エッセイ「普通に考えてみると(六)」

@SyakujiiOusin

第1話

          普通に考えてみると(六)


                               百神井応身


1.みをやうなきものにおもいなして

 

 あんまり暇人だと思われるのもナンだから、小1時間そこらへんの事情を視察して会場に赴くと、例によって暇人が何人か(殆どいつもの顔ぶれ)もう集まっていました。

 「暇人は、早いね~」なんて憎まれ口を叩きながら木戸銭(会費)を払って座るやいなや、私がきたからもう始めるかってことで、プシューってことに相成りました。


 今回は、名前がわからない(顔は覚えていても)久しぶりの出席者や、失礼ながらその顔にも私の記憶が薄い方も何人かお見えになって、「どなたでしたっけ?」なんて聞きながら懐かしい時間を持つことのできた新年会となりました。

 そりゃそうだよね。私だって本名よりハンドルネームの方が通り易いってんだから。


 自己紹介などを聞いていると、まだ現役であったり、新たに何かに取り組んでいたりと実に意欲的なので、タイトルのようなことをいってちゃぁだちゃかん(信州弁で駄目というくらいの意味)と思った次第。


 時間無制限の会場じゃなかったから助かったけど、いつもの家人に部屋まで「ハッていってよ」って言われる二人を連れて(つれられて?)おとなしく帰りました。


 2次会と称して歌を唄いに行った人もいるらしいけど、聞くところによると朝早くに帰ることになって「あなた、おはなしがあります。」っていわれた人と、以前からの取り決めにより罰金1万円也を徴収された人がいるらしい。

 よいこは、門限を守りまもりませふね。

(はるばるきぬる たびをしぞおもふ)



2.も


 久しぶりに会った友達から「あなたも太ったわね~」と言われて傷ついたと怒っている人がいました。

 「は」じゃなくって「も」と言ってるのに、なんで怒るんだろね。

 「も」と言ってるからには同列なんだから、私も太ったけれど貴女も太ったねって意味であって、貴女「は」太ったねってことじゃないんだから何を怒ることがあるんだってんだ。

 だ~いたいやね~、少しばかりのことに「傷ついた」っていう言い草が馴染まない。

 腹がたったとか面白くないとか言うんならわかるけどね。


 同じように、よく使われる「いやされる」ってのも変じゃないか?

 癒すってのは元の状態に戻るって意味じゃないのかね。もっと先の楽しい領域まで行くことを望んだらいいのに・・・。


 今年花落顔色改 明年花開復誰在 寄言全盛紅顔子 伊昔紅顔美少女 ?



3.ものもち

 

 あなたは記憶力も良いけど、ものもちもいいネ。

 私はものもちがよくなくて、あれはいったいどこにいってしまったんでせふ、というので探すことが多い。


 高橋さんは、エライ。(マラソンの高梁さんのことです。)

 なにを言ったって、もう全部聞いちゃいます。

 絶望というのは、それを乗り越える気概のある人にしてはじめて使うに相応しい言葉。

 たいていは、その段階に行く前に諦めて、そこで終わる。

 もっとも、彼女はそんなこと一言も言ってないから、もっと器が大きいのかも。


 それを乗り越えた人の言葉は、圧倒的な説得力があります。

 走り終えてのあの爽やかさは、たいそうここちよい。加えて、マラソンという過酷なレースを戦い終えて、一流の人たちが、共通して相手を認め誉めているのもよかった。



4.やごい


 もうすぐお彼岸。

 お彼岸のうち、特に中日である21日に東北方面に出かけ、神社仏閣にお参りしたり瞑想したりすると良い。加えて言えば、その土地のものを食したり土産にしたりするとなお良いというので、昨年は春嵐を押して筑波山に行って参りました。土産は、地酒です。


 で、ケーブルカーを降りた山頂付近は突風が吹き荒れ、傘の骨が曲がってしまいました。

 「近頃の傘は骨が“ヤゴイ”から、折角の新しい傘が“ワヤ”になっちゃった。」と申しはべるに、うちのサイ(ツノはちかごろ見えませぬ)が、「信州の人は、ときどきわからない言葉を使うけど、ヤゴイってな~に?」と問いはべりぬ。


 「弱い」というような意味であるが、一言で変換できる言葉ってのがなくて、説明すると長くなるのがまだるっこしい。

 因みに「わやになる」というのは、駄目になるくらいの意味です。


 そんなわけで、寒さにあたって昨年のサイは体調を崩したから、今年は暖かいほうに行こうかと思っている。



5.よわい


 めでたく先日68をむかえましてござるよ。

 庭に遅い白梅が咲いたと、写真を友人が添付メールしてくれました。

 このごろ大分頑固になったんだとのこと。

 梅⇒東風⇒古地図⇒固痴頭 なんて酸断論法を構築するあたり、どうしてどうして固いなんてこたぁありません。

 なに?頭が柔らかいのはいいが、脳が軟かいのはまずいって?


 「マリアが語る一家の物語」ってのを、私も昨年だったかBSで見ました。

ウエスタンみたいなネーちゃんは、ちょっとイメージが違って感じましたけど。


 製作時の話しなども入ったレーザーディスクを持っているので、「サウンドオブミュージック」は、もう何回みたことやら。

 アルプスを越えてドイツ領の方に向かうラストシーンも、映画なればこそ。

 今度ザルツに行ったら、エーデルワイスを歌った劇場やドレミ橋やらも含めて重ねて見ると面白いかも。

 (余談ですが、かの地の人たちが言うには、映画のシーンに出てくるアルプス越えの方向は、あれではドイツに行ってしまうとのことです。 エーデルワイスの歌も、オーストリアの国歌ではないらしい。)



6.音叉


 離れているのに音の振動が空間を伝わって共鳴することは、よく知られています。

 この世のことは、物質も含め全てのものは振動数の違いによって現れているのだとも言われます。


「類は類を呼ぶ」とか「類は友を呼ぶ」とかいいますが、善は善を引き寄せ、悪は悪をひきよせる。

 その人の心のありようによって同じものを引き寄せ、対立するものを撥ね返すらしい。


 ツキとかヒラメキとか、何か偉大なものからの精妙な知らせは、澄んで清らかでいるところに齎されることが多いように見受けられます。

 他人との関わり合いだって、だらしなくて汚ならしい人は避けたいと思うのが普通の人情でしょう。

 身を清め、こざっぱりした服装で過ごした方が、本人だって気持ちよいに決まっている。その方が、回りに良い人たちが寄ってもきやすい。

 お掃除もきちんとしないと、人だって良い運だってやってこないのは自明の理だと思うのですが・・・



7.感応するエネルギー


 誰かのためにとか、何かのためにとかを願って動くときのエネルギーは大きい。

それは、結果として自分のところに巡っててくる。

 自分のためだけを考えての行動や思惑は、見透かされて、自分の期待通りにはいかない。

 信じ合えるものは、信じられることの延長線上にあるのではないでしょうか。

 口先でのことが信用を得られないとしたら、行動を見てもらうしかない。

 感応のエネルギーが齎すものは、大きいと思いませんか?



