第26話 いま、ここに宣言します!①
明け方。
先に目を覚ましたのは類だった。さくらはぐっすりと寝ている。少し口を開いている間抜けな顔が、ひどく愛らしい。
切なすぎて、ふと類は笑ってしまった。どんなに抵抗されても思いを遂げるつもりだったのに、さくらの涙に負けてしまった。途中で萎えた自分を笑い飛ばす。こんな想いは、はじめてだった。
シャワーを浴びて着替えを済ませたけれど、さくらに起きる気配は皆無だった。
傷口の血は止まっているが、血の塊がこびりついている。
類はさくらの傷を、濡らしたタオルでそっと拭ってやるが、自分の手指も切り傷だらけだった。
そろそろ、出なくてはならない。今日も仕事がある。
始発の新幹線に乗ってもたぶん、遅刻。無断外泊ゆえに、携帯電話の電源を入れるのが怖いぐらいだ。指につくってしまった傷は撮影に支障が出るだろうし、いろんな意味で大目玉間違いなし。
「ありがとう、大好きなさくら。そして、さようなら。ぼくの初恋」
寝ているさくらに、ためらったけれど類はもう一度だけ唇を落とした。
本心では、このまま部屋を立ち去りたくなかった。一緒に帰りたい。起こしたい。今すぐにでも、自分だけのものにしたいのに。
長いキスが終わっても、類は未練がましく、さくらの唇を指でなぞる。不意に起きてくれることを切実に祈りながら。
さくらの目が開いたなら、もう一度だけ懇願してもいい。無様でもいい。自分をかなぐり捨て、さくらに縋ってもいい。
けれど、類に奇跡は起きなかった。
「ぼく、昔っから、運はあんまりないんだよね。全部、実力で掴む派だから。じゃあね、さくら。東京で待っているよ」
さくらに感謝しながら、荷物をかかえた類はドアを開く。
「くしゅっ。かぜ、ひいたかな……寒気もする」
アイドルモデルは、くしゃみさえも愛らしかった。
***
「しまった!」
午前九時。まぶしくて、さくらが目を覚ましたのは、とうに明るい時間。
「うわっ、どういうこと。あり得ない」
ざざっと、重いカーテンを引くと、ホテルの眼下である京都駅前には、通勤通学の人々が観光客に挟まれながらも、黙々と歩いていた。
窓が開放できないのが残念なほど、いい秋晴れ。
京都の町を囲む山の稜線が、うつくしく青空に連なってる。ほんのりと紅葉しているのも、いい感じだ。
一方、ベッドのシーツの上には、ふたりの血痕とバラの花びらが点々と落ちていた。正直、昨夜のことは悪夢のようだった。
ホテルに類と来た。痛いほどの愛撫を受けた。
「そう、ほんとうに痛かった!」
さくらはバスルームに駆け込んだ。
鏡を覗くと、胸の上部に類に受けた傷やキスマークが赤々としっかり刻まれている。夢ではなかった。
けれど、きれいに拭いてある。その代りに、バスルームのごみ箱の中には、血塗れたタオルが捨ててあった。類が、拭いてくれたのだろう。
「容赦ない。類くんは」
しかし、類の姿はない。よく見ると、荷物もない。
……消えてしまった? 朝食か、コンビニでも行ったのだろうか。
とにかく、さくらはシャワーを浴びて身体を洗った。傷に、お湯がしみる。
類が戻ってきたら、また問答がはじまるに違いない。急いで身体を洗って出てきたさくらだったが、携帯にメールが入っていることに気がついた。
待ち受け画面が、北澤ルイの画像に変わっている。さくらが寝ている間に、いたずらされていたらしい。営業用笑顔のルイ。でも、これも悪くない。
メールのタイトルは、『さくらねえさんへ』。類からだった。
『おはよう。
そろそろ、起きたかな?
