第18話 絶望の果てには夢がある⑤
純花とも仲直りができたさくらは、少し落ち着いた。
身勝手な両親は楽しそうに新婚旅行にでかけたが、さくらはきょうだいとの時間を楽しく過ごしている。眠くなるまでリビングの大きなテレビでゲームをしたり、真夜中にアイスを買いに行ってみたり。勉強しなきゃと思いつつ、遊びは楽しい。
家の中では、玲とほぼ一緒。類から守るために、恋人偽装をしている意味合いも含まれているけれど、家族って、こういうものなのか、とさくらには新鮮である。
「ねーねー。ぼく、朝早いから、もう寝るけど。いつまで、ゲームなんかしてんのさ。親がいないからって、調子に乗ってんじゃない? オニーサン、オネーサンは高三なんだから、ほかにやることもあるだろうに」
とうとう、類が不満を口にした。
「たまには、息抜きも必要なんだよ。お子さまには、分からないかな」
玲が厭味で返す。
「ぼくは年下でも、あなたたちとはと違って、働いてますがなにか? 社会人ですけどなにか? 相応の収入もありますけどなにか? 世間にも認められた存在ですけどなにか?」
「ろくに社会常識も身につけないで、女を押し倒しまくってきたお子さまが、社会人だって? とっとと寝ろ。俺は、さくらと白黒つける」
険悪な気配が高まってきたので、さくらはあえて笑顔を作った。
「玲、類くんも。続きは、明日にしようか。リビングが明るいと、気になってよく眠れないよね」
「さっすが、さくら。言うことが違うね」
「なら、さくらの部屋でやる。行くぞ」
「それはだめだよ。こんな夜中に、個室でふたりきりなんて。風呂上がりのさくらは、いい香りと色気がぷんぷんだし、お姫さまパジャマだし。いやらしい展開狙いか」
「親がいないときにこそ、やるんだよ」
「さくらは、ぼくが先に唾つけておいたんだ。ぼくのほうが、やさしくできるよ」
これはまずい。
類は素直な気持ちを晒しているだけだが、玲も演技とは思えないほどの熱の入りよう。正直、どちらの味方もできない。
さくらは、身の危険を察知した。
「分かった。今日はおしまい。玲だって、アルバイトで朝が早いよね。私も、お弁当づくりがあるし、寝よう寝よう! 私は、ちょっと勉強するよ。はい、おやすみなさい」
喧嘩にならないよう、さくらはひとりずつそれぞれの私室に押し込んだ。
「ふう」
リビングに、最後残ったのはさくらだった。がらんとした空間が、やけに広く感じる。
同居は難しい。
玲と類、それぞれの心の、どこまで踏み込んでいいのか、距離がつかめないでいる。
玲は遠いようで、とてつもなく深い。
類は親しみやすいのに、近づくと猛獣化してしまう。
家族なんだから。もっと楽しく、もっと仲よくなりたいだけなのに。
***
翌日。
玲は例の高給バイトがあるというので、帰りは遅いという。それでもさくらは、きょうだい三人分の食材を買い込み、帰宅した。
「ただいまー」
帰宅を告げても、返事はない。昔からそうだ。だが、今は五人家族。答えがあるのではないかと、ほんの少しだけ期待してしまう。
「おかえり、さくら」
リビングには、類がいた。
ソファに座っている。感心するほど、脚が長いので、思わず見とれてしまう。悔しいけれど。
類の部屋は引っ越しの段ボールがまだ山積みで、純粋に寝るだけの部屋と化しているらしい。たぶん、玲かさくらが手伝わないと、永遠に片づかないだろう。
「えっ。類くん、もう帰宅したんだ?」
「悪い? 仕事が早く終わったんだよ。雨、降ってきちゃったからさ、途中で撮影中止」
さくらの言い方が気に入らなかった様子で、類はふくれた。
「そ、そっか。おつかれさま。おかえりなさい」
「『早く帰ってきてくれて、うれしい♪』って、言ってみてよ」
「……は、はやめの帰宅で、なによりです……」
「なんかちょっと違うなあ。ま、いっか。じゃ、コーヒー淹れてくれる? ぼく、現場でクッキーをもらってきたんだ。一緒に食べよう。おいしいよ」
すっかり、類のペース。実は、夕食の支度時間まで、がっちり勉強しようと思っていたのだが、類がいるとなるとそうもいかない。外で『北澤ルイ』を演じているせいか、家の中での類は極度の甘えん坊で構ってちゃんだ。
着替える暇もなく、さくらは制服のままキッチンに立った。
ホワイトボードの予定表を見ると、今日の類の帰宅予定は十時。五時間以上も早い。
一方、玲は九時になっている。おそらく、玲は類の帰宅予定時間を見て、今日のアルバイトを組んだものと思われる。玲が帰ってくるまで、類と一緒に過ごす不安が心によぎった。
そもそも、あのあやしいアルバイトは、早く辞めたほうが身のためだと思う。いくら高給でも、絶対に誤解を受ける。
類が早く帰ってきたことを、玲に知らせたほうがいいだろうか。けれど、玲には目的があってお金を貯めているのだ。いくらあやしくても、当日の早退なんて、アルバイト先に迷惑がかかる。