8.蟻の侵入経路に


 蟻が入ってきてしょうがないので駆除剤を撒いたのだけれど、それでも入ってきてしまうのだが・・・という相談があった。

 それはそうでしょう。ありの巣穴の中には、それこそ何万匹という後続部隊がいるのですから。

 巣を見つけて、そこで駆逐しなければ・・・ということになるのですが、蟻はお行儀よく列を作って進んでくるのですから、その進路の先にチョーク(白墨)で線を引いて妨げるというのが、簡易的な防御策です。

 どういうわけか、蟻はチョークの線を越えるのが嫌なようです。



9.月に叢雲


 新聞の投書欄に、瓜田に靴をいれずというのが出ていて、懐かしくも50年前の高校時代の授業を思い出しました。

 君子防未然 不處嫌疑問

 瓜田不納履 李下不正冠

 (君子は未然に防ぎ 嫌疑の間に處(お)らず 瓜田に靴にいれず 李下に冠を正さず)

 「瓜田に靴を入れず」というのは間違いであると、漢文の時間に習った。

 「李下に冠を正さず」はわかるが、「瓜田に靴を入れず」では何のことか解らない。

 瓜田で靴“に”足を入れようと手を添える動作は、瓜を盗っているように見間違われる、ということを言うからだ、とのことであった。


 もののついで

 ウエブページを見ていたら、月は叢雲 花に風 というのがありました。

 「月は」は、「月に」でないとおかしい。

 むらくもも、風も邪魔なものということなのだから・・・



10.自分が変わるキッカケ


 野菜でも果物でも、それを得ようと思ったら、まず種を買うか苗を買うかするのが一番最初にすることであります。

 出来上がったものを買うという方法もありますが、いずれにしても対価というものがどこかで発生しています。

 これが願い事を叶えようと思ったり精神世界に関わることであっても同じこと。

 どこかでキッカケ或いは原因となるものを、言い方はいろいろあるでしょうが買っているのです。

 それもしないで結果だけ得ようとしても、それが土台無理なことは、当然といえば当然なことです。

 

 物事がうまくいかない人は、理屈付けをしたり文句をいうことはあっても、種を買うということをあまりしていないのではないでしょうか。

 自分で買った種は、大事に育てるというのも、自然な流れの中にあります。


 中華ということを前に書いたことがあります。

 ある意味で自分が中心であるとすることは正しいのかも知れませんが、それは自分勝手ということではない。

 自分の神性ということからくるものと、程遠くなってしまってはならない。


 南蛮(なんばん 南の蛮人)・北荻(ほくてき 北のむしけら)・東夷(とうい 東のエビス、人のようで人でないもの)・西戎(せいじゅう 西のケダモノ)ということで、自分が真ん中であるとして周りを馬鹿にしているようであってはならない。

 それは、翻って自分の神性を傷つけかねない。


 中国における中華思想でいえば、周りにある国の名前は、必ず二字以上にしていました。

 四足であるもので食べないのは椅子だけだ、という食文化を誇りますが、四というのも好きなようです。

 これは、わが国では4とか9は好まれないことと異なります。捉え方が違えば思いも違ってくるということでもあるから、拘らなくてよいのかも知れない。

 風水で流行の、四神。青龍・白虎・朱雀・玄武(東に大きい川、西に大きな道、南に開けた湖、北に小高い山)

であるから、迷信でも何でもなくて、四神相応の地はいいに決まってる。

 四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)は、わが国でも現に大事にされている。四があながちわるいものではないと気づく。


 気づいたことが齎すことで、思い上がっての増長慢ということになるのは頂けないが、もっと悪いのが卑下慢。

 「どうせ私なんか」と謙遜を通り越して、聞いている此方がうんざりするほど自分のことを蔑んでいるかのように話すのは、卑下しているのか自慢しているのか分からない。


 なぜこれがいけないのかというと、そもそも人の本質であるところの内なる神というか真我というかハイヤーセルフとかいうものは、最高のものの筈だからである。

 自らを貶めたような物言いをしていると、潜在意識は自分のことをそういうものだとして、そういう結果に導いてしまうからである。

 人は、自分が決めたものの通りになるというのが真理。

 少し自惚れたくらいの考え方の方が、物事がプラスに働くようです。

 書物や学問による知識や技術は、人が人としての本質に気づいたときに力を発揮する。

 自分が変わる為には、信念の枠組みを変える必要があります。

 自分が今まで信じていたものは、本当に確固として揺るぎないものなのでしょうか?

 本当に自分自身が考えて築き上げてきたものばかりでしょうか?

 得てして、育つ過程で刷り込まれたものであったり、他人がそう言うからとそれに従ったりして、そんなものだと思いこんだり、小さく拘ってしまっていることが多い。

 もう少し視野を広げてみたり、内心が囁きかけてくることに耳を傾けてみると、新しい世界が開けるもの。

 そうして自分の過去を見直してみると、失っていた自信が取り戻せることが多い。

 セルフイメージを修正することで、大きく変わる可能性があるのです。

 感情の呪縛から解き放たれて、自分を許し他人を許し、自分を愛し他人を愛すことができるようになれば、物事がうまく運ぶようになるようなのです。

 先週、車に乗っているときにラジオを聴いていたら、「初めに言葉ありきっていうのは嘘である。最初は、あーとかうーとか叫び声であったのです。」というようなことを言って、聞いていた司会者も「そうだそうだ」という相槌を打っていました。

 冗談をいっちゃあいけません。

 あーだのうーだのでは、一部の感情表現や僅かな意思表示はできるでしょうが、言葉がなくて世界が形づくられる筈がないのです。

 言葉は、まだ発見されていなかっただけで、共通の言語とはなっていなくとも元から言葉はあったと考えないと、有象無象何事も具現できないことになってしまいます。

 この世のことは、波動が全ての元ということであるとしたら猶更のことになりります。

 波動という言語の形で、内心に伝わってくるものに気づく必要があります。



11.困ったもんだ


 むかしは官姓名(所属身分)を明らかにしてからモノを為したから、世間様に恥ずかしいことは自ら慎んだので、まわりも芯のところでは性善説を採って大過なかった。


 ちかごろは、物影にかくれ、誰の所業かわからぬようにして天人ともに許されぬことをする者が多く、バレても大抵は心神耗弱とやらで、乃至は未成年とやらで、被害者よりも加害者の人権のほうが擁護されるから始末が悪い。

 そりゃおかしいだろうと声をあげる人は少ないし、思っていてもそうしないでいることに慣れると、善悪・公平寒を感じる能力さえ失せる。

 そろそろなんとかしないとまずいんじゃないかってこと、周りに多いんじゃなかろうか。



12.内なるパワー


 どんな形であろうと、意識の中にしっかり刻まれた心象は、必ず実現するといわれます。

 ひとつの願望が生まれたとき、それが達成されるのを阻むのは、自分の外側には自分の中にあるよりも大きな力が存在しているという誤った思い込みではないでしょうか。

 人は「意識の閃き」ともいうべき知性を生まれながらに内臓しており、自分の存在の法則に忠実なその意識からくるパワーに気づくには、あるキッカケが必要なのかも知れません。

 頭でわかっているのと、行動を通してわかるのとの違いは大きいと思うのです。

全ては、自分の内にあるのだと気づくには、信じて知るという過程を踏むわけですが、願望の実現に向かうとき、潜在意識に点火することなしに発動するということにはならないようです。

 やらなきゃわからないといわれる所以ですが、望む結果を得られないと嘆いている人の多くは、新たなことを為すにあたって、できない理由を探す名人のようにみえます。やらないことの理由付けにできない理由をあげたら、それは限りなく出てくる。

 しかし、和割から見ている人には怠けものか弱虫の逃げ口上にしかとられていない。



13.這っていく


 友人の所に夕方電話をしたところ、夫人が出て、まだ帰って来ていないという。

でも、「あっちょっと待って下さい。今、庭を這っているところですから。」


 この話には、前段があります。

 いつも酔っ払って帰宅するなり、玄関先で倒れて寝てしまうので、部屋まで運ぶのが大変だと「貴方、這っていってよ。」と言ったのだそうです。

 そうしたら「ハッ、ハッ。」と言っていて旦那はいつかな動こうとしない。

 夫人が私に話すことに「本当に腹がたつんですよ。這って行ってよと言っているのを、ハッて言ってよ。と茶化しているんだから・・・」

 酔っ払い恐るべし。



14.猿になる


 子供の頃、猿は人間より毛が3本足りないのだと言われ、信じていたことがある。

 猿はあんなに毛深いのにと思い不思議ではあったが、毛を抜かれるのを恐れていた。

 毛を3本抜くと猿になる?

