テイル・オブ・ザ・フォックス
@viennakatze
第1話 フォックス
「なぜ、フォックスを追うことをやめた・・?」
薄暗がりの中から声がきこえる。独り言のようにつぶやく聞き慣れない言葉は、リフレインしながら耳元に迫ってきた。いや、これは自分の理解できる言語ではないはずだ。だが、その意味を英次ははっきりと認識していた。
目が慣れたのだろうか、声のする方に少しずつ人の影らしきものが見えてきた。長い髪がゆれているのがわかる。髪をかきあげる気配がする。うっすらとその横顔が浮かび上がり、ゆっくりとまぶたが開かれた。薄暗がりを通してもはっきりとわかる、少しだけまぶしそうにみつめる、表情の癖。いつかどこかで、高台から見下ろした時に見た、美しい水をたたえる川底のように深い、瞳の色。
英次は、声を出そうと力を入れたが、無駄であった。そこにいる者が誰であり、そして何を言わんとしているのか、それはわかっているのに、声にならない。この何年かの日常の隙間にあった、少しずつの寂しさやむなしさや、思い通りにならないあきらめのすべてが一度にその場に湧き出して自分の心を覆い尽くす。そのまま置き去りにされれば、永遠に動けなくなるような、そんな恐ろしい不安に駆られ、心だけが叫んでいた。
(やめてなどいない。)
しかし、暗がりの中で見開かれた瞳は、すべてを見通すように強い光を帯び、英次の言葉を責めるように否定していた。
(なぜ、今になって。)
「まだ、終わっていない。」
今度は、はっきりと相手の表情から言葉が発せられるのが見て取れた。
「フォックスは待っている。」
その言葉と同時に、舞台上のライトが照らし出され、暗がりの主の頭上から全身に光がすべり落ちると、その姿を浮かび上がらせた。
「シュリー!」
英次はこわばる口元に力をこめて叫んだ。
激しくたたきつける風の音。英次は我にかえった。枕もとの灯りがつけっぱなしになっている。意識が幾分はっきりした頃、左足をフローリングの床に下ろすと、ひやりとした感触に先ほどの光景が夢であることを理解した。
(初めてだ。夢に出てきたのは。)
シュリーは二十年ほど前に失踪し、その後消息を聞いていない。
サイドテーブルの時計は、夜中の二時過ぎを指している。カーテン越しにゆらゆらと写る影の動きがはやい。昨夜から台風が近づいているのだ。
英次は素足のまま、キッチンに向かった。細長い青いグラスに水を注ぐ。飲み干すと、いくらか気持ちが落ち着いた。カウンター越しに部屋を見回して息をついた。
さきほどの夢の断片が思い出される。「終わっていない」と訴えかける声とともにその瞳は最後の瞬間に強い光をもって英次を見据えていた。
室内のある場所に目が止まった。ベッド脇の背の高い書棚には、様々な資料や書籍がぎっしりと詰まっている。そして書棚と天井の空間には、普段はあまり取り出さないが、特別な思いのある品が積み重なっていた。英次は書棚に近寄り、一番上に手を伸ばした。手探りでうすい紙箱を引っ張り出した。箱の埃を静かに吹き払う。
ふたを開けると、A4サイズほどの写真が収められているシルバーフレームの額が現れた。
それは英次にとって忘れることのできない写真であった。
「フォックス・・・」
英次は両手でその額をつかむと、街灯が差し込む窓際に傾けて見た。
「どうしているんだ?」
写真の中の存在は、輪郭だけがかろうじて見えるだけだったが、心の中にはっきりと浮かびあがらせることができた。こんなふうにフォックスのことを思い出すのは久しぶりだった。長い間それをしてこなかった。あえて忘れようとしていたのだ。
真夜中の研究室に携帯の着信音が鳴り響く。和也はキーボードの手を止めずに、着信画面をのぞきこんだ。
「おや、めずらしー」
打ち込みの手を止め、携帯を取り上げる。
「おう、久しぶりだな。生きてたか。英次。」
