136. 二年半ぶり 5/5 ― 無謀な挑戦 (隼人)


「すみませんねえ。道着を貸してもらったうえ、準備運動にまで付き合ってもらって」


「久しぶりに隼人はやとと稽古ができて嬉しいので、構わないんですけど……。本当にやるんですか?」


「もうお願いしてしまいましたから」


律穂りつほさんは、旦那様と同じくらい強いって話なんですよ? その律穂さんとだなんて……」


 黒羽くろはの心配そうな顔を汗が伝い落ちた。黒羽は自分のタオルで床を拭いた。


「無謀……ですよねえ。怪我をしたら大変ですし、やめておこうと思ったんですけど。暇になったと聞いて。つい」


「ついって……」


「だって『千手観音せんじゅかんのん』ですよ? 一度は手合わせしてみたいじゃないですか」


「ええ~。私は思いませんけど……」


 昼食をとっているときに、旦那様と律穂さんが仕事の話をしていた。予定していた仕事がなくなり、手が空いたとのことだった。

 考えるより先に、口が動いてしまった。律穂さんに手合わせを願っていた。


 みんな驚いていた。黒羽は箸を落としていた。


 律穂さんはうなずいてくれた。昼食後、時間をおいてからということになった。


「『鬼神きしん』の旦那様には、お願いしたことないですよね?」


「そうですねえ。考えたこともありませんね」


「……どうしてですか?」


「うーん……。目の前にすでに高い壁があったから、ですかねえ。剣術に関しては、大地だいちさんがいましたから。旦那様が体術部もかけ持ちしていたのは、知ってましたけど。剣術のイメージが強くて。剣術は『鬼神』、体術は『千手観音』ってイメージだったんですよねえ。聞いた噂がそうでしたから」


菖蒲あやめ様の話によると、どちらも体術部発祥ですけど」


「不思議ですねえ。どこで変わったんでしょうね」


「……隼人って、怖いもの知らずだったんですね」


「そんなことありませんよ。ちゃんと怖いですよ」


「そうは見えないんですけど……」


 黒羽はそう言いながら、道場の出入り口に顔を向けた。


 話し声が近づいてきた。律穂さん、旦那様、菖蒲さんだ。

 菖蒲さんは中に入ると、こちらに駆け寄ってきた。首にタオルを数本かけている。


「隼人、もういっぱい汗かいてる! やる気満々だね!」


「挑戦者ですからね」


「黒羽もいっぱい汗かいてる……。うーん。来るのが、ちょっと遅かったか~」


 菖蒲さんは黒羽のことを眺めて、残念そうな顔をした。


「黒羽が汗かいてるとダメなんですか?」


「久しぶりに、背中でグルッてやりたかったなあって」


「ふふ、なるほど。シャワーを浴びたあとか、明日はどうですか?」


「うん!」


 菖蒲さんは、にこっと微笑んだ。黒羽のタオルを手に取ると、黒羽の汗を拭きはじめた。黒羽は嬉しそうに目を細めている。


(二人とも、体は大きくなりましたけど、こういうところは変わりませんねえ。微笑ましい)


 旦那様と律穂さんに目を向けた。黙々と準備運動をしている。


「はあ~~」大きく息を吐いた。


「どうしたの?」菖蒲さんは、黒羽の顔を拭きながら、顔だけこちらに向けた。


「少し緊張してきました」


「そうなの? 前は大地としょっちゅう練習試合みたいなのやってたよね? 体術の道場ではやったりしないの?」


 向こうに移り住んで、数ヵ月後。学習学校の近くに体術の道場を見つけた。運動不足解消のため、そこに通っている。


「乱取りはしてるんですけどねえ。相手が相手ですから……」


 もう一度大きく息を吐き、肩や首などを回した。


「ま、まま、間に合いましたね」


「しょ……、じゃなくて、お嬢様」

「なんか緊張してきた」


「なんで、一護いちごが緊張するんだよ」


 悠子ゆうこさん、一加いちかさんと一護くん、しげるくんが入ってきた。悠子さんはコップやマグカップを乗せたお盆を、一加さんと一護くんはヤカンを一つずつ、茂くんは救急箱を持っている。道場のすみにそれらを置くと、壁伝いにこちらに歩いてきた。


