第9話 「町娘」(@musume_book 様)

 はらり、と頁をめくる。


『帰る波の音の 須磨の浦かけて 吹くやうしろの山颪 関路の鳥も声声に 夢も後なく夜も明けて 村雨と聞きしもけさ見れば 松風ばかりや残るらん』

(能『松風』よりワキのトメ拍子)


 待つとし聞かば、あの人は帰ってきてくれるだろうか。


 さらさらと、初夏の風が松葉を揺らす。恋は、人を詩人にすると言う。切ない恋は、尚更のこと。昔の人が歌を詠んでいたのは、伊達や酔狂ではなく、そうせずには居られない狂おしさがあったからではないだろうか。


 ある晴れた日に、と歌いながら待っていた美しい人の事を思い出す。海の向こうから、高いマストが見えて来るのではないかと、坂の街で海を眺め続けた人。彼女の生はあまりにも刹那的で、愚かにも見える。「忘れてしまいなさい」「別の人と幸せにおなりなさい」彼女にそう言った人は何人も居たではないか。


 しかし、彼女はそれを選ばなかった。


 恋を殺すのに必要なのは、何だろうか。あるいは、興醒めすることかも知れないと思う。恋しい人に愛想を尽かすのは、難しい。逢えばそれだけで嬉しく、逢えなければ想いが募る。


 「焼くや藻塩の・・・・・・」ふと唇から零れた声を、松風がさらっていく。

 

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