第5話 『歳星館』と室尾司

 カラスが鳴いていた。窓の外は茜色で街は徐々に夜に向かっていた。並ぶビルの向こうに夕日が沈んでいく景色は中々に趣き深いものだった。

 それを見て彼女は、室尾司は静かに息を吐いた。昔ながらのおかっぱ頭に着物姿の彼女が、切なげな表情で窓の外を眺めているというのは中々に絵になる図だった。

 ここは彼女の自宅であり『蔵書館』である『歳星館』だった。古風な造りの大きな洋館だ。そして、彼女は今日も一日の業務を終え、執務室から外の景色を眺めて感傷に浸っているのだ。そして、彼女はまたため息ひとつ。重ねて印象的。

「あの娘、また何か厄介を起こしたみたいですね」

 しかし、そのため息は景色に対する感情から来るものではなく、気の重さからくる正真正銘のため息だった。

 彼女の目は景色ではなくその下、館の入り口である門の前に向けられていた。そこでは少年と少女が、カナタとハジメがすさまじい剣幕で口論を行っていた。

「仕方の無い娘」

 ツカサはうんざりした様子で窓から離れる。そして、門に向かうべく階段を降りていった。



「いーわよ! そんなに気に食わないなら帰れば良いでしょこのタコスケ! そんで残罵に人体実験なりなんなりされれば良いわ!」

「ふざけんな! そんなことされてたまるか! お前が謝れば良いだけの話だろうが!」

「嫌よ。私なんにも悪くないもの」

「んだとぉ! さっきから散々つまらないだのダサメガネだの言ってくれただろうが! 全部謝れ!」

「あんただって性格最悪だの悪徳占い師だの言ってくれたでしょうが! それを謝ってくれたら考えるわよ!」

「全部ほんとのことだろうが!」

「こっちだってほんとのことじゃない!」

 カナタとハジメは激しい勢いで言い合いを続けていた。さっき合流して、歳星館に向かい始めてからずっとこの調子だった。元々どっちが悪いだの責任があるだのだった言い合いは今やただの悪口の浴びせ合いへと姿を変えていた。非常に虚しく、生産性の無い言い合いであった。もはや、お互いに言うところまで言ってしまい、引くに引けない状態である。下手に負けん気の強いもの同士が口論になるとこのように意図しないレベルまで事態が悪化するのだ。

「こんちくしょう!」

「腹立つ!」

「やかましいですよお二人とも」

 そんな口論を続ける二人に割って入る声があった。それは凛として透き通りながら妙に耳に残る声だった。大した大きさでもなかったのに二人はピタリと口論を止めてその声の主の方を見た。門の鉄格子の向こうに少女が立っていた。年齢は二人より少し上くらいだろうか。

「つ、ツカサ。来てたの」

「ええ、あなたとそちらの子の声があまりにやかましく響いていましたからね。嫌でも気づきます。館の前で口論なんて続けさせるわけにはいきませんからこうして出てきたのです」

「う.....」

 ツカサの機嫌は明らかに悪かった。

「こ、こいつが悪いのよ。言いがかりつけてくるんだから」

「それはこっちのセリフだ」

 二人はまた睨み合う。そんな二人を見てツカサは大きくため息を吐いた。妙な迫力が有り、カナタとハジメはまた押し黙る。

「お二人とも年はいくつになりましたか?」

「そんなこと聞いてどうす.....」

「いくつになりましたか?」

 ツカサの言葉は有無を言わさなかった。

「17よ....」

「じゅ、17です.....」

 知らず、ハジメも応えていた。

「17。もう、大人の分別が付いて良い年頃です。なのになんなのですかあなたたちは。人の家の前で周りの迷惑も顧みず、感情任せの暴言をぶつけ合う。こんなものは小学生か、下手すればそれ以下です。恥ずかしくないのですか」

