ボーカロイドは歌姫の夢を見る

真野光太郎

1曲目 物憂げな少年と電子の歌姫

プロローグ

 人生にとって本当に大切なことは、些細なことでしかない。

 その後の人生を変えるような選択は、思ってもみない時に迫られて、知らないうちに選んでいるものなのかもしれないのだ。

 この時の出来事も、本来ならば記憶に残っていないほど些細な出来事のはずだった。


 日が落ち始めて、外の景色が鮮やかな茜色に染まっていた。

 部活終わりの放課後。

 帰ろうと下駄箱の靴に手をかけた時、宿題として出ていたプリントを机の中に入れたままだった事を思い出した。早く帰りたがる一樹を昇降口に待たせて教室に取りに行った。

 普段の教室とは違って、誰もいない静かな教室。

 落ちかけた太陽の日が窓から差し、教室の半分を茜色に照らし出している。教室の中には暑苦しかった夏が終わって、秋になり始めた時期特有の寂しさが漂っていた。

 もう夏も終わってしまったんだな、なんて思いながら自分の机に行って、目的のプリントを探し出し、鞄の中に入れる。プリントの提出は明日だったので、もし思い出していなかったら面倒なことになっていた。忘れずにプリントを回収できたことに安心して教室を出ようとした時、机と机の間に一冊のノートが落ちていることに気がついた。


 さっき教室に入ってきた時には気が付かなかった。

 拾い上げてみると、B5サイズのノートで、表紙には青々とした空に入道雲が雄大に映る綺麗な空の写真が印刷されている。タイトルを書く場所には何も書いてなかった。裏側も見てみたが、何も書かれていない。

 一体誰のものだろう。

 新品と言えるほど綺麗ではないのに、外側に何も書かれていないことが不自然に感じられて、ノートをパラパラと捲ってみると、半分くらいのページに書き込みがしてあった。最初のページを開いて見ると、授業中に先生が板書したものを写したかのようなものが書かれていた。

 字の綺麗さから、持ち主は女の子だろうか。

 そんなことを思いながら、何か持ち主を特定できる情報がないかとノートを軽く流し見る程度でめくっていると一つのページが目にとまった。

 最初のページ以降には、途切れ途切れの言葉やよくわからないアルファベット、図形のようなものが乱雑に書いてあるだけのページしかなかったのに、このページには一続きの文章が綺麗に整列されて書かれていたのだ。

 この文章の感じからすると、これはたぶん詩だろう。なんとなく、声に出して読んでみる。


 見上げた空はどこまでも青く

 綺麗な世界を描いていたんだ

  

 産まれたばかりの私は

 いつか空を飛びたいと夢を見ていた

 まだ飛ぶことができなくて

 殻の中の世界から空を眺めていたんだ


 羽ばたきたい あのどこまでも青い空へと

 風を切って 空を舞いたい

 

 いつの間にか時は流れて行き

 空を飛べるようになっていたんだ

 

 飛ぶことができた私は

 いつか空へ翔けたいと憧れていた

 まだ勇気が出てこなくて

 広い空へと翔けてくことが出来なかったんだ 

 

 羽ばたきたい あのどこまでも広い世界へと

 空を翔けて まだ見ぬ世界に


 ほんの一瞬のこと

 一羽の鷲が目の前を翔けて行った

 優雅に 力強く

 遠く 遠く

 遥か遠くへ去っていく


 あの鷲のようになりたくて

 追いつきたくて

 気がつけば大空へと飛びだしていた


 あの夢見ていた世界へ


 有名な詩人の詩なのか、このノートの持ち主が書いた詩なのか。

 どちらかは分からないけれど、なんだか心の中にこの詩がすっと溶けて行くような感じがした。自然と頭の中に詩からの情景が浮かんでくる。


 まだ飛ぶことのできない雛が、殻の中から頭の上に広がっている空を見て、飛びたいと強く願っている。けれど、雛はまだ飛ぶことができない。

 そうやって憧れていることしかできなかった雛だけれど、大人になるにつれて飛ぶ力を養っていく。

 でもいざ飛べるようになっても、怖くてどうしても空に出て行くことができなかった。そんな状況から後押しをしてくれたのは、空を優雅に翔けて行く鷲だった。

 あの鷲のようになりたいという願いが、かつて雛だった鳥を巣から大空へと旅立たせた。鷲の存在が飛び出す勇気を与えてくれたのだ。


 頭の中に浮かんできた情景は、とても綺麗で美しい景色だ。詩を読んで頭の中に自然と情景が浮かぶなんて今まで体験したことなくて、なんだか面白く感じた。

 他の詩も読んでみたくなってノートをめくってみるけれど、なかなか他に詩の書いてあるページが見つからない。相変わらず、他のページには何かの断片が殴り書きのように乱雑に書かれているだけで、おそらく書いた本人以外には書いてあるものが何を意味するものなのかは分からないだろう。


「おーい、早くしないと行っちゃうよ?」


 他の詩を見つけることができないでいると、廊下の方から僕が戻ってくるのを待ちかねた一樹が、僕を呼ぶ声が聞こえた。


「待って、今すぐ行くから」


 一樹に聞こえるように叫んで、教室を飛び出した。一樹は一度履いた靴をわざわざ校舎用のスリッパに履き替えて、教室のすぐ近くまで来ていた。


「たかがプリント一枚持ってくるのにどれだけの時間かかってるんだよ。10分く らい待ってたのに、全然戻ってこないんだから」


「ごめん、机の中のどこに入れたか忘れちゃって探してたんだよ。もうプリントは 回収したからさ、帰ろう」


 どうやら詩に気を取られていて、結構時間が経っていたようだ。ずっと待たせていた一樹には悪い事をしてしまった。下駄箱に行こうとしたけれど、一樹はその場から動かずに不審そうな顔をして、僕のことを見ていた。


「どうかしたのか?」


「いや、お前なんで鞄はもってないし、ノートだけ持ってるのさ」


 一樹に言われて自分の手を見て、ノートを持ったまま教室を出てきたということに気がついた。急がなきゃという気持ちから鞄も忘れて、ついそのままノートを持ってきてしまっていた。


「ごめん。すぐに追いつくから先に行ってて」


「早くしろよ」


 一樹が昇降口に向けて歩き出したので、急いで教室に引き返した。

 鞄のところに行き無意識にノートを入れようとして、手が止まった。

 確かに他の詩も読んでみたいけれど、このノートは僕のものじゃない。このクラスの誰かのものだ。僕にこのノートを持って行く権利はない。きっと持ち主だって探しているだろう。

 

 さすがにノートが落ちていた場所にまた戻すのは気が進まなかったので、わかりやすく教卓の上にノートを置いて、鞄を持って教室から急いで出て行った。

 なんとなく振り返って、教室の後ろのドアから見えたノートは、誰もいない教室の教卓に、忘れ去られたかのように、寂しく置かれていた。きちんと持ち主のところに届くといいなと思いながら、一樹のいる下駄箱に向かった。


――そう、この時の僕は知らなかった。


 このノートが僕にとって人生を変えてしまうような重要な出会いをもたらすとは。

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