その一杯のために
@nakayui
第1話
桜も新緑に代わるころ、ようやく寒さが和らいだ。汗ばむ陽気に涼しい風が肌に心地よくなって、僕は気がつくと自転車を買っていた。
数年続くアルバイト生活の中で、一番高価な買い物だった。
僕はすぐ、近所の長い緩い下り坂を、ブレーキを掛けずに駆け下りてみた。
耳を塞ぐような音が轟く。向かい風が、湧き出る涙を切った。お陰で流れなくて済んだ。
先月、独りぼっちの狭い家の中で、僕は29回目の誕生日を迎えた。嬉しくなどなかった。
一般的におめでとうと言われたくないほども年はとっていないはずだけれど、その日本屋に行った僕は、『90歳 何がめでたい』とかいうエッセイの前で立ち尽くした。
ただのタイトルなのに、意外と強めの衝撃を受けていたらしい。お陰でその日発売の漫画を買い忘れた。
僕は若いのに使い物にならない。働けなくなった高齢者以上に、惨めで居場所のない人間だ。年をとっても、めでたくもない。
どうにかしたいけれど、何をどうしていいかわからない。
僕の毎日は、僕を雇ってくれる駅前の忙しいカフェと、自宅と、そして夜中のコンビニで始まって終わる。そこからの広がりはない。
僕の仕事はコーヒーを淹れる事なのに、僕の淹れるコーヒーは、誰が淹れても同じ味がする。コーヒーマシンのボタンを押すだけだから当たり前だ。この飲み物は、世の中の経済を回しているたくさんの優秀なお客さんたちの暇な時間が溶けた液体だ。
僕は仕事に誇りややりがいなんて持てていない。
この仕事で良かったことと言えば、売れ残ったパンや食材をもらって帰れるところだ。
深夜コンビニのアルバイトと掛け持ちしても怒る人はいない。
バイト先の仲間は僕より年下の人ばかりだ。浮きたくないから、ジェネレーションギャップなんて感じないフリをして、高校を出たばかりの大学生と一緒になって楽観的な将来の話をしたり、恋愛の話をしたりして、とりあえず職場を楽しんでいる。
僕は永遠の夏休みの中にいる。
子供の頃、あんなに終わってほしくなかったバケーションなのに、気がつくと休みが欲しくても手に入らないと言う社会人に憧れていた。
1日あたり20杯以上も淹れるコーヒーの一杯にも、僕の毎日にも、たいした価値はない。
本当はそれらにだって価値があるはずなのに、感じることができない。その代わり、この世の中から、いてもいなくても一緒だと、言われているように感じる。
辛くてもいい。
僕に価値を付けてくれる何かが欲しい。
何を変えればいい。分からない。
過ぎていく時間が惜しい。
坂を下り切って交差点を突っ切った。信号が赤だったかもしれないが、どうせ車もいなかった。今度は川沿いの道に出た。
下流へ、海に近い方へ。
僕は再び自転車で全力疾走した。
刹那的な昂りに、高校生の頃、同じ感覚になったことがあったことを不意に思い出した。
誰か止めてくれるだろうか、と急に思った。
あの頃のように、ケータイが鳴ったり、友達から呼び止められたりしないだろうか。
そうしたら、どこにも目的地のない放浪のような行動をひとまず止められる。
「そこ! そこの自転車の運転手さん! 止ま
ってください!」
まさか。
本当に呼び止められるとは思わなかった。
その一杯のために @nakayui
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