 いえいえ、木になるのです。

そ~りの~すず~さえさびしく響く(橇の鈴さえ寂しく響く)なんて歌がありました。

 古いねだって?


 東北自動車道の佐野インター近くに、三毳山(みかもやま)というのがあります。

 この山の斜面一面に森のバレリーナとも呼ばれる「カタクリ」の花が時期になると咲くことで有名です。

 ちょっとしたハイキング代わりにお出かけになったはいかがでしょう。



15.三人寄れば


 文殊の智恵が出るのか姦しいのか知らないが、選挙が終わりました。

 わが国は、中庸(ちゅうよう)すなわち偏らないことを好むということなのではなかろうか。

 エライ?コメンテーターが出てきて、いろいろ分析して尤もらしいことを言っているが、そうなんだろうか?

 ちょっと振り返って前の選挙のことを考えてみれば、あのとき「1度やらせてみればどうだ」というのが大半の判断基準であったのではなかったのか。

 やらせてみたら、嘘をつくとまでは言わないまでも、約束は破るし口で言っていたほどのことはないし「な~んだ同じじゃん。このまま数で暴走するのはまずいんでは?」と、肌で感じたということのように思える。

 TVで、躍起になってリードしようと大声を出すコメンテーターの策には、なまじっか乗らない方が良いということでもある。

 政治・宗教・イデオロギーは、同窓会やふるさと会などの集まりのときの話題には馴染まない。

 この手の話題が出る集まりが、長く続いたという例を聞かない。

 市民代表を標榜して声高に叫んでも、市民とは国家から保護を受けることの引き換えに国家に忠誠を誓う者という意味であろうから、責任もとらず胡散臭いことを言っていると、一応もっともらしくても、なんとなく本物の市民から見透かされてしまうのかも知れない。



16.うるおい


 ビルの谷間、入り口に至る石段に花を飾っている会社さんがありました。

 ちっちゃな入り口だし、そこを登る人は、すこし体を斜めにして花をよけて通らねばならないでしょうが、多分腹を立てながら通る人はいないんじゃなかろうか。

 花の名前はわかりません。


 花の名前と言えば、「アメリカ石楠花」という和名がついているのに、カルミアなんていう名をつけて花屋さんに飾られている。和名があるのに洋風の名が付いているものは、他にも数多い。なかなか覚えてられないが、それはそれでいい。



17.エライ


 富士山に登ったんですと?

 察するに登山経験が多いとも覚えず、登山方法に無棒の気も多少あるやに思いますが、なんてったってそのチャレンジ精神と頂上まで踏ん張った気力は、永く後世まで語り伝えられるでありましょう。


 富士山は、鳥居が見えてからが長いだよね。歩けども歩けども歩けども一向に頂上近くならなくて、ホント、めげそうになる。

 しかし、しっかりご褒美はいただいたようですし、よかった。

 澄んだ蒼い空の色であったり、吹き抜ける爽やかな風であったり、名も知らぬ小さな花の鮮やかさであったり、言葉には表せないが、心の奥を確実に揺さぶるなにかが身体に残る。

 おまけに体調もよくなったとのこと。限界まで搾ると、悪いものはみんな出て行ってしまって、綺麗な水と入れ替わるせいなのかもしれません。


 私は、4合目あたりから登り始め日帰りしたことがありますが、下山中にちょっと後ろを振り返ったときにバランスを崩し、5~6メートルほど空中を跳ばされて、岩肌にあと数十センチで激突したかもしれないということがありました。ナメたらあかんぜよ。

 日本人なら、一度は登ぼらないと埒があかない。

 でも、もう一回登るか?と聞かれると、二の足を踏む。あそこはキツイ。



18.擬宝珠

 京の五条の橋の上というか、欄干の飾りであるギボシ(ギボウシュ)というか、庭木の元などに植えられるユリ科の植物ギボシ。

 山野にありてはウルイなどとも呼ばれ、お浸しなどにして葱などと同様のすこしヌルっとした食感を楽しむ。

 これとは、どう見たって間違いようのない毒草のバイケイソウと間違えて食べ、食中毒をおこす事故が多いんだというが、どこをどう見ればそうなるんでしょうね。


 間違いやすいものには、行者ニンニクとスズラン、ニリンソウとトリカブト、フキノトウとハシリドコロなどなどあるが、タラノメだといってウルシの芽を採るのは間違いすぎじゃあるまいか。

 まあそうは言っても、ことキノコということになると見分けられないから、あんまり偉そうなことはいえません。

 山菜が美味しくなる季節となりました。



19.きれあじ


 切れ痔ではありません。切れ味です。読み間違えないように!


 遅い時間に昼食を摂りに出かけました。外に出ると空模様が悪い。用心深い私としては、杖ならぬ降らぬ先の傘ということで、1本買い求めた次第です。

 レジの若いおねいさんが、値札だのタグだのを外してくれるというから頼んだところ、取り出したのがカッターナイフ。

 切れが悪いのか力んで刃を引っぱったところ、勢い余って隣にいたおばちゃんの近くまでは刃先が行ってしまった。

「おおアブネー。物じゃなくって息が切れそうな刃物だね。」というと、苦笑いしながらそのネイサン「もっと稼がないと新しいのを買って貰えないんです。」なんて応えた。

 そんなこと言われたって、傘は1本以上はさせませんから、2本は買いません。

 刃物は、切れ味が悪いと怪我のもと。

 抜けばタマちる氷の刃、な~んてこと言いますが、このタマってなんのことなんでしょうね。



20.クマガイソウ


 出かけた帰りに、忍野から山中湖のあたりを車で走りました。

 まだ八重桜の花が残っていて、気温の差を感じさせられました。山中湖には、白鳥が何匹も浮かんでいて、人が構わぬ静けさ穏やかさがありました。

 とあるお店に、小さな鉢植えにされた“こあつもりそう”が、指先ほどの花を咲かせて売られていました。

 「これ、買って帰って来年また咲かせられるかね~?」と尋ねると、即座に「いえ、駄目だと思います。来年は芽がでません。」との返事が返ってきました。

 正直で、非常によろしい。

 やっぱり、「花は足で見るのが一番」なのかも知れません。

 このセリフ、「メヒコの壷にくれないの色を添えて。」というのが口癖の、大学時代に人文科学の教授がよく言っていたっけ。



21.忍び音もらす


 都内ではあるが、家の少し先の林の中から、朝早くウグイスが鳴く声が聞こえてくる。

 里のウグイスの鳴き声は拙いのだとか聞いてはいるけれど、この鶯かなりうまい。

 山中と違い里のウグイスの鳴く声が余りうまくないのは、ウグイスづきあいがないからなのかも知れません。


 近頃は、人里にあっても人の付き合いが薄くなったのか、親子にあっても、いとも簡単に、痛ましいとしか言いようのない事件をつぎつぎに起こしている。


 可愛がり可愛がられた経験がないのかも知れないが、犬猫にも劣っているような有様に、いかんせん手の出しようがない。

 縦の繋がりは、先人の経験や知恵を伝えるに力があったし、わきまえということもその中で自ずから身についたのではないかと思うが、変に物分りがいい知識人?というのが声高に内心の自由なんてことを言って、子供を未熟な判断しかできない段階から野放しにしているから、社会における最低限のマナーさえ守らず義務も果たさないで平気、という輩が増えたんじゃないだろうか。

