弐-12
「う…、」
ㅤ自然に瞼が開いて、目を覚ました。
ㅤぼやけた視界が晴れてきて、白い天井が何も言わずに見返してくる。昨日も見た光景だ。自室であればすぐ横に水色のカーテンが付いた窓があるのだが見当たらない。ということは、またあの喫茶店に運ばれたのか。
ㅤゆっくりと体を起こすと、脇から聞きなれた声がする。
「目が覚めたんだね。よかった」
ㅤ首を回すと、微笑む千鶴の顔が目に入って、無事であったことを改めて実感し安堵する。
「あいつは、柏田は?」
「カイナさんたちが、あの大きな影を倒せば記憶は残らないし体にも害は無いから大丈夫だって。雪羅さんの車で家まで送り届けたから心配ないと思う」
ㅤ一安心だ。これで彼の身に何か起きたら、事の発端が彼であってもいささか後味が悪い。
「千鶴は大丈夫か?ㅤなにもされてないか?」
ㅤどちらかといえば重要なのはこっちだ。真剣な表情で問うと、彼女は嬉しそうに笑う。
「私は大丈夫だよ。瓏衣くんが助けてくれたから。でも…」
ㅤ不意に表情を暗くして、千鶴が目線を外す。そして、小さな手が伸びてきた。
ㅤそれが頬に触れた瞬間、
「イテっ!!?」
ㅤすさまじい痛みがはしり、思わず千鶴の手を跳ね除けてしまう。大きく動いた瓏衣をのせているベッドのスプリングが鳴いた。
「あ、わ、悪い千鶴…!」
「ううん。私こそ急に触ってごめん…。やっぱり、すごく痛かったよね…」
ㅤ千鶴が手を引っ込めながらうなだれる。今度は瓏衣が慎重に手を伸ばし、まだ痛む右頬に触れる。無論ガーゼに阻まれたが、しかし痛い。
ㅤ確か影堕ちした柏田に殴られたのだったか。
ㅤしまった。一発返し忘れた…。
「ごめんね、瓏衣くん…。私のせいで…」
ㅤ膝の上で拳を握り、消え入りそうな声で謝る。
「千鶴が謝ることじゃないだろ。オレはお前を助けに行ったこと後悔してないし、するわけない。それにそんな顔されちゃ、助けた意味無いみたいじゃないか。な?」
ㅤ頭を撫でてやりながら笑いかけると、彼女はゆっくり顔を上げて、それからようやく笑顔になった。
「うん」
「よしよし」
ㅤそれでいいと、二人は笑いあう。
ㅤ彼女の後ろにあるカーテンの無い擦りガラスの窓は深い群青色で塗りつぶされている。日は暮れてしまったようだ。
ㅤすると、瓏衣が不意に顔を青くして声を上げる。
「あっ!ㅤまずい柚姫さんに連絡…!」
「さっきしておいたから大丈夫だよ。あと小太郎くんにも」
ㅤ目に見えて胸を撫で下ろす瓏衣に千鶴はくすくすと笑う。
「小太郎くんも大したケガじゃないって。そう経たないうちに目が覚めて、駆けつけた彼のお母さまや倒れてた小太郎くんを見つけて付き添ってくださった先生にいろいろ聞かれたけど誤魔化しておいたからって言ってた」
「そうか。よかった。今度なんか奢らないとな」
ㅤ下に行こう。とベッドを降りて脱がされていたカーディガンを着直す瓏衣に千鶴が続いた。
ㅤ廊下を歩いて、階段を下りて正面の扉を開くと薫る香ばしいコーヒーの香りを肺一杯に吸い込んで深く息をする。
「起きたか。瓏衣」
ㅤ呼ばれて正面を見ると、四人掛けの席に腰かけたカイナがコーヒーを片手にこちらを見ていた。
「んお。起きたんやね」
ㅤカイナの正面に座っている雪羅もこちらを見る。そしてカイナの隣に座るセレンが彼の影からひょっこりと顔をのぞかせて安堵する。
「瓏衣さん!ㅤよかった!」
ㅤよく覚えていないが、きっとまた気絶してしまって心配をかけたのだろう。まだ知り合ったばかりだというのに親身になって案じてくれるセレンのまっすぐな性質が少し面映ゆい。
ㅤ瓏衣は千鶴と共に三人の座るテーブルの前まで来ると、姿勢を正して言う。
「改めて、千鶴を助けるために手を貸してくれてありがとう。助かった」
「私からもお礼を言わせてください。このたびはご迷惑をおかけしました。助けて下さり、本当にありがとうございました」
ㅤ体を折り曲げて頭を下げた瓏衣に倣い、千鶴もまた頭を下げた。
ㅤすると、三人は顔を見合わせ、少し困惑したように笑いあう。
「そんな、頭なんて下げないでください。だったら、なにもせずに後ろから見ていただけの僕はどうしたらいいんですか…」
ㅤ居心地悪そうに苦笑するセレンに頷いて、カイナが口を開く。
「そう固くなることは無い。私たちは当然のことをしたまでだ」
「せやで。それに、瓏衣はもう俺らの大事な仲間や。仲間が困ってるんやったら、助けたるんは当たり前やろ?」
