この男は何を言ってるんだろうと思った。発熱と酸素不足でぼんやりした頭では、それが果たして筋が通っているのかいないのか、そんなことすら考えられなくなっていた。


「……わかりました。それで、納得していただけるのでしたら……」


☆☆☆


 「客」は、さんざん坂本をもてあそんだ後、ホテル代も払わないままさっさと帰っていった。


 うらぶれたホテルとはいえ、休憩料は手持ちの金を全額つぎ込んでも支払えない金額だった。坂本はこのホテルをよく仕事で使っていて顔見知りだったこともあり、何とか次回支払うということで事なきを得たものの、夕食代はおろか帰りのバス代すらなくなった。いったい今日は何をしにこんなところまで来たんだろうと呆然としつつ、坂本はホテルを出た。


 今日はいつにも増してまっすぐ歩けなかった。頭がふらふらして、呼吸が苦しい。深く息が吸えない。視界は狭く、左右に体が振れる。自宅まで普通なら歩いて一時間ほどだが、この状態では数時間かかりそうだ。数時間も夜の街をふらふらしていたら、何度襲われるかわからない。果たして、生きて帰りつけるだろうか。


 坂本の懸念通り一キロも歩かないうちに、いきなり路地裏から伸びてきた大きな手が坂本の左腕を掴んだ。ハッとする間もなく路地裏に引っ張り込まれた坂本は、手にしていたカバンと紙袋を奪われ、壁際にたたきつけられた。壁際に座り込んだ姿勢でゆるゆると目線を上げると、かすんだ視界に、坂本の荷物を物色する数人の浮浪者の姿が映った。浮浪者どもは坂本の荷物を逆さに振って中身をゴミだらけの路上にぶちまけ、金目のものがないか探っていたが、中に入っていた財布に一銭も入っていないことを知ると、踵を返して座り込んでいる坂本の方に近づいてきた。


 リーダー格であろうガタイのいい浮浪者は、坂本の前髪を掴んでうつむいている顔を無理やり上げさせると、無精ひげだらけの顔を近づけ、生臭い口臭を吐きながら低い声で問いかけた。


「金はどこだ、どこに隠してる?」


 坂本はゼイゼイ息を切らしながらも、小さく鼻で嗤った。


「……金なんて、あるわけねえだろ、バーカ……」


 坂本は、浮浪者の想像力のなさが可笑しかった。金があれば、なにもこんな無理をすることはない。滞納している家賃を支払って、たまっている水道料金を支払って、父親に何か適当なものを食べさせることができれば、こんな町をこんな時間にこんな状態でフラフラする必要なんかないのだ。


「んだと? この野郎!」


 激高した浮浪者が坂本の腹を力いっぱい蹴りつけた。激痛に、坂本の意識が一瞬とぶ。喉奥からこみあげてきた胃液が口にあふれ、気管に入って坂本は激しくせき込んだ。咳とともに鮮血が点々とアスファルトに飛び散ったが、浮浪者たちは意にも介さない様子で倒れこんだ坂本の後ろ襟をつかみ上げた。


「身に着けてる可能性がある。裸にひん剥いて調べろ!」


 坂本はもう、抵抗する気力も体力もなくなっていた。引きずられるようにあお向けにされ、セーターをはぎ取られ、シャツの合わせに両手を突っ込まれて左右に引きちぎられる。はじけ飛んだボタンが周囲の路面を転がる音を聞きながら、あとで拾い集めるのが面倒くさいなと坂本はぼんやり思った。そういえば、昨日もそうしてボタンを付け替えたばかりだった。かろうじて針と糸は家庭科の授業で使用した残りがあるものの、ボタンは転がったものを拾い集めなければ替えなどない。シャツはこれのほかには半袖が一枚あるのみで、替えを買う余裕などあるわけもない。


――でも、もう、いいか……。


 そこまでして学校に行ったところで、前川や仁科に性奴隷のように使われる毎日が待っているだけだ。自分をかばってくれる人間も皆無だろう。優しい言葉をかけてくれた石田結菜の顔が一瞬頭をよぎったが、事実を告げた今、彼女がこれ以上自分をかばう理由もない。今更そこまでして学校に行く意味があるのか、というより、そこまでして生きている意味があるのか、坂本にはもうよくわからなくなっていた。こんなに苦しくて、痛くて、辛いだけなら、生きるのをやめた方が楽になれる気がした。


――殺して、ほしい。


 こいつらに今、ひと思いに殺してもらえたらどんなにか楽だろうと本気で思った。一瞬、暗い家で一人、坂本の帰りを待っているだろう父親のことが頭をよぎった。だが、それももうどでもいいような気がした。父親もいい年だ。こんな子どもの世話にならなくても、ヤバいと思えば自分で行動できるだろう。体力を落とせば気力もそがれる。あの時、屋上で水沢きららに突き落とされそうになった時感じた「死にたくない」という気力は、今はもう影のように消え失せていた。


「殺……」


 ワイシャツは脱げかけて肩が半分丸出しになり、首からネクタイをぶら下げた状態で、両手を拘束されたままズボンに手をかけられた坂本が、その思いをかすれた声で呟きかけた時だった。


「その辺にしといたらどうですかね」


 小さなため息とともに、どこか面倒くさそうな男の声が、薄暗い路地裏に響いた。

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