第25話 想い⑥

 さすがに、怖くなってきた。

 ほんとうに、このまま流されてしまっていいのだろうか。類は義理の弟で、しかも街を歩けば誰もが気がつくような超有名モデル。

 これといって、特になにも取り柄のない自分など、飽きたらすぐに捨てられるのではないだろうか。結婚しようねと言ってくれたけれど、類流の挨拶みたいなものかもしれない。


「ね、ちょっと待って類くん。私、やっぱり無理みたい。ごめんなさい、るいく……」


 さくらは身をよじろうと、懸命に動いてみた。


「だめだよ。もう待てない。これでも、ずいぶん待ったんだもん。今さら、泣いたって叫んだって、許さない。助けも来ないよ。玲の名前を出すなんて、わざとぼくをあおってんの?」


 ライトアップされていた、タワーのライトが消えた。

 夜十時。室内もさらに暗くなった。


 さくらを逃がさないよう、しっかりまたがったまま、類がシャツを脱ぎはじめた。薄闇に浮かぶ類の、バランスのよい身体つきや触れ合う手足の長さに、さくらは改めて驚いた。


「ここまでついて来て及び腰だなんて、卑怯な子にはおしおきが必要だね」


 類の唇が、さくらの鎖骨の下あたりに触れる。


 さくらは身を固くした。


 強く吸ってきたので、キスの痕をつけられるのかと思ったが、類は歯を立ててぎりぎりがつがつと喰らいついてきた。おさえつけられている両肩にも、類の爪がぐいぐいと喰い込んでいる。


「いたいいっ」


 血が出たらしく、類の唇は濃き紅に染まっていた。


「これで済むと思ったら、大間違いだよ。さくらは、ぼくのもの。誰にも渡さない。あーあ。こんなに血が出ちゃって、かわいそうに。舐めて治してあげようね」


 豹変してゆく類に、さくらは恐怖を覚えた。


 ひどく後悔した。


 さっさと帰っておけばよかった。

 つい、類の甘いことばを信じ、現実から逃げようとした、自分の愚かさを恥じた。涙も止まっていた。


「そうだ。バラの花で」


 バラの花束の包みを引きちぎった類は、さくらの身体の上に花びらを一枚ずつ丁寧に並べた。


 バラの強い芳香が、さくらを襲う。

 花束を乱暴に扱ったせいで、類の両手指も棘で切れたのか、血が流れていた。

 だが、類は気にも留めずに、さくらの傷を、撫でる。ふたりの血は、混ざりあっていた。


「すごくきれいだよ。バラの妖精みたい。桜の木って、バラ科の植物なんだよね」


 類が変わった趣味を持ってしまったことには同情するし、理解したい。救いたいとさえ思う。こんな形で結ばれるのは間違っている。


「類くん、お願い。話を、聞いて」

「うん、聞いているよ。最後に、考える時間もあげたじゃん。それでも、さくらは来たんだ。寛大なぼくに、非はないよ。とにかくもう、黙っていて。ぼくは悪くないんだから。それでも焦らすなら、もっとひどいこと、するよ? このぼくが、これだけ甘いことばを並べているのに、どうしてあいつの名前なんて呼ぶのさ」


 脅されてしまい、さくらは委縮した。

 玲が、類からさくらを守ろうとしていた意味が、ようやく分かってきた。危機的状況になるまで、類を甘く見ていた自分がいやになった。


「初めてさくらに逢ったとき、驚いたんだよ。ぼくを見てもあんまり動じないし、誘っても来ない。誘いにも乗らない。そんな女の子、初めてだったから。しかもいきなり義姉とか、おもしろくて。つい、からかっちゃったけど、だんだん玲がきみにつきまとうようになって、ぼくも絶対落としてやるって意地になったね。年上のくせに世慣れしてないし、いちいち顔を赤く染めたり、反応が新鮮でさ。さくらと一緒にいると、すごく楽しいんだ」


 類は、バラの花びらを一枚つまむと、ひょいっと口に運んで食べてしまった。花弁は、血に染まっているのに。


「ぼく、中学生のときにスカウトされて、普通の暮らしからは遠ざかっていたせいか、家族に憧れていた。さくらとなら家をつくりたいなって、自然に思えた。でも、十八ですぐに結婚なんて、親も事務所も許してくれそうにないし、強引に行くしかない。結婚したって、さくらは大学に行っていいよ……ほんとに、初めてなんだね、身体が震えているよ。雛鳥みたい。あれだけ近くにいて、玲とはなにもなかったの?」


 さくらは首を小さく横に振った。


「あいつ、気が弱いもんね。兄貴ぶって見せているけど、いざというときに、さくらを放り出して京都に出かけるとか、ほんとにばか。ぼく、家族の予定表に嘘を書いたんだ。親の新婚旅行の間、ぼくも仕事で留守ってことにしたけど、泊まりがけの撮影は一日だけだったんだ。予定表を見て、玲は京都行きを決めたんだと思う。何日か前に、『おじさんのところ、行きたいな』ってつぶやいていたから。親がいないときこそこうやって、さくらをものにする絶好のチャンスなのに」

