迷える子羊

百宴らいたぁ

迷える子羊

 救いを求めるもの、手を差し伸べるべきものを人はしばしば子羊と表現する。本来、羊とは自由に自分の道を進む動物なのだそうだ。そうして勝手な方向に行ってしまう。それをイエス様が羊飼いとなり、進むべき方向へ導いた。羊飼いが連れる羊の個数は、段々増していき、やがて大きな群れとなった。それは彼らにとって幸福なことだった。つまり、本来、羊とは、救うべきもののみを表すのではなく、イエス様についていった人間そのものを表している。そして羊の群れとなった人間は、人としての道を歩けない、その道を知らないものを哀れんだ。そして、同じように導こうとした。しかし、彼らは指導者ほど至高な存在ではなかった。導くことに失敗した彼らは、自分が羊飼いになれないと分かると、それを相手のせいにして救うことを諦め、ただの家畜へと成り下がった。そして、彼らは安寧な群れの中から、置き去りにされた者を見て、可哀そうな子羊像を作り上げた。

 「坊や、大丈夫?」

 ここに、気まぐれで、はぐれ者に手を差し伸べる雌羊がいる。その女は、僕に様々な質問を投げかけた。僕がそれに応えないことが分かると、困ったような表情をした。選別である。群れを生成できる一員になれるかどうかの選別である。神聖な羊飼いになれないと悟った彼らは、今度は自分に救える者だけ救おうとした。そして、それを判断する材料として声を大事にした。相手がどんな声を出すかによって、救うか否かを決めるのである。つまりは彼らの手に掬われたくなければ何も言わないのがいい。女は僕にバスケットを残して、いなくなった。その中には、パンが数種類入っていた。僕はそれを持って、その場を立ち去った。

 人里から少し離れた森に小屋が一つ。それが僕の家である。柱は傾き、歪んだ屋根からは、日の光や雨が容赦なく降り注ぐ。僕は、バスケットの中にあったフランスパンをかじった。物に当たることが久しぶりの歯は、その固さに驚いて悲鳴を上げた。口から、直ちにパンをはがし、手持ちのナイフで切り分けようとしたが、ナイフは汚れていて、洗わないと使えそうになかった。僕は、汲んであった水にパンを浸してふやかすことにした。歯はまだ痛みに震えている。せめて柔らかいもので痛みを誤魔化せないかと自分の手を噛んだ。人の肌以外に優しいものはその場になかった。しかし、歯は薄い皮膚を貫いて底の骨にぶち当たる。僕の体には肉なんて贅沢なものはついていなかったのである。僕は群れの彼らには、迷える羊に見えるのだろう。導いてくれる者もなく、自ら群れに飛び込むにも、歓迎される存在ではない。しかし、僕の気持ちとしてはただのペットになるのは至極嫌であった。僕は決して羊なんかではない。水の中からフランスパンを取り出す。ずっしりと重くなったパンはぼろ雑巾のように歪んで崩れ、服の上にぼろぼろと落ちた。服についた色が若干パンに吸い付くようににじんでくる。僕はパンを早めに拾い上げ、口に運んだ。どろっと水分を出して溶けたパンは微かに鉄の味がした。全く美味しくなかった。僕は別のパンに手を伸ばしかじる。それもさびた貧相な味がした。どうやら主は、家畜とならない動物には餌を与える気が無いようである。

 不味い固形物を無理やり喉に流し込む。ふと、バケツが軽くなったのを感じた。中を見てみると、湿って表面がこちらを覗いており、そこに水の一粒もなかった。重い腰を上げ、バケツを持って、石が突き刺す地面を歩いていく。木々は自分の領土を荒らされたくないのか、しきりに枝を揺らして、カサカサの尖った葉を僕に落としていくのだった。風が荒く吹き抜けて植物を鳴らす。それに交じって静かな落ち着きのある細かい水の音が聞こえてきた。この音は、僕を追放しようとするものたちの中で、一番安らかに思えるが、バケツに汲んで持ち帰ろうとすると、僕の腕に多大な圧力をかけるのであった。汲んだ水を運んでいると、木を叩きつける甲高い音が何処からか響いてきた。近くに木こりがいた。木こりは黒光りする斧を大きく振りかぶって、木に制裁を加えていた。