 それがそのまま大人になったんじゃ、次の代はたまらん。

 いい子は一杯いるけれど、そのいい子たちが憂き目を見るのが日常ということでいい筈がない。


 中学校のときの成績が音楽と技術が2という以外はオール1だったという方が、20歳のとき一念発起して、九九もままならなかった小学校の3年のドリルからやりなおして難関名古屋工大に合格、大学院も経て母校の先生になったというのをTVで見たことがある。

 本人のご努力もさることながら、周りに親身になって協力して下さった方が沢山いたのに違いない。

 なにかを一所懸命やり、それを励まし支える周りがあるという人間関係って素晴らしい。

 ちかごろ軟弱に流れるきらいのある私には、奮いたたねばならぬと痔核痛し増し多次第。

 やってやれないことはない やらずにできるわけがない



22.そうは言っても


 山道をあるくと、ナガイものが出てくる季節になりました。私だってナガモノは好きじゃない。徒然草では、これをクチナワっていったっけ。

 私の会社の近く、浅草にはフクチャンという名の、知る人ぞ知るヘビ料理屋さんがあった。前を通るときは、なるべく見ないように横を向いて歩いたものでした。


 台湾の旅行にツアーで行くと必ずといっていいほど、「ヘビとマングースの戦い」というのに連れていかれた。

 其処には、大きな甕がいくつも並んでいて、覗くと何千匹ものヘビが折り重なるようにして酒漬けにされていた。

 噛まれると100歩歩かないうちに死ぬほどの猛毒を持っているので、100歩蛇(ひゃっぽだ)と呼ばれるもので、毒が強いほど効く(なにに効くかっていうと、アレ)んだから是非買って帰れと、つきっきりで勧められるのが毎度であった。

 見るだに怖気をふるうものを、まかりまちがったって口にするわけがありません。

 この猛毒をもった蛇を獲るのを生業にしている人だって、時には噛まれて精子のおっと生死の境をさまようことがあるらしい。

 そんなことを何度か繰り返した人は、逆に蛇に噛み付くと蛇が死ぬんだと、ウソだかホントだか話しながら、蛇を原料にしたという薬を尚もしつこく勧めるのである。

 そんなに漢方薬が効く国に住んでいるのに、日本に旅行に来ると、真っ先に日本の薬は効くからと薬局に行くんだと、添乗員が笑っていた。


 最近の話。

 近所の八百屋のおばちゃんがいうのに、このあたりにもC国から来ている人が増えたんだとか。で、野菜を買いに来ると、「国産の野菜を下さい。」と注文をつけるんだと。

 国産というのは勿論、日本産ということであります。

 ナガモノの話をすると、長くなるから、もうおしまい。



23.つかまる


 つかまる “ような”ことはもうしません。


 この文の二つの意味をのべよ。

 1・捕まるようなことは、申しません。

 2.捕まるようなもとは、もう、しません。


 “ような”で思い浮かぶのが、ニュースなどでよく言われるバールの“ようなもので”ドアをこじ開けとか、拳銃の“ようなもの”を突きつけっていう表現。

 “ような”っていうからには、そのものではないということなのかしら?


 子供の頃、注意されるとよく言った言葉があった。

  「これから、なおします。」

 1.これから直します。だと思って勘弁してもらうと、

 2.これから、尚します。などと悪たれる言葉遊びでした。



24.ツキにつながる感覚を回復する


 ツキと言っても、月のことではありません。

 今日はツイているとかツイていないとかいうときのツキです。

 自分をついていないと嘆く人は、極端な言い方をすれば、つかなくなるようなことばかりしているのではないでしょうか。

 不平不満ばかり言っていて、気づきさえすれば、そこにツキの種があるのに、自分からは何もしないで、つかなくなるような考え方や生き方をしているのかも知れません。

 他人や世間や社会や政治のせいではないのにです。


 ツキは生き物。誰にでも気づきのチャンスやお知らせはあるのに、既成観念に捉われてしまっていて、頭で理屈付けをして素直にやらないから逃がしてしまっているのではないだろうか。

 この次とか、後でということはないらしい。

 気づくという感性を磨かなくてはならないと思うのです。

 「ああそれだったら知っている」とすぐに言う人は多いけれど、その人は決して自分のことを幸せだと思っていない。

 知っているだけで幸せになれるなら、読書家や知識人は皆そうなっている筈。

 実際にやってみて「解る」ということと「知っている」との差は余りに大きい。

 天からの啓示とかインスピレーションとか潜在意識とかに気づくのには、縦の線のつながりであるから、この感性を取り戻さなくてはならない。

 この精神性の働きに近づくには、ささいだと思える気づきにでも、すぐに行動に移す、それも心をこめて自分でやることを強くおすすめします。



25.ながらえば


 アゲハチョウの幼虫に、見る影もないほど丸坊主に食べられて、芯のところが僅かに緑色を残すのみ、あとは枯れるのを待つばかりの状態まで追い込まれたのですが、植物の生きようとする力は、凄まじいものがあります。

 刈り取るに忍びないとして残しておいた、フェンネルが花を咲かせ種を落として、今年も青々と繁っています。

 この茎をホワイトクリームシチューかなんかに入れて食べると、これがまた滅法美味いのです。

 なによりも、めげないで成長したそのエネルギーを有り難く頂戴して、それに肖ることができたら嬉しいことであります。

 

 昨年は、幼虫がいっぱい元気に葉っぱを食べていたのに、今年は一匹もいません。

 陽気が定まらなかったからなのか、生き延びるのが厳しい環境に耐えられなかったのか、アゲハチョウの飛来が待ち遠しい此の頃です。



26.ぬぐいようのない不安


 言い表せなくいけれど、そこにいつも確実に有る不安に、誰もがつきまとわれています。

 不安を抱えながらでは、何をやっても上手くいかないのは当然です。

 それは必ず、成功への努力の足を引っぱります。不安こそが元凶です。

 前向きに考えることでそこから逃れようと思ってみても、気がつけばそこにドップリ嵌りこんでしまっているのが、人の常です。

 では、どうすれば良いのかということになるのですが、誰かに丸ごと預ってもらうのが一番良いということになります。

 しかしながら、そんな面倒なものを、一体誰が預ってくれるでしょう。

 それを快く預って浄化までしてサッパリさせてくれるのは、子孫の繁栄を願っているご先祖様以外ありません。神様にお願いしようと思っていることでも、親身になって取り次いでくれるのがご先祖様だと気が付くと、仇や疎かにはできないのだと思える。

 しかし、わけのわからない不安というのは、自分が動かないときに起こりがちだともいいます。そしてそれは大抵の場合起こらない。もしそれが起こったら、その時に対処すればいいのだとも。



27.まじめな話


 小さなカバンにつめた花嫁衣裳は ふるさとの丘に咲いてた野菊の花束・・・

なんて歌があったっけね。とても好きな歌です。


 「終わりよければ全てよし」とはよく言いますし、「始め良ければ全てよし」もよく聞きますが、「今がよければ」というのは、どちらかと言えば悪い意味でとられます。

 でも、過去に縋ってでは生きられませんし、明日をのみ思い煩ってということでは、幸せなどとてもとても遠い世界のことになってしまいそうです。

 今このときが有りのままで全部良いと思えないと、そしてそのことに「これでよいのだ」と感謝できるようでないと、幸せの世界には辿り着けないのだとも聞きます。

 なんとなれば、今起っていることは魂を磨くための気づきとして必要なことであり、その気づきなくしては、生まれた甲斐がないからだというのですが・・・

 全て良しという境地は、悟りの境地なのでしょうかね。



28.やまごぼう


 さくらんぼ はながさ だだちゃ やまがたぎゅう


 山形には有名な旅館がある。女将をはじめ番頭仲居に至るまで、あんまり自慢するんで辟易したことがある。ものには程度というのがある。

 部屋に入ると開口一番「お茶は封切りでございます」次が「トイレに活けてある花をご覧ください」と言った具合。

 言われなくたって見りゃわかります。言わぬが花ってこともありますぜ。

 

