第16話 手段を選ぶことなかれ

 ザシャが侍女に案内されたのは王家専用の風呂場だった。旅先で使った風呂はもちろんのこと、自宅の風呂とも比較にならないくらい立派だ。最も目を引くのは浴槽で、数人が入っても手足を伸ばせる。これを満たす湯の量は圧倒的だった。


「何もかもが違いすぎて、もう別世界だな」


 王宮内のどれもが世間と隔絶したものだが、それらはザシャにとってある程度見慣れたものだった。対して浴室は今回初めてだ。予想できたとはいえ、いざ体験してみるとため息しか出ない。


「改めて思うが、本当に身分違いの奴と親友なんだ」


 体に湯をかけて軽くこすり、垢を出す。これを繰り返して体をきれいにしたザシャは浴槽に入った。少し熱めな湯だったが、その顔が緩む。


「旅してたときは全然気にならなかったが、帰ってきてからは意識するようになったっけ」


 王国に帰還した後、クリスとの付き合いで王宮に住むようになってから、住む世界が違うことをザシャは意識するようになった。


「王位継承争いが終わったら」


 メルヒオールが勝利すれば、アードラー家はどんなに良くても僻地へ追放だろう。だが、ザシャの場合は一介の子爵家の三男坊でしかないので、事故死ということはありえる。


 逆に、クリスが勝利すれば、側近として登用されるだろう。ザシャは常にクリスの側にいることになる。そして、誰かと結婚し、次代の国王を生むのだろう。クリスにとってそれは何より重要な義務だ。


「あ」


 そこまで考えて、ようやく気付いた。クリスは必ず世継ぎを生まなければならないのだ。では誰の子を産むのか? もちろん、しかるべき人物のである。では、その人物とは誰なのか? 少なくとも自分ではない。身分差がありすぎる。


「なんだ、今の?」


 一瞬、胸の奥が痛かったような気がする。どうしてかはわからない。親友に対して、今自分は何と思ったのか?


「そういえば、魔王との決戦前に」


 クリスはとても大切な告白をした。当時のザシャには婚約者がおり、クリスは男だった。断られることを承知の上でそれでも伝えたのは、どうしてだったのか。


「あいつ、すごいな。俺だったら、絶対できないよなぁ」


 戦いのときに求められる勇気とはまた違った勇気を奮わなければならない。それはザシャには絶対できないことだった。それをクリスはやってのけた。それなのに、自分はどんな態度をとったのか、どんな返事をしたのか。


「俺はまだ」


 今、ザシャは大切なことを思い出した。自分がクリスに何も答えていないことに。


 しかし、ザシャはまだ答えを持ち合わせていない。今まで考えてこなかったから。


 不誠実であることはわかっている。しかし、すぐ結論を出せるほど熟慮していない。


「真面目に考えないと」


「ザシャ入ってるー?」


 ザシャの弛緩した体が一気に起き上がる。今、一番聞いてはいけない声が耳に入った。


 思わず振り向くと、大判のタオルを胴に巻いたクリスがこちらに寄ってくるのが見えた。


「あ、いた! ちゃんと入ってくれていたんだね!」


「いやさすがにこれはダメだろう!?」


「どうして? 旅のときはよく一緒に水浴びしたじゃない」


「着替えのときにも言ったよな!? お前女になってるだろ! なんで男の感覚のままなんだよ! 絶対わざとやってるよな!」


 猛烈に抗議するザシャを無視して、クリスは浴槽に入って隣に座った。間は拳ひとつ分程度、少し体を傾ければ接触する。


 ザシャは無言で距離を取る。それを見たクリスは、口を尖らせて同じだけ寄った。


「なんで近づくんだよ」


「ザシャが離れるからだよ」


 あまりにも当然だと言わんばかりのクリスの言葉に、ザシャは一瞬考え込む。しかし、すぐに首を横に振った。


「危ねぇ。一瞬納得しかけた」


「そのまま納得しちゃえばよかったのに。あんまりボクを遠ざけようとすると、侍女に泣きつくからね。脱衣場で待たせてあるから」


 脱出不可能であると宣告されたザシャは、目を見開いてクリスを見た。


「そこまでするか」


「だって、なんだかんだって言ってすぐ逃げるじゃない」


「そうだな。今までずっと逃げてたもんな。信用なんてないか」


「あれ、ザシャ?」


 普段と反応が違うことに気付いたクリスが、不思議そうにザシャの横がをを見る。


「王宮内はどこも他とは別格だが、風呂場もやっぱり違うな」


「そうだね。まぁ、国中の富を集めて作らせたんだから、当然かな」


「お前が国王になったら毎日ここを使うのか」


「どうなんだろう。部屋で体を拭いて済ませるかもしれないよ。面倒に思えるときもあるからね。特に夏なんてお湯につかりたいと思わないし」


「旅先じゃ何日も体を洗わないことなんてザラだったもんな」


「最初はあれがイヤでたまらなかったよ。気持ち悪いのなんのって」


 顔をしかめながらクリスは軽く首を横に振った。それを見たザシャが笑う。


「たまに愚痴ってたな。俺も言うほど慣れてたわけじゃないけど、クリスは特になぁ」


「今ではいい思い出だよ。それに、これからは毎日体を拭くのもお風呂に入るのも好きなだけできるもんね!」


 クリスは嬉しそうに湯の中で脚をゆっくりばたつかせた。


「俺も帰ってきてから風呂に入れたのは嬉しかったなぁ。家だとここみたいに脚は伸ばせないが、それでも安心して入れるのは何よりだからな」


「警戒しながらだと気が休まらないもんね。旅先だとせっかくのお風呂なのに、単に体を洗うだけだったから本当に残念だったよ」


「俺、帰還後最初に入った風呂で寝ちまったんだよな」


「ザシャもなんだ! ボクも! 湯船に沈んで溺れかけたよ」


「そこまで一緒か! せっかく魔王を倒したのに風呂で溺死なんて、締まらないよな!」


「ほんとだよね! 誰も見てなかったけど、恥ずかしかったなぁ」


 二人とも顔を向けて笑い合う。


「そう言えば、結局警護のときの風呂の問題をどうするか、決めてなかったな」


「今更そんなこと言うの? もう一緒に入ってるじゃない」


「いやこれは特別だろ」


「一回やったら後はおんなじだって、以前言ってたでしょ」


「それは女の話、って、お前、それ狙って今回仕組んだのか!?」


「仕組んだなんて人聞きの悪い。たまたまだよ」


「お前の侍女に案内されて、俺はここに入ったんだが?」


「タマタマデスヨー」


「すっげぇ棒読みだな! 俺が引き返そうとしたら、あの侍女泣きついてきたぞ! しかも俺を風呂に入れられなかったら、後で何をされるのかって最後まで口を割らなかったし」


「すばらしい、侍女の鏡だね! 後でご褒美をあげなきゃ!」


「お前たまにものすごく王族らしくなるよな」


「ふふ、王子様だもん」


 上機嫌なクリスを見るザシャの顔が引きつる。


「護衛を気軽にこんなご大層なところへ入れるなよ。他の王族がやって来たら大事だぞ」


「大丈夫、ちゃんとみんなの予定は把握してるから。今日は誰もやって来ないよ」


「そうかよ」


「それに、そんなこと気にしなくてもよくなる方法があるじゃない。ザシャがその気になってくれたら、毎日一人でも入れるよ?」


 いきなり本題を突き付けられたザシャは、クリスから視線を話して言葉に詰まる。


 クリスもまっすぐ風呂場の壁に視線を移した。その表情は穏やかだ。


「そんなこと言われても、俺にとってお前はまだ男なんだよ」


「男、男って、ボクはもう女だよ?」


「正直まだよくわかんねぇ。どうしたらいいんだよ」


 呟くようにザシャが口を開いたのは、しばらくしてからだった。その表情は少しゆがんでいる。クリスはちらりと視線を向けたが、何も言わなかった。

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