「夜中に悪い。まだ起きてたか。」
和也は、灰皿を引き寄せると、タバコに火をつけた。
「学会発表の追い込みなんだ。まだ、大学だよ。」
「忙しいところ悪いな。」
英次はためらいがちに声を落とす。
「仕事、辞めたそうだな。良子から聞いたぜ。」
良子という言葉に、英次は少しとまどった。それには答えず、間を置いて言葉をついだ。
「初めて夢に出てきた。」
和也は煙を吐き出して、何のことかと一瞬目を細めたが、思い当たったように声をひそめた。
「もしかして、シュリーか。」
「ああ。」
「夢で、何か言ってたか。」
英次は沈黙した。
「こんな夜中にかけてくるんだ。印象的な夢だったんだろう。」
和也の言葉に英次はほっとした。二十年以上の付き合いだが、昔から変わらず、自分がどんな状況であれ、受け入れてくれる。
英次と和也は中学・高校と同級生だった。そして一時は同じ夢を共有し追いかけて、毎日といっていいほど、ともに過ごした仲だった。大学ではそれぞれの専攻によって、英次は北海道へ渡り、和也は東京の大学に進んだ。和也は研究を続け、現在は物理学の分野で准教授にまで昇進した。
「『なぜ、フォックスを追うのをやめた。』と言われた・・・」
英次は左手に持った額の中の写真を眺めながら、弱弱しい声で伝えた。
和也は吸いかけのたばこを灰皿に押し付けた。
「英次、来週になれば落ち着くから、例のところで会おうぜ。話はそのときにじっくりしよう。」
こういうときの和也は必ず直接会って話しをしようとする。英次はそれをよく理解していた。和也は学会が終わり次第、日時を連絡すると言って電話を切った。
電話のあと、英次はテレビのスイッチを入れた。画面には日本列島が浮かび上がり、台風の位置が示されていた。
「強い勢力をもつ台風二十一号は、午前二時現在、紀伊半島潮岬に上陸しました・・・」
外の様子からも台風の強さが感じられる。台風などの天候が荒れる前後はどうも体調が良くない。昨日も気分がすぐれずに一日を無為に過ごした。
英次は一ヶ月前に、職を辞したばかりだった。IT関連の営業職だった。リストラというわけではなかったが、人の入れ替えも激しい業界だけに、さして強く慰留されもしない。もともと強く望んで入社したのではなかった。バブルの末期に金融業界の大手に入社し、数年後に転職をした。部下を持つようにもなっていたが、英次は会社に勤める自分が、自分の本質と大きく離れていくのを感じていた。転職をしてもそれは変わらなかった。周りから見れば、心でも病んでいるように見えたかもしれないが、そこに居つづければそれこそ本当に病んでしまうだろうと、今回は転職先も決めずに辞めた。
その直後に妻の良子が家を出た。妻は売れっ子の服飾デザイナーで忙しく、しょっちゅう家を留守にしていた。だから出て行ってもそんな実感が湧かなかった。1週間後にまっさらな離婚届が送られてきて、署名をして送り返すようにとのメモが入っていた。英次はそれを無感情のまましばらく眺めて、機械的に署名捺印すると、即日送り返した。何をしても刺激にならない。ただ抜け殻のようになり、ほとんど寝て暮らしているような毎日がこのひと月続いた。
数日後、和也から電話が入り、二人は学生時代の活動場所だった吉祥寺で落ち合った。
「どうだ。あれからまた何か夢をみたか。」
路地裏の奥まった場所に、二人が高校時代に通っていた喫茶店がまだ営業していた。はやり廃れが激しい都会の中で、この街には古いものを温存する寛容さがある。
英次は、だまって首をふった。
和也は鞄の中からクリアファイルを取り出し、一枚の雑誌記事を英次の前に差し出した。
上半分には、うっそうとした木々で覆い尽くされた連山の写真が掲載されている。
英次は見出しに目をやり、思わず和也の顔を見た。そこにはこう書かれていた。