 で、主題の「やまごぼう」が何かってお話しになるのですが。

 私がそば粉100パーセントの蕎麦打ちを習ったのは、その旅館に泊まった後の山形ででした。名人の教えに従って粉だらけになりながら打ち上げた蕎麦を、早速茹でて食べたのでしたが、うまいのうまくないの。

 その時に名人が話してくれた中に、ツナギとしてヤマゴボウの葉っぱを乾燥して揉んだ粉を混ぜると美味いというのがありました。

 しばらく後、三国峠に登ったときにそのヤマゴボウが一杯生えていたので、葉っぱを摘んだのですが、どうやって使うのかわからないまま、どこかに散逸してしまいました。

 中途半端はいけませんやね。


 ところで、ヤマゴボウの味噌漬けというのがあるが、これはモリアザミの根や細いゴボウが使われている。

ヨウシュヤマゴボウという植物があるが、これは毒草です。


 そろそろ山菜狩りの季節。

 今年も出かけようと思っていますが、このところの天候不順の影響やいかに・・・



29.夏でも寒いヨイヨイヨイ


 7月だというのに、山にはまだ雪が残っているんだとか。

 先月登った山も、2000メーツル足らずだったが、北斜面の日陰には残っていました。


 寒いというのはそれではなくて、ヨイヨイを心配する年代になって先日酷い話を聞きました。

 歯ブラシっていうのは歯を磨く道具だと思ってましたら、憎い旦那のそれを使ってトイレの便器磨きをする人がいたんだって。そんなの、TVで面白おかしく取り上げることか?

 洗濯物を割り箸で摘んで洗濯機に入れるというのは前に聞いたことがあるけれど、それ以上に心胆を寒むからしめる。

 人としてのノリを越えてしまっては、いかに主張があったにしても後生がよくあるめえ。

 どっちにも言い分はあるに決まっているが、こういうのに限らず、腹いせや悪意で陰に回ってやることが諸方に多くなってきたのはどうしてなのでしょうね。

 主張が入れられないのは義務を果たしてないということも多いに違いないが、分からなきゃ何をやってもいい、自分さえよきゃ他人はどうでもいいっていうんじゃね~。



30.回文・怪文


 チンパンジイ外人パンチ

 なんのことかわかりませんが、「世の中ね 顔かお金なのよ」と同じ回文です。 (珍犯爺)


 信濃芋とはどんな芋か?信濃者とはどういうことか?とのクイズがありました。

で、信濃芋は、炉辺で焼く芋とは違いますが、父ちゃんと寝ないでも種芋は大事です。

 芋の前に地名が付くのは大体がジャガイモですから(ジャガタライモ・コウシュウイモ)、馬鈴薯とさよう推量します。

 じゃあサツマイモはどうなんだっていわれると困るのですが、そういうことを言うのが、信濃者っていうこと。


 板東太郎で知られるように、太郎とか次郎っていうのは川の名前に多いようです。



31.希みを叶えようと思ったら


 願いや希みは、思っているだけでは叶わないのは皆様ご存知の通りです。

 願望達成の自動制御装置だといわれる潜在意識に、願いを届かせる為には、前段階として何らかの行動が必要となります。

 紙に書き出したり、口に出して宣言したりでそれができるのは、いうなれば達人の域に達した人でしょう。

 そうでない人は、良いと思われること良いと言われることを、先ずやってみる素直さが、人智を超えた大いなる力に触れる入り口となりましょう。

 ぐずぐず不平を言っているままで、何もしないでいて道が開けることがないのは、自明のこと。

 やらずにできるわけがないのです。



32.自分が気づくキッカケ


 オーム返しの活用。

 他人からの乱暴な言動によって気分が乱れるということは、誰にでもよくある。

 しかしながら、これは簡単に考えて放置しておけないことです。

 荒い波動は心を傷つけ、いつまでもわだかまりとなって残るようだと体のためにも良くありません。

 霊感の鋭い人などは特に、「うけて」しまう状態となって、後々まで影響が出がちです。

 こういうのは、その場ですかさず「この嫌なことは、このまま全部お帰り下さい。」と心の中で唱え、嫌なことをした人にお返ししてしまうのです。

 オーム返しの術とでも言えばよいでしょうか。

 嫌なことをしたのは自分ではないのですから、とらわれてしまうことはありません。

 因果は巡る火の車。これがお互いの向上のためによい方法です。


 うらのはたけでポチがなく しょうじきじいさんほったれば・・・

大判小判がザックザックザックザクってなようなもんです。

 花咲か爺さんのお話しでは、正直爺さんが良いということになっているが、何でも正直というのが実社会で役立つのかというと、そうでもないから悩ましいのです。

 正直者が馬鹿を見るとよくいわれますが、正直とは一体何なのでしょう?

 嘘の反対でないことは確かです。

 よく考えて、自分の精神性と折り合いをつける必要がありそうです。

 

 なにかをやりながら別のことをやる、ということがあります。

 効率的であり、能力があることの証明のような捉え方もできますが、時間が限られていて忙しい現代ではやむをえないことかも知れません。

 でも注意力が散漫になってしまうなら、求められていることに深さが必要なときは、望ましくないかも。


 食事をしていてわかったのですが、泣きながらとか怒りながらとかであれば、ものを食べるということはできます。

 しかし、笑いながらということになると、それはできません。

 笑うということは、それだけに集中するようになっているのかも知れません。




33.源平


 源平の戦いが終わって、落人伝説ができたといいます。

 そこがそうなのかどうか調べたことはありませんが、山登りで各地を歩くと、よくこんな厳しいところに人が住んでいるねと思うような場所を目にすることがあります。

 “平家の”と頭につくことが多いのだけれど、どうしてなのでしょうね。

 それ以前にだって国譲りをしたということに神話ではなってはいるが、それは天津神と国津神の戦いがあったのだと考えるのが普通だし、事実、国津神のタケミナカタノミコト(諏訪大社の祭神)は天津神のタケミカズチノミコト(鹿島神宮の祭神)との戦いに敗れて出雲から諏訪まで落ち延びたということになっているから、その頃から隠れ里というものができていても不思議ないはずなのに・・・

 まあ、厳しい土地ということが前振りなんだけど、ソバというのは昼と夜の温度差が大きくないと結実しないと言われています。

 すなわち気象上も厳しい土地で作られたということになる。

 それに較べれば、優雅といってもよいかも知れないのが今川氏。

 織田との桶狭間の合戦に破れた後のことは余り知られていませんが、私の近くに今川という地名があります。4丁目まであるくらいの広い地域です。

 今川氏の裔は徳川家に仕え、このあたりに住んでいたのだとか。この平は肥沃の地ですから、作物は何でもできたんじゃないでしょうか。



34.言葉への拘り


 私が再三にわたり何故言葉に拘るかを説明をせねば、一方的との謗りを免れません。

 以下の通りです。

 個人は、少なくとも言語を使うにおいて、決して他者から切り離しては考えられない。それを介する以上、他者とのかかわりが予定されており、好まないと言ったところで社会性がついてまわることになる。