「私たちを、騙した……の?」


 類は口もとをやや歪め、さくらに甘いキスをした。また噛まれるのかと思い、さくらは再び身を固くしたけれど、普通に唇を乗せてきただけだった。


「騙したなんて、耳にやさしくないことばを言ってくれるものだね。せめて、作戦と呼んでほしいよ。ぼくは、欲しいと思ったものは、必ず手に入れる主義。どんな手段を使っても、諦めない。ずっとそうやって生きてきたんだ。たぶん、これからも」


 強い。


 類は、強かった。

 自分の容姿を武器に、芸能界を生きている類は、どこまでも己を信じるしかなかったのだろう。


「私は、類くんみたいに強くない。すごく弱いよ。つらいことからは逃げようとするし、面倒なことはしたくない。迷うことだってあるし、間違うこともある。きっと、玲もそうだと思う。たぶんそうやって、他人の痛みとか、悲しみ寂しさを知るんだよ」

「甘えだよ。ただの感傷。いつの時代も、強い者が勝つんだ。さくらも、あと半年後に北澤ルイと結婚するんだから、強くなってもらわないと。脅かすようだけど、取材とか殺到して大変だよ」

「結婚なんて言われても、実感がない」


 類は愛らしくほほ笑んだ。


「実感なんて、あとからついてくる。そのうち、気がつくよ。さくら、愛している。今夜、ふたりは結ばれて婚約するんだ」


 このまま、類を素直に受け入れられたら、どんなにラクだろうか。


 でも、さくらは気がついてしまった。類と絡んでいても、自分はずっと玲のことばかりを思っている。類にひどいことをされても、自分を守りたいと思っている。


「……ごめんね、類くん。いくら謝っても足りないけど、私は……玲が好きみたい。ひどい女だと思う。ほんとうにごめんなさい。類くんの気持ちに応えられなくて、ごめん」


 類が、さくらを睨んできた。怒りで、目がつり上がっている。

 天使のほほ笑みはどこにもない。

 バラの花びらをむしり、冷え切ったさくらの身体の上に次々と散らせてゆく。類の指は、いっそう血だらけになった。


「謝ったら、全部許されると思ってんの? 甘いよ、甘い。さくらは、世間を知らなさすぎ! 駆け出しのぼくが雑誌に載るために、過去にどんな営業をしてきたか、想像もつかないでしょ。極上の笑顔と合わせて、『ぼく』なんて甘い一人称を使うのも、相手を油断させるため。さくらなら、ぼくを真正面から見てくれているさくらなら、ぼくを浄めてくれると信じていたのに」


 信頼されていたことは、素直にうれしい。けれど。

 類は、次のことばを紡ぐ。


「……玲のほうが好きとか、どういうことなの? どうして、ぼくじゃだめなの? 日本中の女の子が欲しがるぼくを全部、さくらにあげる。不自由はさせないよ。苦労もかけないし、浮気もしない。なのに」


 類が、泣いていた。迷子になった子どものように、泣きじゃくっている。


 泣かせてしまった。

 申し訳なくてかわいそうで仕方がなくて、さくらは類を強く抱き締めた。冷たい肩が剥き出しになっているので、包むように腕を大きく広げた。


「泣かないで、類くん。これからは、家族がついている。父さまと聡子さん。玲に、私。困ったら、いつでも頼っていいんだよ。私、類くんとは、恋人や夫婦になれないけれど、姉として家族として、いつも類くんを支えたい」

「いやだ。さくらは、ぼくだけのもの。キスしたのも、ひと晩過ごしたのも、抱き合ったのも、玲よりもずっとずっと先なのに。ぼくとさくらは学年こそ違うけど、生まれはたった、数ヶ月の違いしかないんだ。……壊してやる。玲にこだわるなら、さくらのこと、今夜、ぼくがめちゃくちゃに壊してやる」

「ずっと見ているよ、類くんのこと。だから、お願い」

「いやだ。さくら、さくら。ぼくのものだ」

「ごめん。ほんとうにごめんね、類くん」

「許さない。さくらを、一生許さない。玲だけには、絶対に渡さない。さくらは、ぼくの特別なんだ。運命だったんだ、なのに」


 幼い子どものように、しばらく類は泣きじゃくっていた。そっと頭を撫でてやる。頬ずりをしてやる。出血してしまった指をおさえてやる。

 気が済むまで、さくらは類の身体を抱き締めていた。

 類のきれいな頬や肌は、お互いの血で紅く染まっている。


 そっと布団をかけてやると、泣きながらも疲れた類は眠ってしまったらしく、すうすうと、心地よい息が漏れはじめた。

 さくらは己の傷が塞がっていないのに、類の指の止血を先に済ませ、類を見守り続けた。


 この若さで、モデルの頂点に立っているのだ、苦労も多かったに違いない。たとえ、気弱になっても、多忙な母と反発し合う兄とでは、家族に悩みを相談もできなかったに違いない。


 これからは、自分が類の支えになりたい。

 そう決意しながら、さくらもいつの間にか共に眠りについていた。

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