「なんだ、孤児か?」

  木こりはこちらに気づくと怪訝そうな顔をした。

「あげれるものなんて何もねえよ。ほら、行った、行った」

 乱暴な手で僕を払う。この羊は群れの中にいながらも、仲間を増やそうとする気はないようだ。木こりは僕を無視して自分の作業に取り掛かった。僕は群れの中に入る気はないし、入ることもできないだろうが、何かおこぼれくらいは欲しかった。そして、彼らの主導者である羊飼いは誰かに施しを与えることを良しとする。そしてその方向に羊も一緒についていく。いくら面倒なことが嫌いでも、群れの中にいる限り、彼らは自分が然るべき道からずれることに良心の呵責を感じる。まさしく木こりもそうであったのだろう。僕が黙って木こりの方を見つめていると、さすがに根負したのか、僕に近づいてきた。

「ほら、何もないだろ。いい加減にしてくれ」

 彼は半ば諦めたように、自分の手をぶらぶらさせて、何も持ってないことを主張する。僕は黙って木こりの顔を見つめる。僕に近づいた木こりは、僕の汚れた服を見ると、みるみるうちに顔を青くした。口元や目尻を歪ませて、化け物を見るかのような表情で、僕から離れた。木こりの走り去る姿が見えなくなると、僕は木こりの残した水筒を首にかけた。他にも木こりは、日を反射させるほどの綺麗な刃の斧を残していったが、これは僕には重すぎて使えない。僕は近くの木に赤い実がなっているのを発見し、手の届く範囲内の枝を何本か切って持ち帰ることにした。こういうときに使えるナイフは、例え汚れていたとしても、便利である。斧なんかより、こっちの方が断然良い。様々な用途に使える。そう思いながら、枝を切っていると、その一本が僕の腕をかすって、袖を切り裂いた。そして、自分の服がもうぼろぼろになっていることに気づいた。黒や茶色のしみが纏わりついていて、あるところは赤っぽくなっている。確かにこんな格好なら、木こりが僕の側に寄りたくなかった気持ちもわかる。僕は木こりの服を一枚貰うことにした。僕にとっては大きすぎる服だった。僕は家に戻ると、少し服の裾を切って、大きさを調整した。切った裾は、毛布代わりとなった。辺りはすっかり暗くなって、視界も段々狭まっていく。空はやけに静かで、月の光も僅かであった。

こんな夜、羊飼いたちは、羊が狼の餌にならないような入念な対策をしているのであろう。しかし、彼らは狼が動くのが夜だけでないことを知らない。

 今日も食料調達のために街に出る。昨日は、運よく僕に立ち止まってくれる人がいたが、毎日、おこぼれがもらえるわけでもない。羊たちは非常に呑気で、自分たちの群れに招待するか否かは、そのときの気分次第で決まるのであった。それでも、何匹か自分の主導者を真似しようとするものはでてくる。僕はそれを期待して、ひとけのない裏道をぽつぽつ歩いた。烏が群がるゴミの中にも、食料の欠片はあるが、それだけでは僕の腹は満たされない。石レンガの冷たい感触が足の裏に伝わってくる。昨日行った所の方が人も物もあふれ返っているだろうが、僕は同じ場所を周るわけにはいかなかった。そうやって、前日とは別の餌場を求めていくごとに、僕の首は締まっていった。人の多い地区は、もう行き尽くしてしまったため、最近は人も物も少ない場所を淡々と歩き続ける結果となった。しかし、人が少ない場所は、長く滞在しても問題になることない。それが唯一の救いだった。しばらく歩いていると、見覚えのない景色と出会ってしまった。こうなると、自分の家に戻るに辛くなる。段々、家から遠い所を歩くようになって、帰る時間も遅くなっていった。そろそろ戻らないと、夜になってしまう。僕が引き返そうとしたとき、背中に声がかけられた。

「あなた、ちょっと待ちなさい」

 その言葉に脳が警戒する。僕は逃げようとした。しかし、予想外の力に腕が引っ張られ、体が後転する。その声の主は、僕に落ち着くよう言い聞かせ、それから僕の顔をのぞきこみ、パンを差し出した。見れば、修道女だった。