 しかもこれを文字にすることで、人を喜ばせることもあるが傷つけることも更にある。高度に発達した精神活動を、あやまたずに表現することは至難というより不可能に近い。

 だからありったけでものを言うとき、可能なかぎり美しいことばで素直に表現することで、理解してもらうこともできたし、また逆には、性、善なるものと他を汲み取ることもできた。


 日本語の成り立ちのなかで、伝承形式として確立した音声としての日本語が既にあって、そこに文字も備えた中国語がはいってきたと考えられる。

 取り入れざるを得なかった他文化は、その言語を理解することなしに、仏教であれ律令であれ触れることが適わなかった。

 しかし神話や万葉に知ることのできる美しい日本語は現にあり、それを失わせることなく内容を読み解こうとすることは想像するだに苦難の連続であったとするに難くない。

 模索模索して、ついには訓を使うという二重の読み方を発明することで、双方の文化を統合するを得るに至ったのだと思う。

 しかも日本語を表す文字は、音のみならず『意味』までを兼ね備える。

 そうしたあらゆる努力をしたに違いない先人を思う時、仇や疎かに言辞を弄してはならないと思うのです。

 言葉は、己をわかってもらいたいがため発せられるとしたら、その土俵にあがるときに必要な普遍的ルールであるというのが私見です。

 人間は、唯一学習を許された動物であり、よい事を積み上げ伝統と昇華させることができるのであれば、及ばぬまでも歴史をつなぐ役割を少しなりと担わなくてはとも思うのです。


 中国の周辺諸国に言葉遊びができるほどに文字を発達させたところが日本以外にあるとは、私も寡聞にして知りません。

 わが国には、平安の昔から掛詞をはじめとするシャレた言葉の文化があります。 そのこと自体は、私も好きな部類はいります。

 暴走族が書きなぐるおどろおどろしい誤変換は勘弁ねがうとして、羅列、思いつきのままでなくどこかにキラリと光る「娯変換」のちりばめであれば教養として受け止めもできます。

 自分でわかっていることなので正直にいいますが、気性はどちらかといえば激しい方で、どうにかコントロールできるようになったのは、不惑を越えてからのようです。ですから抜けきれないクセがまだ残っていて言わずもがなのことを言っている恐れは十分にありますが・・・、



35.後ろ指


 talk behind a person’s back

 後ろ指をさすとか、さされるとかいう表現があります。

 何をやっても恥とも悪いとも思わず、自分の得になれば構わないとしてしまう、またそれを見て見ぬ振りをしてしまう風潮があるが、そんなのは長い目でみれば大して得にならない。

 なぜか。

 人間は長い歴史のなかで培われた規範意識というのが深層にあって、良い悪いの判断は自分でしているからです。

 それに逆らった行いは、自分の引け目と感じているから、それはマイナス思考として蓄積されて、肝心なときに良い結果を導き出せないことが多い。

 何も聖人君子の如くあらねばならないということを言うつもりはないが、セコイことはしないに越したことはない。

 先人達の智恵として残されたものは、理論だてて、或いは秩序だてて説明されてはいなくても、そのようにした方が結果が幸せだということが多いから、聞く耳と見る目というのは必要である。



36.自分が変わるキッカケ


 内緒にしておきたい話しを「ここだけの話だけど、絶対誰にも言わないでね。」とやると、それは瞬く間に広まる。

 「何々については、もう考えないようにしよう。」と思うと、それは何時まで経っても意識や記憶から離れない。

 気持ちが落ち込みそうになったとき、ソレを打ち切る為に自分がもうこれ以上とらわれないぞと宣言する言葉を作っておくとよい。

 マイナスに向かう意識というものは、際限もなく深まってしまうからです。

 だから、例えば「もうお終い」とか、「あとは神様におまかせします。」とか口にだして線を引いてしまうのです。

 もう一つ、丑三つ時(午前2時)過ぎに暗いことを考えないというのも大事なことです。

 陰陽でいうところの陰の時間帯に考えることは、概して良くないことが多い。


 人は誰でもそうだと思うが、心の底に言い知れぬ不安や恐れ、心配事を抱えている。

 まだ現実に起ってもいないことを、あれこれ心配して考え込んでしまうのあまり、不安を引き寄せて現実化してしまう。

 なんとなれば、人は自分が思った通りのものになるというのが真理だから。


 神様は、乗り越えられないような困難をお与えにはならないと言われてはいるものの、不安や恐怖から解放されて自由でいることは難しい。

 そんな馬鹿な。信じられない、と言っていて、確かめたわけでも、わずかな手間もかけたわけでもなくて放置してしまっていることというのは多い。

 でも、自分の判断の基準となっているものって一体なんなのであろう?

 自分がそんなにご大層なものでもないくせに、決め付けてしまって一顧だに与えないで捨ててしまっているものの中に、重大なものがあったのかも知れない。

 スピリチュアルなものは、外からのオカルトのようなものでないかぎり、自分の内なるものが知らせてきていることがある。

 縁のような形で気づきを求めているのは、強制でも何でもないから、見過ごしてしまいがちだけれど・・・


 何事をも可能にするという潜在意識の力は、最近とみに知らされることが多い。

 24時間休み無しに目的達成に向かって働く自動装置であるともいわれるが、一方で潜在意識は変化を望まないとも言われる。

 いかにして願いを潜在意識に浸透させるかということに、意を尽くす人が多い。

 でも、潜在意識には既に、次々に書き込まれてくる願い事が限りなくあって、それらが競合干渉しあって、打ち消しあっているからなのではないかと考えると、合点がいくことが多い。

 先人は、願いのすじがあるとき、整理整頓清掃などで周りを綺麗にし、自らも身を清め、瞑想や座禅で空の状態を作ったのではなかろうか。

 すべて一回チャラにし、新たに作り直そうということである。

 生きている人間がまさか死んで生き返るというわけにはいくまいから、それに近いところというので、せめて身を浄めるくらいのことはした方が良い。


 ところで、まあまあという状態というのがあります。ものごとが、人並みにできるという状態です。

 技術でも芸術でも知識でもそうですが、研究や修行や勉強をすることで8~9割のことが身に付けば達する域であり、通常はそれで十分通用します。

 しかし、他に抜きん出るためには、そこから先の1割が実は大変なことなのです。

 ここに進めるかどうかが名人達人ということであり、その残り1割がこれまでの何倍もの努力研鑽を要することになるのですが、挑戦することができる人は少ない。

 意識を保ち続けることで、偉大な何かからの加護を得られるらしい。

 で、考えておかなければならないことに、似て非なるものというがあるということ。

 亀と鼈(すっぽん)は、それでもまだ似ていると言えなくもないが、頭から較ぶべくもないのが「月と鼈」。

 「月とお盆」なんてのもあるらしいが、丸けりゃいいってもんでもあるまい。

 役目や持ち味が違うのだから、そのように見ればよいのだけれど、どうしても外見でみてしまって、思い込みで判断を狂わせていることというのが自他ともに多い。

 良い悪いということでなく、事実を事実の通りに見極めるというのは、難しい。



37.修羅の巷


 命知らずの無法者なんていう表現を聞くことはなくなりました。

 最近は、六道輪廻なんてことを教える人がいなくなってしまったから、地獄・修羅・餓鬼・畜生道に落ちてるとしか思えない行いを平気でする者が多くなった。

 万物の霊長たる人間らしい精神活動は、霊性の高い一部の人に限られてしまっているが、気づけば誰だって我に返って行いを正すことができる筈。

 あの世だの天国だの地獄だのと言ってみても、見えないものや証明できないものを理解させることは難しい。

 見えないから無いということにして、誰も見ていなければ何をしても勝手ということにしてしまうが、「四知」ということを忘れてはならない。

 天が知る、地が知る、我が知る、お前が知る・・・

 自分だけよければいいじゃんというのは、一見得なようだが、マズイということを誰より自分が知っているから、潜在意識に刻まれていて、自分にとって一番不都合な場面でその代償を払わされることになる。或いは生まれ変わったときに又最初から厳しい修行をさせられるということになる。

 巷で見かける言動が幼い人たちは、皆その類なのだと思われる。


 閻浮提(えんぶだい)=人間界に折角生まれたんだから、爬虫類脳だけでなく、大脳辺縁系をもっと使えるようにしたいものです。



38.重いと思い


 おもい~こんだ~ら試練の庭に・・・

 巨人の星のテーマソングについて「思い込んだら試練の庭に」を、「重いコンダラ試練の庭に」だと思っていた人が意外に多い。

 コンダラってなんのことかって聞くと、グランドローラーのことを重そうに引っ張っているから、それがコンダラだというのである。

 重い思い込みというには軽すぎる。


 「ズル」「ジラ」って一体なんのことでしょう?

