第10話 日常

 翌朝、梅干しを入れただけのおにぎりを食べた鈴ちゃんは、駆け足で学校に登校していった。


 部屋で一人きりとなった僕は、着替えも終わって在宅用のディスクの前に座ると、パソコンの電源を入れる。ブンとファンが回る音がして、数瞬遅れてディスプレイにOSのマークが表示された。


 ブラウザを立ち上げて勤怠管理ツールで出勤の打刻をしてから、チャットアプリを立ち上げた。何度も繰り返した作業だから無意識のうちに手が動く。


 静かな部屋でカタカタカタと音を出しながら、メッセージを打ち込んだ。


『おはようございます。本日からリモートで働きます』


『よろしくね』


 普通よりも30分早く出勤したのに、先輩の小早川さんが挨拶を返してくれた。多分、電車の中から携帯電話を使って書いてくれたんだともうんだけど、勤務時間外に仕事をさせてしまって、軽率に発言をしたことに少しだけ後悔をしてしまった。


 後輩に対する面倒見の良さは、文字や反応の早さからも伝わってくる。

 これが社内で人気の秘密だろう。


「とりあえず、仕事をするかな」


 引っ越しとともに、小早川先輩が管理している新しいプロジェクトに参加することになったので、先ずは資料を読んで、理解する時間を作ることにした。


 サービスの概要から仕様までを確認。僕はフロントサイド――アプリやブラウザ等で動作するプログラムを書くエンジニアだけど、勉強の一環としてサーバやネットワークの構成を把握するようにしている。


 必要な知識が足りないから、理解するのにすごく時間がかかるけどね。新人の僕には高度すぎて、分からないことの方が多く、調べながら内容を確認しているレベルだ。


 それでも幸運なことに尊敬できる方々が身近にいるので、どうしても分からないことは、チャットツールで先輩エンジニアに質問をする。そのときに注しなければいけないことは、どうやって調べたことを伝えるのと、具体的に何が分からないのか伝えることだ。よく分からないから質問しました、は許されない。


 クーラーの効いた静かな室内でキーボードを叩く音が鳴り響く。外から見れば孤独で、寂しい生活に見えるかもしれない。


 でもチャットツールでは先輩の方々や同期とチャットで会話をしているので、寂しくはないし、むしろ気楽で楽しいと思ってしまう。


『バグが見つかったので修正お願いします。詳細はレポートを見てください』


『対応します!』


 先輩の指示に従って、レポートを確認する。バグと入っても簡単な内容だったので、プロジェクトに入ったばかりの僕でもできる仕事というわけだ。


 3時間かけて書き上げて、チャットで完成報告をする。他のエンジニアに内容をチェックしてもらって、問題なければ次に公開するアプリに追加される予定だ。


 ふと視線を画面から離して壁に掛けられた古びた時計を見る。


「お昼を食べるかな」


 時刻は13時。食べ物を探して台所にきてみたけど、長ネギが一本しか残っていなかった。手に取ってみたけど、これをボリボリ食べたくはない。


「食材がない……」


 他に何かないかなと、棚を開けて探してみるけど、物の見事に空になっていた。


「インスタント食品もない。外食するには遠すぎるし、東京に住んでいた感覚で生活してたら、すぐに干からびちゃいそう」


 歩いて数分でコンビニや飲食店のある感覚が全く抜けてなかった。休憩時間でご飯を食べるにはちょっと工夫しなければいけない。具体的には、お店でご飯を買ったら食い歩きして帰るといった具合だ。


 よし、計画が決まれば、すぐに行動! 靴をはいて外に出る。

 今日は平日で観光客はほとんど見かけない。いつも以上に寂しい道を早歩きで進む。


「こんにちはー!」


 二軒隣に住んでいる三重おばあちゃんがいたので、挨拶をする。腰が曲がって杖を使って歩いているけど、元気な人で、よく歩き回っている。


 新しい住民である僕が受け入れられている証としてなのか、笑顔で手を振ってくれた。当然、こちらも同じように返す。


 道中は、そんな短いやりとりを何度か繰り返して、ようやくお店に到着した。


 狭い店内にはテレビを見ながら店番をしている、おじいさんが一人居るだけだ。僕の存在に気づいているのか、気づいていないのか分からないけど、反応は一切ない。


 全く動かないので、最初見たときは置物かと思ってしまった。


「おじゃましますー」


 中に入り物色する。一人日用品から食品、玩具までいろんなジャンルはあるけど、それごとの種類は少ない。食品で言えばカップラーメンか焼きそばパンしかおいてなかった。


 悩む時間が省略できたと思うことにして、それぞれ2個つほど手に取って、レジ前に置いた。


「これください」


 声を出して数秒後、ようやくこっちを向いてくれた。


「…………ーん? なんじゃ?」


「え、あの、カップラーメンと焼きそばを買いたいんですが……」


「…………客か?」


「あ、はい……」


 期待していた返事は帰ってこない。

 興味をなくしたかのように、店番のおじさんは再びテレビの方を見て黙ってしまった。


 小さなため息を吐き出してから、お札を取り出してカウンターの上に置く。


「1000円です」


「…………」


 僕の声、お金に一切反応しない。テレビだけを見続けている。笑ったり、悲しんだり、憤ったり、そんな感情の動きがあれば、まだ分かるんだけど、おじいさんは無表情のままだ。