 修道女。羊飼いの忠実なしもべみたいなものだろう。散々飼いならされている分、他の者たちよりもはぐれ者を導こうとする意志が強い。僕には、都合の悪い相手であった。僕はいつものように黙り込んだ。

「私はね、そこの教会で孤児を引き取っているの」

 これは厄介である。人の多いところには行きたくない。僕はただパンを見つめる。おそらく、これは、教会に連れていくための餌であろう。ただ黙っているだけでは、容赦なく羊の群れの中に押し込まれる。僕は、修道女が動く前に、行動を起こそうとした。他の人と同じように、何かしらの物資は残してくれるであろう。しかし、そんな僕の計画は掻き消されてしまった。遠くから数人の声が聞こえてきた。それは、一人の女と、ニ、三人の子供で構成されていた。彼らが近づいてくる。

「どうされました?」

「いえ、新しい子が」

 修道女は僕の腕を引っ張って、女たちに見せびらかした。

「あら、これで五人目ね」

 どうやら、孤児を引き取ると言っても、元々寂れた地区であったため、孤児自体の数が少ないらしい。正確には、生きてる孤児が少ないのだろう。この修道女のところにもその程度の人数しかいないようだった。そして、その世話をしているのも、この修道女と女の二人だけのようである。僕は思わぬ幸運に、久しぶりに口を三日月形にする。これはちゃんと雨風しのげる住居がもらえるかもしれない。まず、彼らの拠点にどれだけ食料があって、どのように生活しているかを知る必要がある。街に出る頻度や、多くの人と関わって過ごしているか否かを確かめなければならない。僕は、修道女の手からパンをはぎ取った。

「あ、乱暴」

と女が連れている子供らが僕を貶す。

「こら、仲良くしなさい」

 と修道女が叱る。そして、僕の方を見て

「これから、私たちの言うことを良く聞くようにするんだよ。一緒に暮らすのだから」

と言った。僕は無視した。飼いならされるつもりも、羊になるつもりもさらさらなかった。

 教会といっても、農家の隣に少し大きめの一軒家のようなものがある程度だった。修道女は夕飯の準備を手伝うよう僕に言った。農家の裏側の小屋にパンや、小麦粉などある程度のものが揃っていた。僕がパンを教会に持っていこうとすると、喉をすりつぶすような獣の鳴き声が聞こえた。声のなる方を覗いてみると、小屋の中で、子供の一人が羊に餌をやっていた。そいつは僕に気づくと、頼んでもないのに説明しだす。

「珍しいだろ。山羊じゃなくて羊って。一匹迷い込んできたらしいんだ」

 僕は白い毛むくじゃらを見つめる。羊は、僕を見るなり、隅っこの方へ駈け込んで怯えるように縮こまった。

「あれ、おかしいな。そんな人見知りだったけ、こいつ」

 やはり僕は羊とは分かり合う気がしない。

「あ、おまえ、そんな物騒なもん、持ってるから」

と、彼は僕のナイフを指さした。どうやらこの羊は、これが危ないものだと理解できるらしい。僕は、この羊に少し関心したのだった。すると、修道女の掛け声が聞こえてきた。僕たちは食卓に向かった。食卓にはきちんと木の器が並べられていた。それと同様に人も決められた場所に座る。彼らは手を合わせ、栄光なる羊飼いに祈りを捧げる。僕は、無視して勝手に食べ始めた。そして、早々に食べ終わり、自分の寝床に行って目をつぶった。僕を迷える羊として招き入れた修道女たちは、それを温かい目で見守った。

 起きろ、とある荒々しい声で目覚める。吹き抜けの小屋に比べて、鳥の声がうるさくない。朝だと気づかなかった。僕を起こしたのは、昨日話したのとは別のもう一人の子供だった。

「ほら、街に施しをもらいに行くぞ」

 と無理やり僕を教会の外に連れ出した。どうやら、食料はそうやって手に入れてるらしい。農家で作っても足りない分は、街に出て、教会か町人やらにたかるようだ。僕は安心した。この生活ぶりだとあまり人と関わることは無いようだ。