『光狐~太古からの伝説を探る〜』
「おまえから電話が入った前日に、たまたま図書館でそいつを見つけた。ちょっとそこだけ切り抜いちまった。」
和也は笑いながらタバコに火を点けた。
「これがフォックスと関係するかどうかはわからんけど、ちょっと読んでみてくれ。あのときはいろんな資料にあたったつもりだったけど、調べ尽くしていなかったんだな。」
英次は和也の言葉を聞きながら、記事を読み始めた。
「南北朝の動乱期に南朝を支えた紀伊半島の内陸にはさまざまな伝説が残っている。
この号では、伝説のうちで最も謎が多いとされている『光狐』にスポットをあてた。
『光狐伝説』の資料としては、南朝の拠点ともなった十津川村に残る石碑が最も古
いとされている。」
英次は資料を引き寄せて、石碑の写真を食い入るようにみつめた。上辺が丸みを帯びた高さ数十センチほどの道祖神の石碑のようにも見える。
「表には狐の頭が彫られている。これだけならばどこにでもあるお稲荷さんのように
も見えるが、裏側には風化しかけた文字の中に、三箇所はっきりと『光狐』の文字
が彫られている。」
英次は懐かしい恩人に出会ったときのように、胸が熱くなるのを感じた。
「郷土史家の吉田さんによれば、この石碑は1300年代の南北朝時代のものだとい
う。『光狐』はその後もたびたび村でうわさされ、明治22年に起こった大水害の前
後に現れたという記録が残っている。在住者の祖父母の代にそれを目撃したという
証言が数件あり、村の伝承として記録保存されている。」
「光狐・・・これが、フォックスと関係があると?」
英次は記事から目を上げて、和也に問いかけた。
「位置関係からいって、紀伊と北海道ではあまりに離れすぎてるよな。でも、その十津川村って、そこにも書かれているけど、明治22年に大水害があったあと、村の多くの人々が北海道に移住しているんだよ。」
「しかし、フォックスがその移住と一緒に、北海道に渡ったとでもいうのかい?」
英次は神妙な面持ちで再度たずねた。
「それはわからないさ。というより無理があるね。でも何か符号の一致を感じないか。この記事を見つけた直後に、おまえがシュリーの夢を見て、俺に電話をかけてきたようにね。」
和也は昔から一見まったく関係のなさそうに見える物事の中に、筋道を見つけ出す能力を持っていた。それは混沌とした問題を最終的に解決し得る、信頼できる直感でもあった。英次は話の先を促した。
「まあ仮にフォックスが日本の各地に棲息していて、それとは気づかずに研究もなされていない、ということは大いにあるんじゃないか。おまえが投げ出したくらいだからなあ。」
和也のからかうような調子に、英次は苦笑した。
「しかしまあ人生まだまだこれからよ。光狐がフォックスだったとして、フォックスが生きながらえてきた年月を思えば、おまえがまたフォックスを追いかける気になるまでの遠回りは、たいしたことじゃないさ。」
英次の気持ちを察して和也はそう付け加えた。その指摘は英次の曇りかかった感性を刺激し、やや強引に結論を与えようとしているかのようだった。英次自身も以前の情熱をすぐさま取り戻せるとは思っていなかったが、あの台風の夜中にシュリーの夢を見て以来、漠然とフォックスと向き合わねばならぬような気がしていた。
「英次、もういいんじゃないか。本当におまえが思っていることを始めても・・。」
英次の本音を見通した和也の言葉は、ゆらゆらと定まらない心に小さな灯をともしてくれた。
その夜自宅に戻った英次は、かつて自分が調べた「フォックス」に関する資料をすべてとりだした。英次の社会人としての年月は、生活そのものにあまり大きな変化を与えたとはいえず、身の回りのものも学生時代からあまり代わり映えしない。そして時間がとまっていたかのようにほころびもせずそこに存在していた。