 一時期、漢字が読めない○理などと人を莫迦にしていたニイチャンネーチャンオバチャンに結構そう読む人がいるらしい。

 「図る」「自ら」という文字のことです。

 もっとも、この間或る社の社長が「ギバ」っていうから何のことかと思ったら、どうも「議場」のことをそう言っていたらしい。

 「ジョウバ」っていうから乗馬のことかと聞いていたら、「上場」のことだったこともある。まあ、思い違いというのは誰にでもあるけれど・・・



39.旬のものを食す


 口に入るものは、何でも美味しいと思って食べる性質(たち)である。

 一例をあげれば、昔あった米不足の時期、緊急に輸入したタイ米を不味いという人が大半であったが、こんな美味しいものをどうして?と思ったことも、それである。

 皆が美味しいというものであれば、尚のことである。

 春には西国からクギニが、初夏には北国からアスパラガスが、そして今の時季は東国からサクランボ゙が有難くも送られてくる。

 離れていても気にかけてくれ吟味されたものを頂くと、寿命が延びる心地がして、美味しさがいやまします。きっと、死ぬまで長生きすることでしょう。

 なんですと?アンタはそうじゃなくても長生きするよですと?

 どういう意味じゃ?



40.親の顔・子の顔


 じっと手をみる、じゃなくってじっとカオ見るってか?


 ちょっとだけ異見。

 私学(多分高校のことだとおもうけど)で、成績が悪ければ途中でもやめてもらうと書いてありました。だから頑張れということなのか、学校の営業成績をあげるためなのか、文中のみでは判断できませんが、そのどちらであったとしても、さしておかしなこととは思われない。


 学業成績のみでの判断であれば、それは努力や能力が点数で見える世界だけでのこと。

 実社会では、かりにいかに実力があっても評価されない理不尽さは枚挙にいとまがないし、優勝劣敗が世の常といっても、それで人間性全てが否定されて人生終わりというわけでもない。

 そんなことくらい世のおとなは、誰でも乗り越えている。 


 仕切りなおしをしたり、自分が戦える得意なジャンルに移ったりしてもいいし、自己実現の可能性はいくらでもある。

 公平さというのは、なにもかもが皆同じということではない筈。

 そろそろ温室からでる時期というのに、自覚を促さなくていつそれをやるのか。


 わたくしごとになるが、仕事を始めたばかりで努力を惜しまず汗まみれで働いていたころ、小学生を連れた母親が私の方を指差し「一生懸命勉強しないと、あなたもあのオジサンみたいになっちゃうわよ。」と言ったのを思い出す。

 冗談いっちゃあいけません。勉強だけだったらあんたらよりよっぽどできる。価値観の多様性とそれを認める度量を教えず、なんでそんなせまい観点でしかものを見ずに争うような導き方をするのか。

 得てしてそんなのに限って、他人からの受け売りで正義の使者のようなことを声高に叫ぶ。

 まわりのことに文句なんか言わずに、子供を信じ励まして、いかなる結果を得ようとも自分のこととして受け止められる強さを涵養することのみに意を尽くせば、或いは何になってもいいんだと親が覚悟すれば、子はバカじゃない。

 時に、子の顔を見てやりたいと思ってしまう親が増え過ぎた。



41.知っていそうで知らなかったこと


 信州の田舎で高校時代までを過ごしたのだから、知っていても不思議はないのだけれど、アゲハチョウが空中を飛ぶときの速さというのは驚くばかりである。

 ヒラヒラ花の周りを飛ぶのを目にしていたから、これほどのスピードをもって移動することができるとは思ってもいませんでした。

 それこそアッという間に視界を横切り、また彼方から目前に戻ってくるのを観ると、雀やなんかの鳥より速いかも知れない。

 意識を向けないでいることは、気づきの対象とならないということになる。


 庭で蜜柑の葉をモリモリ食べて育っていた幼虫は、もう少しでサナギになる位まで育っていたのだけれど、居なくなってしまいました。

 鳥に食べられてしまったようです。生存競争は厳しい。

 今度飛来してきたアゲハは、山椒の葉っぱに10粒ほどの卵を産みつけていきました。

 無事に育つとよいのだが・・・



42.朝は朝星夜は夜星


 星が出るまで働くというお話しではありません。

 朝は朝星 夜は夜星 昼は梅干いただいて ああスッパイは成功の基という、むかし柳亭痴楽の落語にあったスッパイのお話しです。


 当家では、毎年昔ながらの漬け方による梅干を、かなり沢山つくります。紫蘇の葉を揉むのは、私の役目です。

 今年はお天気も良くて、土用干し?も済み、はや出来上がりとあいなりました。

 かなりスッパイから、そうそう家で食べきれるわけではないのに、在庫とはならないから、サイ(角は普段見えません)に尋ねたところ、特にお世話になった人に「ツルの恩返しと思って贈っているのよ」とのこと。

 ちなみに、当家のサイの名にはツルの字がついている。

 でも、こんなにスッパイんじゃ、ツルの恩返しどころかツルの仕返しにならないか?というんで大笑いになりました。



43.朝顔や


 朝顔や(に) 釣瓶とられて もらひみず(加賀の千代女)


 朝顔の葉が、虫刺されに効くとは知りませんでした。

 ヘビイチゴの実を(今の時季、野山で実を結んでいます)集めて焼酎漬けにしたものが、蚊などに刺されたときの痒み止めに卓効があるというので、それを作って重宝しています。 ドクダミの葉を揉んで(これは大層臭い)貼り付けると、膿などの悪いものを吸い出す。

 同じくユキノシタの葉を火で炙って表面の薄皮を剥いだものを貼り付けるのも、同様の効果があります。

 但し、腹に張っても黒いものは取れないようです。


 起きてみつ 寝てみつ 蚊帳の広さかな・・・なんてのも千代女の句にありましたっけ。

 お千代さん 蚊帳が広けりゃ入ろうか・・・・なんて江戸川柳にあったように記憶します。


 暑くなると、つる草が伸びます。

 当家では朝顔は作っていませんが、昼顔が自生してきて諸方にからまっているのと、プランターに蒔いたレタスの新芽を食べにくるカタツムリいるのも、当方としては同様に迷惑なのですが、駆除しないで自然にまかせています。