「ねぇ、あの教会の周りに、人はいない?」

 と、慣れない言葉を僕は話す。そいつは、僕が喋ったことに驚き、しばらく硬直していたが、落ち着きを取り戻し、僕の質問に答えはじめた。

「いないよ。俺らだけで生活してる」

 都合がいい。

「じゃぁ、なんで、あんなとこ住んでるの」

「丁度いい土地だったんだよ。畑も使い古されてないし。森は近いし。あと、街に近いと、俺らみたいなのを毛嫌いする奴もいるから」

 と、彼がある程度、説明したところで、人影が見えた。それに気づいた彼は、餌をたかりにいく。そこに成人男性が一人。その人は、食べ物と酒瓶が入ったような籠を持っていた。彼は、これは自分のものだというように、頑として子供に施しを与えようとしない。様々な交渉の末、田舎教会の子は諦めた様子でこちらに帰ってくる。

「おい、ダメだ。大人しく、街の教会に向かうぞ」

 僕はそれを無視して男性に近づいた。僕は普段している、僕特有の人との接触を試みた。先日の女も木こりも、そのおかげで僕に物資を置いて行ってくれたのである。この男も例外ではなかった。彼は、食べ物と酒瓶を僕に渡すこととなった。その中に林檎があったので、まさに今、使ったばかりのナイフを拭いて、それで林檎を細かく切って食べた。僕の歯は、それを丸かじりできるほど丈夫ではない。林檎は、やはり、少し鉄のような味が染みついてしまっていたが、心地よい歯ごたえと、口の中に充満する爽やかな甘さが、それを打ち消した。久しぶりの味のあるものに満足して、僕は、すっかり、隣にいる子共のことを忘れていた。彼は、僕を見て悲鳴を上げた。

 僕は街に行かずに、来た道を戻った。とりあえず、男からもらった籠を持って、修道女たちの待つ教会に向かった。教会の扉をたたくと、

「あら、早かったわね」

 と女が出てきた。

「あら、あの子はどこ? 一緒に出掛けたんじゃなかったの? ……その服の汚れ」

 羊のような草食動物でも、群れを呼ばれると厄介なことになる。僕は、彼女が叫び出すのを防ぐべく、早々に黙らせた。彼女は何も話さなくなった。一緒に街へ出たあの子供には、大いに声を上げさせてしまったが、運よく、その周りには誰もいなかった。僕は彼を黙らせて、その場に置いてきた。そして、ここに戻ってきたのである。食料はある程度あるし、周囲には人がいない。彼らは、多くの人と接してるわけでもない。羊飼いも、羊も、群れの一匹一匹を把握するほど優秀ではない。群れから、少し離れて歩いている羊は、狼にとって恰好の餌となる。彼らは僕の餌となった。修道女が、僕が帰ってきたようだと、こちらに近づいてくる音がする。彼女は、遠くから、赤く染まった床を見て、状況が呑み込めないように、固まった。そして、狼と羊のかけっこが始まった。羊は叫びながら、教会内をくるくる回る。しかし、震える足では逃げようにも逃げられない。狼が、鈍い動きの羊の首元に噛みつくと、羊はぱったりと倒れて息をしなくなった。騒ぎを駆け付けてか、最後の一人もこちらに向かってくる。彼は、恐怖を顔に張り付けたかと思うと、諦めたようにその場に腰を下ろした。

 僕は錆びた匂いの住居を手に入れた。ここなら、雨風しのげるし、食べ物もある。しばらくは楽をして生きていけるだろう。羊飼いに統制された羊は、迷うことはなくなったが、自由を奪われた。そして、群れという安全圏の中で暮らしていき、いつしか自然というものを忘れてしまった。一方、はぐれた羊は、自分勝手に行動することができるが、群れとは別の生き方を強いられることになる。そして、それは、もう群れを成す羊とは別の動物とされていた。

僕は、外に出て、彼らを埋めることにした。ふと、何かに見られていることに気づく。あいつが世話していた羊が勝手に小屋を抜け出してきた。羊は、そのまま森の方へ走り去っていった。あの羊は、ちゃんと駆け回ることを覚えているようだった。


 


 

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