以前、フォックスを調べていたときには、資料は限られていて、英次自身がまとめあげた実地調査によるレポートだけがその存在を実証するものと考えていた。だが、紀伊半島に目撃されるという「光狐」がフォックスと同種のものならば、調査の範囲は広がり、資料も増えるかもしれない。
通称「フォックス」・・・当時から英次たちはそのように呼んできた。その名の通り、「フォックス」とは「キツネ」のことである。しかし彼らの心を捉えたその生物は「白い毛並み」を持ち、「翡翠色」の瞳、そして「身体全体から蛍のような光を放つ」ふつうの狐とは似ても似つかないものだった。当時は目撃者も少なく、いわゆる「ネス湖のネッシー」くらいの存在としか考えられていなかった。
英次たちはこの未確認の生物に憧れ、のめりこんでいった。そして高校生の時に、フォックスを追い求め北海道へ渡った英次と和也は、ついに写真撮影に成功した。同時に、英次の義兄である、シュリーは大怪我を負った。鹿狩りをしていた猟師の流れ弾が、フォックスに中りかけたところをシュリーは自らかばったのだ。重傷だったシュリーは入院中に失踪し、以来二十年もの間、その消息を聞いていない。
三日後の夕方、夕食を準備するため台所に立ってまもなくのこと、インターホンが鳴った。来訪者の顔がモニターに映った。
「はい、どちら様でしょうか。」
モニターには地元の中学校の制服を着た少年が映っていた。
「都築さんのお宅でしょうか。都築英次さんはいらっしゃいますか。」
遠慮がちだったが、少年の凛とした声に懸命さが伝わってきた。
「えっと、私ですが何か用ですか?」
少年の表情が少し和らいだ。
「突然、申し訳ありません。僕は近くに住んでいる桜井といいます。実は都築さんの書かれた論文を読みまして、どうしてもお話をおうかがいしたくて参りました。」
「論文って、『自然界』の?」
「そうです。それを読んですごく興味もって、だから、あの・・」
英次は少年の話の途中で開錠した。
「どうぞ。あがってきてください。」
「すいません。突然来てしまって。」
桜井大樹と名乗るその少年は、英次が通っていた三鷹市の中学三年生だった。やせた背の高い少年で、十代のとがった独特の近寄りがたさはなく、どちらかというと愛想のよい社交的な雰囲気を持っていた。
「『自然界』の僕の論文を読む中学生がいるなんて、想像もしなかったよ。」
英次は苦笑交じりに言った。研究雑誌である『自然界』は数年前に廃刊になっており、読む人間はごく限られた研究者以外は考えられない。
「図書館で読んだの?」
質問されて、少年は、愛想の良い笑顔を英次に向けた。英次は少年の顔をまともに見て、一瞬息をのんだ。英次の脳裏にあのフォックスの瞳が浮かび上がり、同時にシュリーの瞳が重なった。桜井少年の瞳は、両者と同じ翡翠の色をたたえていた。
「はい。三鷹市の図書館にありました。」
英次は少年の声で我にかえった。
「あ、そうか。三鷹の図書館ならあるよね。きみはフォックスに興味があるの?」
「はい。フォックスを教えてくれたのは、通っている塾の先生なんです。」
「塾の先生?」
「実はこちらのご自宅もその先生に教えていただきました。同窓会の名簿に載っていたので・・・。芦川先生っていうんですけど、都築さんと同級生だって・・。」
英次は懐かしい名前に顔をほころばせた。
「芦川か!彼は塾をやってるのか?」
「ええ。僕、小学生のときからその塾に通ってて、芦川先生からフォックスの話を聞いて、いつか僕も探してみたいと思ったんです。そうしたら、先生が『都築が一番詳しいから、本気で探すなら、彼に聞きなさい。』って。」
芦川は英次や和也の高校時代の同級生である。当時高校で「フォックス研究会」を立ち上げたときに彼も参加していた。
「それで、なぜ君はフォックスに興味を持ったの。」