ㅤ頭をあげると見えた顔はどれも気にするなと笑っていて、なんとない気恥ずかしに瓏衣は頬を掻いた。
「そうですよ!ㅤ瓏衣さんは僕たちの仲間です!ㅤ友だちです!」
「ああ。ありがとう」
ㅤ拳を握って懸命に言い続けるセレンに押されながら、瓏衣ははにかむように笑った。
「よっしゃあ!ㅤこれから頼りにしてるでえ瓏衣!」
「だっ!?ㅤく、苦しい!」
ㅤ雪羅は勢いよく席を立ち、腕を瓏衣の首に回して引き寄せる。思いのほか気道が塞がれたそれに瓏衣は慌てて抵抗する。
「君はいいのか?」
「え?」
ㅤ瓏衣と雪羅が戯れる様子を眺めていた千鶴が振り返る。呼びかけた張本人であるカイナは育ちがいいのか優雅な動作でコーヒーを一口喉に通して、
「瓏衣が私たちの仲間になっても構わないのか?ㅤ君は随分反対していたようだったじゃないか」
ㅤまるで、もう止めないのかと確認するように、試すように言う。彼が何を考えてそう言ったのかはわからなかったけれど。
ㅤ千鶴はもう一度瓏衣を見て、胸の上で手を重ね合わせる。
「はい」
ㅤ助けられてしまった以上、もうなにも言えない。
ㅤそれに、
「きっと、止めても無駄だってわかりましたから」
ㅤあの人は自分の周りの人たちを何よりも大事に思っている。自分の身よりもだ。
ㅤもう失くしたくないと、思い続けているのだろう。
ㅤずっと昔。両親を同時に亡くした、あの日から…。
ㅤ瓏衣を見つめる千鶴の表情に影が差したのを、カイナは見逃さなかった。
「二人とはこれから長~い付き合いになりそうやね」
ㅤ人懐こい笑みで笑う雪羅からようやく解放された瓏衣がいささかげっそりした様子で肩を落とす。
「瓏衣くん、千鶴くん、コーヒーどうぞ」
ㅤのんびりとした声がそう言いながら近づいてくる。この店のマスターだ。セットしたにしては巻きが緩い髪はやはり天然パーマのようである。
「カイナくんたちの仲間になるなら、これからもここに来るかな。ケーキとかもあるから、贔屓にしてね」
「はい!ㅤぜひ!」
ㅤケーキという単語に反応した千鶴が色めき立つ。すると、マスターはすかさずメニュー表を渡して決まったら言ってね、とカウンターへ戻っていった。
「あ、ところで、カイナに頼みがある」
「ん?」
ㅤ思い出したようにそう言った瓏衣は顔を上げ、真剣な表情でカイナを見る。
「改まってどうした?」
ㅤ瓏衣の真摯な態度に、真剣な表情で対応するカイナは持っていたカップをソーサーに置いた。きっと大事なことなのだろうと悟ったからだ。
「カイナさん。オレ、どうしても強くなりたいんです。今日みたいな醜態はもう二度と晒したくないし、なにより負けたくない。だから、」
ㅤ勢いよく頭を下げ、続けた。
「オレに剣の扱いと戦い方を教えてください!ㅤお願いします!」
ㅤ瓏衣の纏う雰囲気に影響され、雪羅たちは口を閉ざしていた。静まり返った空間で、頭上からほう、と少し驚いたような、けれど感心したような声が降ってくる。
ㅤ明確な返事をもらえるまで瓏衣は頭を下げ続けていた。
ㅤカイナは横にいる千鶴を一瞥した。マスターから渡されたメニュー表は持ったままだが、瓏衣の身を案じる彼女の眉尻が下がり、頭を下げたままの瓏衣をけなげなほどに一心に見つめている。
「…とりあえず顔を上げろ」
ㅤゆっくりと頭を上げ、やがて視界に映ったカイナは不敵に笑っていた。
「学業に剣術の修行と
ㅤ釘をさす彼の顔が途端に険しくなり、声が低くなった。対し、今度はそれに返す瓏衣の表情と声色が明るくなる。
「大丈夫。オレは全部一人でしょいこめるほど器用じゃないから、疲れたら周りに助けてもらうさ」
「無理してぶっ倒れる心配もなさそうやね…」
「はい」
ㅤいつの間にかセレンの傍に移動した雪羅が耳元で小さく言い、セレンが頷く。
ㅤ真剣な表情のカイナと、笑みのままの瓏衣が三十秒ほど睨みあう。
ㅤやがてカイナが口元を緩める。
「その頼み、引き受けた」
「カイナはスパルタやから、これから悲惨やで~?」
ㅤからかうように言う雪羅の方を向いてえ、と瓏衣が硬直する。
「か、加減、して…くれますよ、ね…?」
ㅤ早まったかとさっそく少し後悔しつつ、おそるおそるカイナを見やると、彼は顎に手を添えて考えるそぶりを見せる。
「ふむ。善処しよう」
「それ絶対しないやつ!!」
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