今夜はなんとか、ひとりで乗り切ろう。類は、弟。おそれることはない。堂々と、毅然とした態度で。姉らしく振舞う。
そっと、類の様子を窺う。鼻歌まじりでくつろいでいて、上機嫌だ。
ローテーブルの上には、数学や古文の問題集や書きかけのノートが置いてあった。類は、勉強をしていたらしい。高校へ行っていない類が真面目に勉学している姿を、初めて見た。
しかも、広げられている参考書は、かなり難しいやつだ。容姿だけではなくて、偏差値もいい? ……神さまって、不公平だなあ。
さくらはあたたかいコーヒーを、ノートの脇に置いた。
「どうぞ」
「ありがと。さくらも、一緒に飲もうよ」
「そうだね。いただきます」
機嫌を損ねてはならない。おやつを一緒に食べるだけだ。言動には、細心の注意を払わなければならない。
「コーヒー、いい香り。ん? さくら、なんか緊張している? 表情が固いけど」
「そ、そうかな」
「いつもと違う」
天下のカリスマモデルには、小細工が通用しなかった。さくらは、黙ってコーヒーを飲んでカップで顔を隠す。落ち着け。相手は弟。
「今日の夜ごはんは、肉じゃがだよ」
類の視線を避け、話題を変えてみる。
「うれしい。ぼく、さくらのごはんって大好き。玲の作ったやつよりも、百倍おいしい」
「ありがとう」
「さくらは家庭的で、将来いい奥さんになるよね、絶対」
「家事はなんとかできるけど、そうだったら、いいな。でも、仕事を持ちたい希望もあるし」
「へー、どんな仕事を」
類が身を乗り出した。距離が近づいたぶん、さくらの心臓が飛び跳ねる。だが、動揺を見せたら負け。類は他人の弱点に、必ずつけ込んでくる。
「あのね。ひとことでいうと、建築家」
「けんちくかあ?」
「うん、建築士。家を建てたいの」
「家、ねえ。この部屋が、あるじゃん」
「私が作りたいのは、マンションとかビルじゃなくて、個人のお宅。家族が住む場所。変わった環境の家庭に生まれたせいか、家に憧れがあって。家族がいつまでも楽しく過ごせるように、手助けをしたい」
「ふうん、家ねえ。ぼくは、マンションのほうが断然いいけど。戸建てだと、セキュリティに不安が残る。人ん家に不法侵入する追っかけとか、いるんだよ」
将来の夢について、まじめに答えたので笑われるかと思ったのに、類はクッキーを食べる手を止めて考え込んでしまった。
「あ、あのね、たいそうなことを言ってしまったけど、聞き流してくれていいんだよ。私の、勝手な夢だから」
「いいんじゃない。卑屈にならないでよ。ぼく、好きだよ、そういうの。心の底に秘めておく夢もあるけど、誰かに伝えて実現できる夢もあるから」
類は自分の食べかけクッキーを、さくらの口にぎゅっと押し込んだ。
うわあ、間接……!
「さくらの話だけを聞いて終わるのはフェアじゃないから、ぼくの夢も聞かせてあげよう。まずは、きちんと大学生になる。経済か法律を勉強して、母さんの会社を継ぐんだ。しばらくはモデルで社長っていうのもおもしろいけど、モデルはいつか辞める。いつまでも続けられない。容姿だけじゃ、生きられない」
「すごい、類くん。えらい。現時点ですでに超売れっ子なのに、先を見据えているんだね」
「この世界の競争は激しいから、当然。モデルとしての賞味期限が切れないうちに、少しでもたくさん勉強しておきたい。ああ、でもこの話、母さんには内緒にしてね。母さん、ぼくのことをかわいがるけど、言動は全然信用してくれていないし」
「類くんなら、うまくいくよ。聡子さん譲りの快活さに、カリスマ性。社長、向いていると思う。類くんの笑顔で応援すれば、社員さんはたくさん働くよ。私も、類くんの笑顔に励まされているし」
「確かにそうだね。ぼくの笑顔、いつもどこでもすごく喜んでもらえるもん。さくら、間近で笑ってあげようか」
類の中のスイッチが入った。
「恥ずかしがっちゃって。玲もいないことだし、ねえ。さくら、ピンチだね。制服姿も、いいな。萌える。キス以上のこと、もっと教えてあげる」
類のきれいな目が、どんどん近づいてくる。深く考えずにこのまま吸い込まれてしまえたら、どんなにラクだろうか。
いや、だめだ。それはない。類は、弟。
これ以上、妙な噂が広がったら、類の仕事にはさらに支障が出るに違いない。
『さわやかでピュアな少年』なんだから。
「いや、困る。だめ」
「なんで、そんなに拒むの。ぼく、女の子にいやがられたことないんだけど。傷つくよ。なにが、だめなの。みんな、していることだよ。この前はひと晩、仲よく遊んだじゃん」
「この前は、気がゆるんでいたというか、不意を突かれたというか、魔が差したというか」
「魔なのか、ぼくは」
とても悲しそうに、類は眉をひそめた。天使のほほ笑みをどんどん曇らせてゆく。
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