少年は、英次の目をまっすぐ見詰めた。
「フォックスに会ってみたい。フォックスに会うと何かが変わるような気がするからです。」
英次はかつて自分がフォックスを追いたいと切望した頃のことを思い出した。
中一の時に大きな飛行機事故が起こり、両親をその事故で失った。英次は父方の祖父母に引き取られ、経済的には何不自由なく成長したが、両親を失った悲しさと寂しさを受け止められず、精神的に不安定なところがあった。そんなとき、深夜に聞いていたラジオ番組からフォックスの話が流れてきた。北海道のリスナーの投稿で、ラジオのパーソナリティが、「フォックスに出会った人はとても神秘的な体験をするらしいよーー」と言った言葉が英次の心に火をつけることになった。英次は自分を変えたかった。ただそんなきっかけから、フォックスに会いたいと考えたのだった。
しばらく間があったせいか、桜井少年は困った表情を浮かべていた。
「フォックスに会うと何かが変わる……か。ちょっと待ってね。」
英次は、台風の夜に取り出し、寝室の壁に掛け直したフォックスの写真を隣の部屋から持ってきた。
「これを見てごらん。」
写真はフォックスの全身を横からとらえ、顔はこちらに向き、カメラ目線で見つめていた。白い大地の地平線が赤紫色に染まっている。夕暮れ時に撮られた一枚だ。フォックスが右前足を宙に浮かせ、舞い上がろうとする瞬間をとらえている。白い毛並み、手足と尾が金色に染まり、全身から発光しているのが写真でもわかる。翡翠色の瞳も光を帯びているように見える。桜井少年の目が川底の翡翠色から深い海の色へゆらぐように変化した。
「これが・・フォックス・・」
「そうだよ。おそらく日本で唯一、フォックスの存在を証明するものだと思う。」
「すごい。これを英次さんが?」
「実際に撮ったのは友人だけれども、もちろん僕もその場にいたよ。」
英次はカメラのシャッターが下りたときのことを思い出した。銃声が聞こえる。悲鳴が聞こえ、近くの森でばたばたと鹿が走って散っていく音が聞こえる。この写真が撮られた直後、シュリーはフォックスの前に銃弾を受けて倒れた。真っ白な雪に鮮血が吸い取られていく。普通の動物ならば、その場から逃げ去るであろうに、フォックスは自分のために銃弾を受けたシュリーの方へ静かに近づいた。そして傷を癒そうとするかのように、自らの光で彼を包み込み、首を天に向けてそらすと、悲しそうに美しい笙の音のような声で鳴いた。それらの様子も別の写真に収められたが、シュリーの倒れている姿も共に写っており、英次はこの一枚を除いて、フォックスの写真はすべて処分した。重傷だったシュリーが病院から居なくなり、消息もわからないままその写真を見るのは、耐えられなかったのだ。
その間、桜井少年はフォックスの写真が収められたフレームを両手で握りしめながら、じっとフォックスの写真を眺め続けていた。
「なぜ、フォックスを追うのをやめた・・」
「えっ?」
桜井少年の両腕が細かく震えている。視線は変わらず、写真に向けられていたが、その表情を見て驚いた。昔見たシュリーのうつむきがちで淋しげな表情と、少年の横顔がそっくりに見えたからだ。英次は、少年の口から発せられた夢の中と同じ問いに答えることが出来なかった。次の瞬間、桜井少年の持つ額がほのかに光を帯びているのに気づいた。室内には明かりが点いていたが、それを反射しての光ではない。光はだんだんと強まり、少年の手元で輪のように広がり、そして消えた。少年は、額を持ったまま足元のソファーに倒れこみ、気を失った。
数分後、桜井少年は目を覚ました。英次はそばで心配そうに少年の顔を見つめていた。
「すいません。僕、眠ってしまったみたいで。」
少年は元の状態に戻っていた。
「大丈夫?少し前に突然倒れたんだよ。額を持ったまま・・」
桜井少年は、その言葉を聞いてはっとしたように英次に聞いた。