 菖蒲さんが黒羽の首にタオルをかけると、一加さんと一護くんは、菖蒲さんの腕にしがみついた。菖蒲さんは、一加さんたちに小さい声で問いかけた。


「二人とも、来て大丈夫なの?」


「大丈夫だよ。お嬢様がいるもん」

「これは見ておかないと」


「本当に? 見てるだけでも、結構痛いよ? 一護、怖い夢見たばっかりでしょ? 無理してない?」


「してない。ダメだと思ったら戻るから」


「ならいいんだけど……」


「怖い夢見ちゃったから、今夜は一緒ね!」

「そうだよ。今夜は一緒に眠るから大丈夫」


「そっか。じゃあ、一緒に見学しよう」


「うん」

「うん」


「見学が多くて照れますねえ」


「隼人さん、頑張って」

「応援してます」


「ええ。頑張りますね」


「俺、こういうの見るの初めて。すげー、楽しみ」


「そうなんですね。一瞬で終わらないよう、頑張りますね」


「一瞬?」茂くんは不思議そうな顔をした。


「隼人、はじめよう」


「はい。それじゃ、いってきますね」


 旦那様に呼ばれたので、道場の中央へと歩みでた。



 律穂さんと向かい合い、一礼した。旦那様が「はじめっ」と声を上げた。


(これは……、想像以上ですね……)


 格上の相手と向き合うのは慣れている。大地さんと何度も剣を交えてきた。


(この威圧感……。背が高い……だけではありませんね)


 律穂さんは大地さんよりも背が高い。


(隙が……ないですね。『鬼神』は噂通り強かったですから、『千手観音』も噂通り……。旦那様と同じくらい……。旦那様の体術は見たことありませんけど、剣術があれだけ強いで――)


 律穂さんの体が急に大きくなった。スッと静かに間合いを詰められていた。


 視界の左端に何かが入った。


 前に踏み込んだ。それがなんなのかを認識する前に体が動いた。


 律穂さんの横を通り抜け、背後を取った――。


 ダダンッ!!


「ぐっ!!」


 背中に衝撃を受けた。


 何が起きたのか、わからなかった。なぜか、私を見下ろす律穂さんの顔、その後ろに天井が見えた。


 投げられていた。


「大丈夫が?」


「だ、大丈夫です」


 律穂さんの手が胸元とそでから離れた。自分の体の状態を確認しながら立ち上がった。

 床に体がついた瞬間に、少し引き上げてくれたのだろう。それほど背中にダメージはない。


 呼吸を整えながら、みんなのことを見回した。旦那様と黒羽と菖蒲さん以外は、目を見開き、口を開けるか押さえるかしている。菖蒲さんは、旦那様と大地さんの稽古を何回も見ている。驚いたような顔をしているが、一加さんたちよりは余裕があるようだ。黒羽は、まるで自分が痛い思いをしたかのように両肩をすぼめている。


「ボーッどじでだがら、蹴り、入るど思っだ。よぐげだな」


(あれは、蹴りでしたか……)


「どうずる? まだやるが?」


「ええ。お願いできますか」


「わがっだ」


「ありがとうございます。では、改めて。よろしくお願いします」


「よろじぐお願いじまず」


(余計なことは考えずに挑みましょう。せっかくの機会なんですから――)



「隼人、大丈夫?」


 菖蒲さんが水の入ったコップを差し出してくれた。ゆっくりと水を飲み干した。


「はあ……。大丈夫……とは、言えないですねえ」


 全身が痛い。


 体格差がある。打撃や投げ技よりも、絞め技や関節技を中心に狙ってみた。何一つきめられなかった。


 菖蒲さんが「もっと飲む?」とヤカンを持ち上げた。「大丈夫です。ありがとうございます」とコップを返した。


「まだ、続げるが?」


(体力的に……、あと一本か二本……)


「いえ。ありがとうございました」


「ぞっが。ながなが強がっだ。根性あるな」


「ふふ。そう言っていただけて光栄です」


 律穂さんに一礼をし、旦那様のほうに向き直った。


「旦那様。お手合わせ願います」


「え? 隼人、終わりじゃないの? 大丈夫じゃないんでしょ?」


 菖蒲さんは心配そうな顔をした。


「そうなんですけど。もうこんな機会ないでしょうから。ここまできたら、ですよ」


「やっばり、根性あるな」


「やっぱり、怖いもの知らず……」


 律穂さんは感心したようにうなずき、黒羽は目を細めて引いたような顔をした。


「受けて立とう」


「ありがとうございます」


 道場の中央で、旦那様と向き合った。「よろしくお願いします」と一礼した。


「はじめっ」律穂さんが声を上げた――。



 目を開けると天井が見えた。濡れタオルがひたいに乗せられている。体をゆっくりと起こした。


「いっ、いつっ……」


「隼人、大丈夫?」


「菖蒲さん……。ええっと……、倒れてしまいましたか?」


「うん。隼人がカクッてなって、お父様のこぶし? 腕? があごをかすっちゃって、倒れちゃったんだよ」


「そういえば……」


(足の力が抜けたような……。一本、持ちませんでしたか。情けない)


 菖蒲さんはコップにヤカンから水をぐと手渡してくれた。


「具合は? 気持ち悪いとかない?」


「ええ。大丈夫ですよ。体は痛いですけど。ところで、この状況はどういう……」


「隼人が倒れたあと、お父様が黒羽に稽古をつけるって言い出して。黒羽、ものすっごく嫌そうな顔してたけど……。逃げるわけにはいかないでしょ?」


「ふっ、ふふふ。なるほど」


 黒羽は旦那様の前で四つん這いになっている。ひざに手をつきながら、立ち上がった。旦那様に一礼すると、フラフラとこちらに戻ってきた。


「隼人……、起きたんですね」


「ええ。ふふっ」


「隼人のせいで、ひどい目に……」


「良かったじゃないですか。旦那様に稽古をつけてもらえて」


 黒羽は隣に座り込んだ。


「良くないです……。こうならないように、してきたのに。よりにもよって、体術……」


「ふふ。体術は苦手ですか?」


 黒羽にジトッした目を向けられた。


「……隼人はどうして剣術部に入ったんですか?」


「どうしてって?」


「絶対、剣術より体術のほうが好きですよね? 大地がいたからって『鬼神』には挑まなかったのに、『千手観音』には挑んじゃうし。剣術部で体術もやるのに、体術部にもお世話になってたんですよね? 今も、体術習ってるし」


 体術部に顔を出していたのは複雑な思いがあったからだ。だが、言われてみれば、確かにその通りだ。体術道場の近くに剣術道場もあったが、体術道場を選んだ。


「そうかもしれませんね。でも、倶楽部くらぶを選んだときは、どちらもやったことがありませんでしたから」


「そっか、なるほど……」


 黒羽は納得がいったという顔でうなずいた。後頭部で結んでいた髪をほどくと、私たちの話を聞いていた菖浦さんに顔を向けた。菖蒲さんは黒羽の背中側に回り込んだ。首からかけていたタオルを黒羽の頭にかぶせ、ワシャワシャと汗を拭きはじめた。


「菖蒲様」


「なあに」


「慰めてください」


「いたいのいたいの、とんでいけ~」


「もっといっぱい慰めてください」


「……今日は無理だから、明日ね。ふふっ、頑張ったね。黒羽がお父様にあんな顔するの、初めて見たかも。あはは」


「笑い事じゃないですよ」黒羽は口を尖らせた。


 ダンッ!!


 一加さんたちから「おお~」と歓声が上がった。みんな目を輝かせている。


 旦那様が律穂さんの蹴りを受け止めていた。


(すごい……ですね! 『鬼神』対『千手観音』ですよ!! 伝説と伝説の対決が見れるなんて!!)


 大興奮の一戦だった。


 道場の後片付けは、みんながやってくれるというのでお願いした。黒羽とともに先に上がった。シャワーを浴び、夕食の支度に取りかかった。


 夕食ができ上がり、旦那様と律穂さんもシャワーを浴びて食堂に集まった頃、小夜さよさんがお土産を持って、茂くんを迎えにきた。みんなで夕食をとってから、悠子さん、小夜さん、茂くんは帰っていった。


 旅行から帰ってきたてつさんと理恵りえさん、旦那様、律穂さんと酒盛りをした。大地さんが置いていってくれたお酒を飲みながら、旅行や手合わせの話で盛り上がった。


 三日目は、帰りの馬車に乗り込むまで、菖蒲さんとずっと一緒にいた。菖蒲さんの髪を編んだり、氣力きりょく制御の練習を見守ったり、黒羽の背中で後転する補助をしたり、何度も抱きしめたりした。


 体の痛みは数日間続いたが、とても充実した休暇を過ごすことができた。

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