「……………………はぁ」


 根負けした。お釣りをもらうのは諦めよう。


 ビニール袋や割り箸と入ったコンビニだったら当たり前のように渡される物も、ここにはない。千円札を置いたままカップラメーンと焼きそばパンを直接持つと、お店を出ることにした。


 時間に追われている僕は、なんだか納得がいかない気持ちを抱いたまま、食べながら歩いている。同じ道を歩いているけど、不思議と帰り道では人と会うことはなかった。ちょっと前まで、何人もの人と挨拶を交わしていたのに。言い知れぬ寂しさを覚える。


 まぁそんな気持ち、今の僕には関係はない。早いく戻らなければ休憩時間が終わってしまうのだから。


 意識的に歩く速度を上げる。少ししたら、お店と家の中間ぐらいの地点にあるブロック塀に囲まれた細い道に到着した。


「ん?」


 ふと、誰かに見られているような感覚がした。

 歩きながら後ろを見たけど、当然のように誰もいない。


 昨日も同じようなことがあったけど、何というか体に絡みつくような、品定めされているようで落ち着かない。なぜか足が止まってしまった。


 日常を切り取り、奪い取られたようで、心拍数はドンドン上がっている。


 うっすらと全身に汗をかいているし、体も少し震えている。平衡感覚が崩れてしまいそうになるのを、なんとか踏ん張って耐える。心の底からじわりと恐怖が湧き出てきた。


 視線に敵意があるかどうかなんて分からないけど、決して良いものではないことは、体調と精神の変化から嫌でも理解させられた。


 気持ちを落ち着かせるために深呼吸を何度もする。五回、六回と繰り返していくうちに、少しだけマシになったように思えた。


 ようやく体が動かせそうになったので、もう一度、後ろを見る。


 ――やはり何もなかった。一本道の通路だけ。誰もいない。


 よかった、見られているというのは気のせいだったようだ。


 ふぅと、安堵の息を吐いてから帰るために前を向いて、


「……ッ!」


 息が詰まり、手に持っていたカップラーメンを落とした。


 つい数秒前まで誰もいなかった道の真ん中に、白装束を着た人らしきものが立っていたのだ。


 地面にまで届きそうな黒い髪はワカメのようにウェーブがかかっている。一見すると女性のように見えるけど、男性といわれても不思議ではない。下を向いているようで、顔は分からないのが、より不気味な感じを強調していた。


 無言のまま、こっちに向かって歩いてくる。


 一歩、二歩と距離が短くなり、頭の中で危険だとサイレンが鳴り響く。


 逃げようと足を動かそうとしたけど、逆に力が抜けてしまって尻餅をついてしまった。汗はもう出ていない。体温が急激に下がっているからだ。


 ガチガチうるさいなと思ったら、発生場所は僕の歯だった。口の中が乾いて喉がひりつく。


 状況を把握するので精一杯で、気づいたら、あと数メートルで接触する距離になっていた。徐々に耐えられなくなり思考が鈍くなる中で、思わず目を閉じてしまう。


 ガンッ。


 乾いた音がした。


 ガンッ。


 もう一度、同じ音がした。

 耐えきれなくなって、覚悟を決めて目を開く。


「な、なに――」


 声を出したことで咳き込んでしまったけど、視線をそらすことはできない。


 白装束の存在が、見えない壁に当たっているかのように、前に進めず止まっているのだ。


 パントマイムを披露するかのようにドンッ、ドンッっと、何かを叩き、空気全体が震えている。


「誰、なんだ?」


 そんな疑問が浮かぶぐらいには心に余裕のできた僕だけど、未だに体の震えは止まらない。理由のない嫌悪感などが湧き出てくるところから、悪化したかもしれなかった。


「え……」


 しまった! そんなことを考えるぐらいであれば、速く逃げ出すべきだった!

 ガラスが割れるような音が鳴ったかと思うと、再び白装束の存在が歩き出す。


 足から体、腕、頭の流れで全身に鳥肌が立つ。ムワっとした磯の臭いが全身を包み込み、呼吸すらままならない。意識を失いそうになる。


 情けないことに、何でアイツは全身濡れているのだろうと、現実逃避をして待つしかなかった。


 そんな時、ここ数日で聞きなれた、心が安らぐ声が僕の耳に届く。


「雪久おじさん……? 何しているの?」


 残った気力を振り絞って首を動かし、後ろを向く。

 赤いランドセルを背負った鈴ちゃんが僕を見下ろしていた。


 ちょっと間抜けな表情をしている彼女を見て、体にまとわりつく何かがなくなり、思考、感情が戻る。そして、今、何を優先しなければいけないのか思い出した。


 鈴ちゃんを守らなければ……!


「ここは危ないから逃げ……」


 立ち上がって前を向くと、白装束の存在は消えていた。


 いつのまにか震えは止まっていて、さっきまで全身を支配していた恐怖、嫌悪感はない。


 幻や幻覚だったで終わらせたい気持ちを、濡れて黒くなった地面が許さなかった。先ほどの存在は間違いなく、この場にいたのだ。

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