「もしかして、僕、変なこと言いませんでしたか?」
「覚えているの?」
「いえ、こういうことがよくあるんです。何かに取り憑かれるというか、意味不明のことを言って、そのあと気を失ってしまうことが・・」
「取り憑かれる?」
英次は少年の言葉の意味が理解できずに、聞き返した。
「理解してもらえるかどうかわかりませんが、自分の意志ではなく、他の関係ない人や動物や死んでしまった人などの気持ちが伝わってきて、突然話し出すんです。そのことで悩んでて、芦川先生に相談したら、『霊媒体質』とか言われました。」
「『霊媒体質』?」
「さっきもフォックスの写真を見ていて、急に何かがささやきかけてきて、あとはよく覚えていません。僕、何か言いませんでしたか?」
英次は、フォックスという幻の存在を信じて追いかけていただけに、比較的神秘的なことには理解があるつもりだ。だが、目の前で何かに取り憑かれてしゃべり出す人を見たのは初めてだった。彼の言葉が、先日の夢の中の言葉とまったく同じだったことに英次は怖れを感じずにはいられなかった。英次は、少年の言葉を反芻して慌てて聞き返した。
「君は、関係ない人や死んでしまった人、と言ったよね?」
「はい、先日は亡くなった祖父が僕を通じて、父に何か言いたかったみたいで、気がついたら、父が目の前で泣いているので、どうしたのかと尋ねたら、『おやじが俺を心配して出てきた』と言われました。もっと前には、近所のおばさんが飼っていた猫がいなくなってしまって、その猫が僕を通して自分の居場所を知らせてきたこともあります。今年になってからもう5回もこんなことがあって。まさか、ここでも起こるなんて。」
シュリーは死んでしまったのだろうか、と英次は思った。
「でも都築さん、僕がもし言ったとしたら、それはうそではありません。別に演技しているわけではないんです。だいたい僕の取り憑かれた時に話されることは、聞いている人に必要なことが多いです。何て言ったかわからないけど。」
少年は英次の気持ちにはお構いなしに語り続けた。
「父もその頃、仕事で悩んでいて、祖父が出てきてからは元気になって仕事もうまくいくようになったし、おばさんも猫が見つかって、めっちゃ喜んだし、塾の生徒が第一志望で悩んでいるときに、芦川先生へのアドバイスとして菅原道真さんが出てきて、無事合格したし、結構役に立っているんですよ。」
少年は自慢げに言うのだった。英次は聞いているうちに、さきほどの驚きと怖れよりも、今、自分の周りに現れるフォックスの情報の方が大切に思われてきた。
「じゃあ、僕も君が話してくれた言葉をよく考えるべきだね。」
「そうです。ぜひそうしてください。何て言ったかわからないけど・・。」
「いや、君はとても重要な情報を僕に与えてくれたよ。」
翌日、英次は桜井少年の通う、かつての同級生芦川が経営している塾を訪ねた。
「英次、久しぶりだな。昨日は桜井くんが世話になったみたいで、ありがとう。」
芦川は、薄茶色のスーツ姿で現れた。二人が会うのは、十数年ぶりのことだ。子どもと接する仕事のせいか、芦川は学生時代から外見的にはあまり変わらず、年よりずっと若く見える。
「いや、俺のほうが、いろいろ気づかされたよ。彼のおかげで。」
前日の夜、桜井少年からメールを受け取った芦川は、例の取り憑かれた一件も知っていた。
「あれには驚くだろう?彼にはちょっと変わった力が備わっているみたいでね。おまえなら偏見を持たずに接してくれるだろうけど、結構いじめも受けてね。」
「いじめ?」
「突然、起こるからな。授業中にわけのわからない発言をしてしまったこともあるんだ。それから、気づいていると思うけれども、彼はハーフで髪の色とか目の色が違うだろ?それにもコンプレックスがあってね。母親はフランス人なんだ。」