44.鳥目というけれど


 鳥目(ちょうもく)と呼ばれた江戸時代の銭貨のことではなく、トリメの方。


 パソコンに向かう時間が多いせいか、夕方になると文字が霞んで見えます。

 トリメというのは、ビタミンAが不足してくるのが原因なのだとか。

 鳥は、「鵜の目鷹の目」の諺にも言われるように、本来は目がいい。トンビなども、高空から地上の獲物を見つけ一気に舞い降ってそれを捉える。

 先般も書いたアゲハチョウの保護色に守られた幼虫だって、どうやって見つけるのか餌食となるのを免れることができない。

 年をとると老眼は進むし霞むしするけれど、目薬でも注して、鳥ほど見えなくても良いから、目を大事にしなくてはなりませぬ。眼鏡は顔の一部ですなんて言っていられません。



45.猫会議


 藁で編んだ蓆(ムシロ)を猫掻きという。

言いえて妙。確かに蓆は猫が爪を研ぐのにいい。

 むかし下北沢に住んでいたときには、何匹かの猫を飼っていたが、爪を研ぐための物を用意してやらないと当たり構わず爪を立てる。ちかごろは、専用グッズもあって便利らしいが・・・

 張り替えたばかりの襖をだいなしにされたときは、捕まえて足の肉球を押して爪を出させ、爪切りで切ってしまったことがある。まあじきに伸びてくるから心配ないのだが、しばらくは歩き方が変なんで家人に気づかれた。

 近頃、住まいのまわりに野良猫が増えて、夜ともなると7~8匹が集まって猫会議をやっている。そんなのはいいんだけど、ベランダに置いてある鉢植えを蹴倒すのがチト困る。

 猫パンチってのは大して威力がないのかと思っていたが、雀を襲う時のキック力はかなりのもんなのです。

 雀だってバカじゃないから、さっと逃げるわな。雀を取り逃がした猫は、バツが悪そうな顔をして、私が食べ残して雀にやった餌の上前をはねて食べ、多少納得して帰って行く。

 結論。私は、猫またぎされないような美味いもんを食ってるということになる。

 なんのはなしだって?


 猫に限らず、動物は火が怖いらしいのだが、自分の子供を助ける為なら、火事になって燃え盛る家の中にでも飛び込んで、自らは大火傷を負いながら銜えだすとも聞きます。

 それに引き比べ、万物の霊長と言われる人間様が、わが子に加えた悲惨なニュースを聞くと、胸がいたみます。



46.熱“さまし”


 あれは、サマシと読むとかなりヤバイことになります。

 サマシ=イカサマシということでございますので、お怒りになるむきも多々あるやに聞きおよびます。触らぬ髪に多々利(祟り)なしということで・・・。


 あれをザマと読むと、もっと剣呑なことになります。仕様(しざま)。正しくは、“しよう”となります。どうしようもない。

 ヨウとよむは品よく、ザマとよむは品あしゅうございます。ざまあみろとか、ざまあないとか。

 今様には、イキザマなどとTVなどでも平気で公言されておりますが、イキヨウ、シニザマが対のものと、中学時代に国語の先生に教わりました。

 国乱無山河。いつごろから、ザマっていうようになったのか知りませんが、多分漫画で描かれたのが最初のような気がします。

「生き様(ざま)を見よ。」といって腹を切った武士が最後に残した言葉が強烈でしたが、その武士は、努力の甲斐がなかったことを無念に思い、“ざま”と言ったのです。

 清く生きねばならぬのです。



47.梅


 子供の頃、生梅を齧っていると、梅雨にあたっていないうちに食べるとお腹を毀すからと、親からよく注意されたのを覚えている。

 生梅を食べ過ぎて、歯が浮いてしまったことも度々のことでした。

 小学校のころに、採れた梅を学校に持ち寄って梅肉エキスというのをつくり、常備薬として小さな壜に詰めて保存したことも、なぜか記憶にある。

 そのころ聞いたことに、その殺菌力は赤痢菌をも滅すということであったが、ほんとなのかしら。たしかに少しくらいの腹痛は、耳かき1杯ほどの量を舐めるだけで治った。

 顔が萎むほどすっぱかったっけ。 (無菓子を居間に茄子葦茂かな)


 梅肉エキスを作ることは流石にないが、梅は毎年都会育ちのカミさんが漬ける。

 これも、市販されているものと違い、スッパイ!



48.普通名詞


 そういう呼び方をしてはならないと言うのが、スチュアデスであったり看護婦であったりする。

 ボケ老人なんてのはまだ許されているんだろうか?

 寝たけど起きてるのはまだいいが、起きてても寝ちまうようになると、こりゃ心配。山芋でもすりおろして食すといいんだそうです。

 朝立ちや 小便までのいのちかな(江戸川柳?)

 えっ!そりゃ違う話だろうって?


 あっそうそう。ついでのはなしに、春を鬻ぐ労働者なんて言い方を変えたところで、中身がかわるわけじゃないのに、小手先でごまかすっていうか目先をそらして論点を変えるかっていうのって結構多いんだよね。(税金なんてとれないにきまっとる。逆に生活保護してたりなんてこたないだろね?)

 それにそんなの呼び方をかえたって、親兄弟や子供に自慢して言えるかってこと。いま呼ばれてる通りの名、淫売って堂々と言えるんじゃなきゃ同じことじゃん。

 えてして正義の代弁者みたいなことをいう人が、名詞をいじっているように思えてならない。

 そこへいくってーと、最近おかまさんは頑張って、人前でも自分で口にするようになってきた。これはこれで潔いやね。あ、これは職業じゃないか。


 昔からついていた物の名前は、簡単には変えないほうが良いと思う。

 言葉の持っている波動は、複雑に影響しあって組みあがっているものなのだから。

 要するに、言葉をどういう使い方をするかということで考えないと、表現が不自由になるだけなのではないのか?



49.無法者


 命知らずの無法者といえば、“ならず者”ということであった。

 しかし、ならず者ではないらしいのだが、携帯電話でメールをしながら自転車で車道を走る人が多い。

 生存本能が欠落しているのか他人の迷惑など意に介さないのか、傍若無人ぶりには何を言ったらよいのか、暗澹たる思いにかられることしばしばである。

 種族保存や生存本能のみといわれる爬虫類脳から、旧哺乳類新哺乳類へと進化が進み、人類は発達した大脳で高度な精神活動までもが可能になっている筈。

 まさか、先祖がえりしたわけでもあるまいに、もっと自らを律することができないと、悲しむ人や迷惑する人が出かねない。

 わが身ひとつの・・・というわけにはいかないと思うのです。



50.きりぎりす


 きりぎりす~は羽で鳴くかよォ せみゃ腹で~鳴く・・・

 昔は、コオロギとキリギリスは今と逆だったんだとか聞きますが・・・


 卵が先かニワトリがさきか?っていうダイ命題は、ニワトリが先ということになっています。

 しか~し、辞書が先か言葉が先かということになれば、そりゃ言葉でしょう。

 どうも言いなれてきた言葉を辞書がこうだからといって急に変えられると、居心地が悪い。

 今朝もTVのレポーターが、オオモンオオモンというから、久しぶりに辞書なるものを引いてみました。そう致しましたら、ダイモンもオオモンも両方出ていました。

 だけど、オオ問題だとかオオ文字焼きとは言うめえ。オオは、どうも口調が悪い。

 大舞台も、最近は何故かオオブタイっていうようになったみたいです。


 このところ暑い日が続くから特に気になるのだけれど、暑い・熱い、と厚いは、イントネーションが違うのに、天下のTVアナウンサーが区別できないでは、具合が悪い。


 おまけ:2~3日前からヒグラシが鳴くようになりました。それも明け方にです。

     ヒグラシは、夕方に鳴くのが普通だと思っていましたが、夕方にソレを聞くことはありません。
















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エッセイ「普通に考えてみると(六)」 @SyakujiiOusin

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