ぼくは先に、東京へ帰ったよ。
今から仕事場入り。
ま、遅刻だけどね。
さくらねえさんは、玲をとっちめてから一緒に帰っておいで。
気持ちを全部、あいつにぶつけてくるんだよ。
じゃなかったら、ふたりとも家に入れてあげない。
あと、さくらねえさんの制服はぼくが家に持って帰ったから。
とびっきりかわいい白のワンピで、玲に会いに行くんだよ。
泣いている顔もかわいいけど、さくらねえさんには笑顔がいちばん似合うよ。
今日の仕事は泊まりになる予定。
よろしく 類』
「類くん……」
昨夜、いちばん傷ついたのは、さくらではなく、類だと思う。自分の優柔不断で類を欺いてしまった。謝っても、謝りきれない。
だからこそ今、自分にできることは玲に逢い、素直な気持ちを伝えること。砕けたっていい。また、挑めばいいのだから。
傷をハンカチでおさえ、着てみたワンピースは測ったかのように、さくらの身体にぴったりだった。昨日のうちに着て、類に見せてあげればよかったと思うほどに。
けれど、首筋から鎖骨の下にかけて残された類の刻印だけは目立つし、さくら自身も気になるので、どうにかしなければならない。
甘い桜色のコートとサンダルを合わせ、小さなバッグを持つ。
さんざん迷ったけれど、二度と同じ間違いをしないように、さくらはバラの花びらを拾い集めて袋に入れ、お守り代わりに持ち帰ることにした。
決心して部屋を出る。
類に受けた痕跡が気になるので、さくらはコートの襟を立てて足早に歩く。
ホテルの会計は済んでいて安心したが、昨日借りた便利なカードは類に返しているし、手持ちのお金はあまりない。昨日は類がタクシーに乗せてくれたが、今日はそうもいかない。
玲がいる西陣まで、電車かバスで行くと決めた。
ホテルの窓から見下ろしたところ、すぐ真下がバス乗り場だったし、観光案内所の看板も見えたのでそこに行って聞こうと思った。
観光案内所の掲示板を見たさくらは、固まった。
「……なにこれ」
京都の交通網はバスが発達しているようだが、路線図は複雑怪奇に入り組んでいた。市バス、京都バス、京阪バス、JR、私鉄に……地下鉄?
眺めるだけで、目がちかちかしてきた。考えるだけ時間の損、聞いたほうが早そうだ。
「すみません。西陣まで、行きたいのですが」
観光案内所のおばちゃんは、顔を顰めた。
「西陣のどこ? 観光しはるんか?」
昨日の類は、なんと言っていただろう。
「い、いえ。観光ではありません。糸染めの工場で……そうだ、高幡(たかはた)さんっていう、お宅なんです」
さくらは、工場にかかっていた古い看板のことを思い出した。
「高幡はんの糸工場、一般公開してはったっけ」
おばちゃんが、隣に座っている同僚に尋ねた。
「いや、しておらんやろ」
「見学じゃありません。遠い親戚の家なんです。でも、どうやって行ったらいいのかなって」
さくらの姿を、おばちゃんがじろじろと見てきた。
「だったら、直接電話して聞けば、早いんとちゃうか。ま、ええわ。東京者か」
「はい」
「土日やったら、案内所は大混雑で、回答には時間がかかったで。お客さん、ぎょうさん来はるさかい。きれいな服のお姉ちゃん、ラッキーやね」
そう言いながら、おばちゃんは地図を広げて詳しく説明してくれた。
「ええか。京都駅前から市バス。50系統か、206の循環に乗りなはれ。101なら洛バスでもええわ。千本今出川で降りる」
「せんぼん、いまでがわ? 私が行きたいのは、西陣なんですが」
「高幡はんとこには、千本今出川ゆうバス停が、最寄や。市内観光なら、市バスの一日券を買うとき。この春に値上げしたけど、六百円で乗り放題や。スイカかパスモでも、ええねんけど」
最後に、ぽいっと観光客向けの地図を渡され、さくらへの回答は終了した。
おばちゃんは、次に並んでいた人ともう、話しはじめている。
渋々案内所を出るものの、駅前のバスターミナルには、うなるほどの数のバスが停まっては出てゆく。
地図で確認してみると、西陣を通っている電車はなく、バスで向かうしかないようだ。『西陣』というバス停もない。おばちゃんの言う通りだった。
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