杯を諦めよう
さて、これまでの情報を整理しよう。
まず、あの
『ブラッディグレイル』を完成させるには、五つの命を捧げなければならない。
これは先代プリトゥ――カーミラが王宮を追い出される際、仲の良かった
そして、プリトゥはこうも言っていた――。
『六大魔法師は世界のマナを調律する役割を自身のマナリヤに宿しておりますが、それに限界が来ると寿命を迎えます』
――と。
要するに、マナを魔法に変換するための⋯⋯フィルター、空気清浄機のような役割だろうか。
まあ、それは今は置いておこう。
しかし、先代プリトゥに対して同情の気持ちもあるが、これはあまりにも馬鹿げている。
最期に『血を分けた肉親に会いたい』と願ったのに、その肉親であるアーリアが、こんな事に巻き込まれてしまうとは。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
部屋の中の誰も口を開かなかった。
俺は杯の前に屈み込み、その表面を撫でる。
硬い。色は粘土のようだが、手触りは陶器のようだ。
そして、かなり底が深い杯だ。
五つの命が必要――人の血液は大体四リットルから五リットル。
この深さの杯なら、ちょうど五人分の血液で満杯になるくらいか。
これは、欲しい。アンジェリカと連絡を取れる、唯一にして最速の手段だ。
何を失っても手に入れると決めた。
しかし⋯⋯。
「人の命を奪ってでも、手に入れたいじゃあない」
「⋯⋯だな。こんな血生臭えモンは、英雄譚には不採用だ」
俺が独り言ちると、頭の上にウイングの手が置かれた。
顔を上げると、ウイングは苦笑を浮かべていた。
「王女サマ、
「⋯⋯ええ。私も、母の行方が分かったから、もう⋯⋯」
アーリアは俯き、暗い口調で言った。
彼女の心中は察する。母親がこんな結末を迎えていたのだから、穏やかではいられないだろう。
……と、思いきや、顔を上げたアーリアは、どこかさっぱりとした表情だった。
「安心しなさい、きちんと報酬は払うわ」
「……大丈夫なのか?」
「これでも王女ですもの、それくらいのお金は動かせるわ」
「そうじゃなくて⋯⋯」
「⋯⋯ありがとう。いいの、物心つく前に別れた母だもの、驚きはしたけれど、意外とショックは少なかったわ」
アーリアはそう言って連接棍を担ぎ直し、歯を見せた。強い子だ。
「お前にマナを補充して貰ったこれも、役に立たなかったわね」
「はは……」
俺は笑い、部屋を見回す。
ウイングは伸びをして帰る気満々、ウェンディは顎に手を当てて何やら考えている風だ。
ジンダール王子と甲冑の男は、小声で何かを話し合っている。
「……」
解散する雰囲気が漂っているが、誰もそれを言い出さない。それもこれも、目の前にある血杯の処遇に困っているのだ。
これを放置するのは、人情的にあまりに忍びない。しかし実用化しようとすると、生贄が必要になると言う困った代物だ。
持ち運ぼうにもかなりの重量だ。これを抱えて、先程の階段を上がるのも骨が折れる。
……はてさてこの血杯はどうしてくれようか。
「……例えば、虫や動物を捕えて、この血杯に捧げるのはどうかしら? 『五つの命』と言っただけで、人間のものとは指定されていないわ」
悩んでいると、ウェンディが人差し指を立て、そんな提案をした。
確かに『この杯を人間の血で満たせ』とは言われていない。動物愛護的な観点で見れば酷い話だが、試してみる価値はあるかもしれない。俺はその辺の虫よりも、アンジェリカの方が大事だ。
「怖えこと言うなオバサン……。だが、この部屋はどこにも虫なんざいねーぞ」
「外に出て捕まえてくればいいじゃない。虫くらいその辺にいるでしょう」
「頼んだ、戦闘担当!」
「……ってなるわよね。良いわよ、私が言いだしっぺだし、行ってくるわよ……ハア、こんな時に限ってゼラはいないんだから……」
ウェンディの愚痴に、俺は首を傾げる。
「ゼラって虫捕りが得意なんですか?」
「あら、一緒にいるのに知らなかったの? ちょくちょく虫を取っては、ウイングの帽子の中に入れてたわよ」
「はぁ!? んなことしてたのか、あのガキ……帰ったら飯抜きだな!」
ウイングは帽子を脱ぎ、汚物を払う様にブンブンと振る。
しかしまあ、吊り上った大きな目と言い、俊敏な動きと言い、さりとて怠け者な所もあり、極めつけに虫を捕って
「なんか猫みたいなヤツですね、ゼラって」