「う....」

「うぅ...」

 二人は押し黙った。何も言い返せないのだった。全部正論だった。二人は急激に頭が冷えてきて自分が愚かに見えて仕方が無くなってきたのだった。

「「す、すいません」」

 二人は声を揃えて言った。

「よろしい。分かれば結構です。以後気を付けるように。それで、カナタ。私に用事なのでしょう? また、魔導書でも持ってきたのですか?」

「そ、そうなのよ。それでツカサに相談があったのよ。それなのにこいつがネチネチと....」

「なにおぅ!」

「お二人とも、まだ分かっていないのですか?」

「い、いえ....」

「い、いや。ごめんごめん。分かったから。もう、言い争いなんてしないから。とにかく今大変なことになってるのよ。お願いだから聞いて頂戴」

 カナタは謝り、ツカサに両手を合わせてお願いのポーズ。ツカサはそれを見て今度は呆れてため息を付いた。

「そちらの彼、魔導書と契約してますね。しかも、ディアン・ケヒトの魔導書ですか。そんな超貴重品よく手に入れましたねカナタ」

「さすが。全部お見通しね....」

「とにかく中に入ってください。話はそれからです。不和残罵が来ているのでしょう。中に入らなくては危険ですから」

 ハジメは目を丸くして驚いた。ツカサがあまりに全てを把握していたからだ。自分たちに起こっていることも、何があったのかも全部理解しているようだ。さっきの言葉の迫力といい、この事態の把握力といい、ハジメはこのツカサという人間が只者では無いことを感じ取っていた。

「さあ、どうぞ」

 ツカサはギィイ、と音を立てて門を開いて二人を中に入れた。

「口論したらその時点で追い出しますからそのつもりで」

 そう言ってツカサは歩き始める。二人はゴクリと喉を鳴らした。ツカサは変わらず不機嫌だった。お互いに顔を見合わせ、言葉無く何かを約束し、カナタとハジメはツカサに続いた。



 館に入り、1階の応接室に案内された二人。館は大きく、普通の住宅なら3つくらいは楽に入りそうな敷地面積だった。こんな豪華な建物に入るのは初めてのハジメは若干緊張していた。ここに来るまでチラチラと家の中を見てきたが、ハジメには内装も立派に見えた。まぁ、ものの価値などハジメには分からないので多分なのだが。良くわからない壺だの絵だのが並んでいたのでただならぬ雰囲気は感じ取れたハジメだった。

 そして、今も応接室をジロリと見回しているのだった。

「ちょっと。あんまりジロジロ見回すんじゃないわよ」

「あ、ああ。悪い。見たこと無いものばっかだからよ」

 今二人はやけにフカフカなソファに座ってツカサを待っているところだ。ツカサは紅茶を淹れると言って部屋の外に行ってしまったのだ。目の前の大机には問題のディアン・ケヒトの魔導書が置かれている。

「執事とか居ないのかな」

「居ないわよ。ツカサはこの館に一人で住んでるんだから」

「一人で? こんな大きな家に? 家族は居ないのか?」

「そういうのはプライベートな話だから。デリカシーってもんを持ってもらいたいわね」

「あ、ああ。それは確かに.....」

 さっきまでの激しい言葉と感情の応酬はすっかり成りを潜めているらしい。熱しやすく冷めやすいのはこの二人の共通点のようだ。

「そんなに気にすることはないですよカナタ。大した話ではありませんから」

 そう言いながらツカサが入ってきた。今の話も聞こえていたらしい。別に壁が薄いわけでもないのに中々の地獄耳である。

「両親は私が生まれる前に他界していまして、祖母に引き取られて育ってきたのです。その祖母も一昨年他界しまして、その所有物であるこの館を私が引き継いだというだけの話です」

「は、はぁ。なるほど」

 大した話ではないと言いつつも結構シリアスな内容でハジメはどう反応したものか分かりかねるのだった。そんなハジメの様子を見て何故か微笑みながらツカサはポットから紅茶を3人分淹れて二人の前と自分の前に並べた。ハジメでもなにか普通と違ういい匂いがするのが分かった。とりあえず、ハジメは素朴な疑問をぶつけてみる。

「あの、ここってなんなんですか」

「この『歳星館』は魔導書の収集及び保存を目的とした蔵書館です。魔導書の買い取りも行っていまして、この子はちょくちょく見つけた魔導書をここに持ってきては現金に替えているのですよ」

「な、なるほど」

 魔導書の古本屋みたいなものか、とハジメは思った。実際はそんなものではないのだが。魔導書の蔵書館は国から認可を降ろされた特別な施設だ。扱いが難しく危険な魔導書を保管しているのだからハジメが思っているよりはずっと大した施設なのである。

「それで、カナタ。本題に入りましょうか。あなたは何をしにここに来たのですか?」

 振られてカナタは肩をすくめる。

「本当ならここで魔導書を見せて大金を貰うはずだったんだけどね。残念ながら状況が変わっちゃって」

「彼がその魔導書と契約したからですね」

「そういうこと。単刀直入に言えば、ツカサに聞きたいのはこの魔導書の契約破棄の方法よ。どうにかしてこいつとディアン・ケヒトの魔導書との繫がりを切りたいのよ」

「ふぅむ。やはりそういう話ですか」

 ツカサは言いながら小首をかしげて目を伏せた。

「もう、大体事情は察してるわけ?」

「不和残罵が現れたというのは人づてに聞きましたから。あなたが交戦したことも。それでその魔導書。それでその少年。起きたことは大体予想出来ます。残罵が魔導書を狙ってあなたを襲い、その戦闘のドサクサに紛れてその少年が魔導書と契約した、といったところでしょうか」

「さすが、大当たりよ」

「いや、どさくさに紛れたんじゃないです。こいつが魔導書を俺に押し付けたんですよ。そのせいで俺は巻き込まれたんだ」

「なんですって。受け取ったのはあんたじゃないの」

「なにおぅ!」

「お二人とも」

 そう言ってツカサがタンと机を叩いた。

「「すいません」」

 二人は揃って謝った。

「.....で、まぁ。そのままじゃお金にならないからなんとか契約破棄の方法を知りたくて、ツカサが何か知らないか聞きにきたわけよ」

「なるほど」

 ツカサは紅茶をすする。ハジメも一緒にすする。飲んだことのないかぐわしい香りがハジメの口いっぱいに広がった。密かに感動するハジメだった。

「確かに、魔導書の回収が当館の最重要の目的で、存在する意味ですから協力は惜しみませんが......」

「良かった!」

「残念ながら契約破棄の方法は分かりません」

「あー.....」

 カナタはその言葉を聞いた途端に深くうなだれた。

「やっぱりそうかー.....」

「ええ、申し訳ありませんが」

「じゃあ、手がかり無し? 打つ手無しってこと?」

「そうでもありません」

 そう言ってツカサは机の上のディアン・ケヒトの魔導書を撫でた。優しい、いたわるような手付きだった。

「ディアン・ケヒトの魔導書。ケルト神話の神、ディアン・ケヒトの名を冠した魔導書ですね。ディアン・ケヒトが司った医療と技術に関する魔術が記されている。そして、その内容を解読出来たならば所有者にすさまじい医術と技術の魔術を授けると言われています。カテゴリー5。最上級の魔導書」

 ツカサの言葉にハジメは割り込む。

「カテゴリー5ってなんなんですか? あの残罵も言ってたけど」

「魔導書には年期と重要度、危険度で5つのランクがあるのよ。それで、この魔導書はその中でも最上級。分かったら黙って聞く」

「はいはい」

 肩をすくめるハジメ。そんな二人を見て二人に気づかれないほど小さくツカサは微笑んだ。

「さて、これほどの魔導書となると契約方法も複雑です。普通の魔導書ならばある程度パターン化された手順のどれかを使用すれば容易に契約出来るわけですがこれは違う。恐らく限定状況下で特定の条件を満たした場合にのみ、契約が行える『契約の間』に引き込まれる。あなた、お名前は?」

「あ、ハジメです。小山始です」

「ハジメさん。あなた、この魔導書と契約する時、特殊な現象に見舞われたでしょう」

「え、ええ。なんか時間が止まったみたいになりました」

「それが、『契約の間』です。それが現れた時だけこの魔導書と契約が出来るのです」

「な、なるほど」

 ハジメは分かったような分からなかったような感じだった。なんとなく、契約には条件があって、条件が揃うとあの時が止まった状態になって契約が結べる、ということだろうと思った。そういうことにしておいた。

「その魔導書がカテゴリー5らしく大仰な契約方法してるってのは分かったけどそれがどうしたっていうのよ」

「契約を破棄する方法と関係があるのですよ。普通の魔導書なら契約破棄する時は魔導書を燃やすか、所有者が死ぬか、もしくは契約破棄の儀式を行えば契約は破棄されます」

 ハジメは一瞬物騒な言葉を聞いた気がしたが聞かなかったことにした。

「しかし、これほど高位な魔導書となると破壊することそのものが困難です。契約破棄の儀式などというものはありません。まぁ、所有者の死は有効かもしれませんが」

 ハジメはさっきよりはっきり物騒な言葉が聞こえた気がしたが聞かなかったことにした。

「この手の魔導書の契約破棄の例は少ないですが存在しています。その方法は再び『契約の間』に入ることです」

「ふーん? つまり、また条件を揃えろってことなの?」

 カナタはあっさり言うがハジメはいまいち分からない。が、話だけ聞いていく。

「より正確には、彼が契約を結んだときと同じ状況、その中にその条件が存在しているはずなのです。それを見つけ、条件を満たせば『契約の間』は再び現れ、彼は契約を破棄出来るでしょう」

「ふーむ。なるほど」

 カナタはツカサの言葉を聞き顎に指を当てて思案していた。そして、唐突にハジメをねめつけるように見つめた。

「あんた、あの時何があったか覚えてる?」

 ハジメはそう言われて眉をひそめ、目を細めて思考する。

「残罵とお前がすごい戦ってて、俺は巻き込まれた」

「大した状況説明だこと.....」

 カナタは呆れてため息を付いていた。ハジメはこれといって言い返さない。自分でもあんまりな説明だと思ったからだ。しかし、それ以上にハジメに思い出せることは無かった。何せ状況が状況でずっとギリギリの精神状態だったのだ。起きたことを事細かに記憶することなどハジメには出来るはずもなかった。

「要するに、これからひとつひとつ思い出して検証するしかないってことね」

「そういうことですね。そして、それしか方法はありません」

 カナタはポリポリと赤髪を掻いた。

「なんにしてもこれでやることは決まったわね。ひたすら根気よくあの時の状況を思い出していって、そして思い出したことを合わせていって合致する状況を見つける、か。ふふ」

「いや、おい。その条件の組み合わせと状況の組み合わせだけですごいパターンがあるんじゃないのか? それって途方もない作業な気がするぞ。下手すりゃ何年もの.....」

 そう言いかけたハジメははっとした。カナタの目、ハジメと今まさに目が合ったカナタの目が完全に死んでいるのだ。何も見ておらず、なんの感情も浮かんでいなかった。ただ、訪れた現実を直視できず思考を放棄している人間の目だった。

「なにか言った? ハジメ」

「い、いや。何も言ってねぇよ。ハハハ」

 ハジメは乾いた笑いを漏らした。大変なことになったのだと理解した。今まさに状況は袋小路へと迷い込んだのだ。現実から目を逸らしたいのはハジメも一緒だった。

 そんなハジメの前でツカサが紅茶を一口飲んだ。釣られてハジメも飲んだ。口の中にいい香りが広がり鼻から抜けていく。少しだけ気分が落ち着いたのをハジメは感じた。気分が落ち着いただけで状況は何も変わっていないのだが。

「今はそっとしておいてやりましょう」

 ツカサがカナタを見て言う。カナタは静かに、実に静かに紅茶をすすっていた。何も聞こえないし、見えないようだ。

「でも、実際どうすれば良いんですかね」

「実際のところまったく同じ状況を作り出すのは難しいでしょうね。ひとつひとつ検証するのも大変な作業です。どこかに正解があるのは間違いありませんが、見つけ出すのが難しい。残罵が諦めるか、カナタが諦めるのを待つ方が現実的でしょう」

「はぁあ。諦めたらどうすれば良いんですか」

「国の魔導書管理機関に相談すればこの魔導書の契約破棄に協力してくれます。そうすればここで頭を抱えているよりは可能性が出るでしょう。最悪の場合でも魔導書の廃棄を行ってくれるはずです」

「え? なんだ。それならとっととそこに持っていけばいいじゃないですか」

「そうなるとこの魔導書には金額が付かないのでカナタは絶対に嫌なのです」

「な、なんだって」

 つまり、結局、この期に及んで私欲のためだということだった。ハジメは呆れ果てた。もはや、怒りも湧かない。

「とにかく、今は疲れているでしょう。ゆっくり休んでください」

「え、ええ」

 ハジメは言われたとおりに休むこととした。この数時間でいろいろ起きすぎていた。一段落すると、体も心もどっと疲れが出てきたのを感じた。

 ハジメはとなりのカナタを見る。やはり押し黙ってカップに口を付けていた。そのカップの中にはもう紅茶は入っていなかった。

 ハジメはため息を付いた。

 これからどうなるのか皆目見当がつかなかった。果たして、自分は元通りの日常を送れるのか。このままではずっと残罵に付け狙われることになる。

 しかし、今間違いないのはとにかく疲れているということだった。

 ハジメは気づけばゆっくりと眠りに落ちていっていた。

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