少年の表情の中にシュリーを重ねたのはそのせいだろうか、と英次は思った。
「英次、フォックスの探索は続けているのか?」
芦川は、受付カウンターに肘をつき、左人差し指で眼鏡を持ち上げながら英次に聞いた。
「いや、正直、学生時代以来、ずっとフォックスから遠ざかっていたんだ。情熱が冷めたというか、あれだけ熱中していたものからすっかり離れてしまっていた。どうしてなのか自分でもよくわからないんだよ。」
「高校の頃、俺たちにフォックスのことを語ってくれたおまえは本当に力強かったよな。それに乗せられて、俺らも北まで行ってしまったんだから、お前の力はたいしたものだったよ。」
芦川は、懐かしい思い出に目を細めた。
「たしかに、あの旅は素人集団が偶然にフォックスを探し当てただけの旅だったのかもしれない。でも俺たちはあの旅でとても大切なことを学んだぞ。おまえにとっては同時につらい過去を思い出すことにもなるのかもしれないが、フォックスの存在を世に知らしめて、その生態を研究し、生息地を守るのはお前の一番やりたいことだったんじゃあないか?」
英次は、高校時代にフォックスの生息地を特定し、国に保護を求めるところまで計画を立てていた。仲間にもその夢を語っていたのだ。
「今、フォックスがどうなっているのか、誰かがお前と同じような活動をしているのかは知らないが、都築英次がそれをやらないでどうするんだよ。本来の仕事をしないから、他の仕事をしていても身が入らず続かない。今回、仕事を辞めたのも当然の成り行きのように俺は思うぞ。」
芦川の言葉は英次の心に響いた。普段からこんな調子で、子どもたちを叱咤激励しながら受験指導しているのだろう。
「とはいえ、英次、生活もあるからな。次の仕事が決まっていないなら、ここで働かないか。」
芦川の声のトーンが突然変わって、猫なで声になった。
「ここって、塾で?」
「そうなんだ。おかげさまで塾生は毎年増えているんだが、いい講師がなかなかいなくてね。」
芦川は個人で塾を経営していた。中学受験と高校受験の両方を教える地元密着型の塾だった。以前は大手の塾で一講師として教えていたが、5年前に独立した。スタートは小さなマンションの一室から始まり、毎年口コミで評判が高まって、地元の小学生・中学生の中では有名な塾の一つに成長した。現在平均して塾生が200名前後在籍している。芦川一人とアルバイトの講師では手が回らなくなっているとのことだった。
「おまえ、理数系教えられるだろ?俺は英語中心の文系専門だからな、理系の講師を育てるのにいつも苦労しているんだよ。大学生の講師を雇っても、いずれは辞めていくし、昼間は来られないだろ?正直困っているんだ。もちろん、フォックスのことで動くときには考慮するし、協力もするから。お願いできないかなあ。」
芦川は懇願するように両手を合わせて英次に頭を下げた。
「俺なんかにできるかな・・・。学生時代に家庭教師のアルバイトはしたことがあるけど、教職もとっていなかったし、黒板使って教えたことなんてないぞ。」
「大丈夫。研修をきっちりするから。明日から来てくれよ。」
半ば強引な芦川の誘いに英次は承諾させられる形で、次の日から研修を受けることに決まった。高校のときと立場が逆転している。心の奥でかすかなプライドが顔をもたげた。しかし、次の仕事が決まっているわけではない。芦川の提案は英次にとっても渡りに船だった。フォックスについて何かアクションを起こすかどうかも含めて、考えながら進む時間が欲しかった。フォックスを理解する仲間の元で仕事ができることは、英次にとっても都合がよかったのだ。
今日の空は高く澄み渡っている。台風が通り過ぎ、今年の秋も深まろうとしていた。
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