俺がそう感想を述べると、ウイングとウェンディは固まった。
そして身を寄せ合い、ひそひそ話を始める。
「……あいつまだ言ってなかったのか」
「……恥ずかしいんじゃないかしら」
「……だがパティ子の前だと普通に」
「……ほら、男の子と女の子だから」
「な、何の話をしているんですか……?」
目の前でコソコソと話されると、なにやらむず痒い気分になる。
ウイングはニカっと笑うと、帽子を被り直した。
「今度、あいつがいつも被ってる帽子、取ってみろよ」
「……はあ。なにか面白いものでもあるんですか?」
「ビックリすんぞ」
要領を得ない答えだったが、ひとまず頷く。
『なんですかセクハラですか。パティ子、こんな男は無視しましょう』とか言われそうで怖いが。
「ゼラが嫌がったらやめてあげなさいよ」
ウェンディは苦笑しつつ、俺たちが最初に入ってきた扉に向かい、その動きを止めた。
「……あら?」
「どした、ウェンディ?」
「……開かないわ」
ウイングはウェンディの側に向かい、扉を押す。
「⋯⋯マジだ。でけえ岩壁でも押してんのかってくらいビクともしねえ」
「えっ⋯⋯」
「なんですって⋯⋯!」
俺も、そしてアーリアも扉を押してみるも、確かに開かない。
さっきまでは確かに開閉出来ていたはずだ。引き戸なわけでもなく、鍵穴も、
ならばもう一つ、この扉と正対の壁にある扉から出れば良いのでは。
俺がそう思ったところ、他の三人も同様の考えだったようで、一斉に振り返った。
「ふ――ざけるなあ!!」
その瞬間、狭い部屋内に怒号が響く。
ぐわんぐわんと声が反響し、耳朶が揺れる様だった。
「なあに、少し血を垂らして見ろと言っているだけではないか」
「ふざけるな! おれは『護衛』を引き受けたんだ! それが⋯⋯あんな得体の知れない杯に、血を注げるか!」
「追加報酬は払うぞ?」
「そう言う問題じゃあねえ!」
叫んでいたのは甲冑の男だった。
どうやら、ジンダール王子から『杯に血を注げ』と言われた様だ。
なんという王子だ。そんなものは、誰でも嫌がるに決まっている。
「気になるではないか、完成した杯がどうなるのか」
「……やってられるか! おいあんたら、そっちの扉は開かないんだったな? おれは一足先にお暇するぜ!」
止める間もなく、甲冑の男はもう一つの扉に向かった。
男が乱暴に扉を蹴ると、あっけなく開き、そして――。
「――え?」
それが男の遺言になった。
扉の奥から飛来した『何か』が、男の眉間を撃ち抜いたのだ。
衝撃で吹き飛んだ身体が仰向けに倒れ、血杯に衝突する。
何が起こった――?
突然の出来事に思考が麻痺する。
どこか頭がぼうっとして、次に起こった出来事も、まるで遠くの火事を見る様な感覚だった。
地響きのような音を立てながら、床の一部が腕の様に変化し、男の遺体を抱え上げ、杯の中へ放り込んだ。
偉丈夫だった男の遺体は手足が杯からはみ出す形になったが、肉を咀嚼するような音と共に、その肉体が杯の中へ引き摺り込まれていく。
狭い部屋の中に、むせ返るような血の臭いが充満し、胃の奥から吐き気がこみ上げる。
「……甲冑も肉片も
ウイングは鼻をつまみ、顔を顰めながら杯の中身を覗き込む。
ウェンディは、男の頭を撃ち抜き、壁にめり込んだ『何か』を、剣先で穿り出した。
「これは……骨の、欠片かしら」
「骨? そんなもので、頭蓋を貫通できるの……?」
アーリアがウェンディの掌に置かれた、白く小さな欠片をまじまじと見つめる。
不可能な話ではないだろう。例えば歯の周りを覆うエナメル質などは、ダイヤモンドと同等の硬度だ。高速で撃ち出せば、人の頭を貫くことぐらい容易だろう。
あの扉の先に行こうとすると、骨の弾丸が飛んでくるのだろう。
恐らく――血杯が満たされる、その時まで。
「……罠の
ようやく現実感を取り戻した俺の口から、独り言が漏れる。
「いや――」
いや、これは恐らく、罠では無いのだろう。
この遺跡――迷宮全体が、血杯を完成させる為に改造されてあるのだ。
全ては『家族に会う』『復讐する』という二つの願いによって形作られた、プリトゥの生の証なのだ。
これが、こんなものが生の終着点なんて、あまりにも哀しすぎる。
そしてどうあっても、杯を血で満たすまでは、ここから出られないらしい。
一人分は満ちた。
あと、四人――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます