4.13 サシャの父母を知る者

「サカリ? ……サカリっ!」


 街の喧噪の中に響いた、切羽詰まったような声に、思わず耳を欹てる。大丈夫、サシャを呼んでいる声ではない。ほっと息を吐くと、トールは、俯き加減で歩くサシャの、疲れて蒼白い頬を覗き込んだ。


 サシャが、黒竜こくりゅう騎士団から白竜はくりゅう騎士団に移動してからもうそろそろ二月。自由七科の勉強に加え、白竜騎士団で課せられている剣術の訓練に、サシャの身体は相当悲鳴を上げているようだ。もちろん、サシャは、弱音を吐かない。模擬剣を振る力は弱いが、練習試合で攻撃相手が繰り出す切っ先は、よほどの速さが無い限り、サシャは悉く躱すことができている。意外に、身のこなしが軽い。……いや。北都の『星読みほしよみ』の館で暗殺者を見つけた時にサシャが見せた、友人カジミールを庇う動作を思い出し、トールは小さく肩を竦めた。とにかく、サシャは、文武両道を求められている、神帝じんていを守護する白竜騎士団の『守人もりと』候補として、日々、頑張っている。時間は掛かるかもしれないが、サシャはきっと、将来神帝となる北向きたむくの王子リュカを守る任に就くことができるだろう。早めに力を付けることができれば、前の夏至祭げしのまつりの前に無事神帝の地位に就いたヴィリバルトを守るということに、なるのかもしれない。それはそれで厄介なことになる気がする。


 僅かな風に揺れる、黒字に銀糸で狼が刺繍された旗が視界に入ってくる。八都の東に位置する東雲しののめの『国民団』所有の集会所である建物の側を、一人と一冊は、喧噪と歩く人々に注意しながら通り過ぎた。トールの世界とは異なり、サシャが勉学に励むために必要な教師がいる教室は、帝都ていとの東に広がる『大学街』と呼ばれる一角全体に散らばっている。教室移動だけでも、大学街の端から端、トールの世界より長い距離を歩いている。サシャの頬に血の気が無くなるのも、ある意味当然。今日は復習は少しにして早めに寝るよう、サシャに助言しよう。歩き疲れたのか、真昼の街路を歩く人の多さに酔ったのか、道の端で立ち止まり息を吐いたサシャに、トールは小さく頷いた。


「サカリっ!」


 そのサシャの腕が、不意に後ろに引っ張られる。


[うわっ!]


 予告無く揺れた視界に、トールは聞こえない叫び声を上げてしまった。


「サカリだろっ、お前っ!」


「え……」


 いきなり目の前に現れた、赤色の髪に、サシャが言葉を失う。


「僕、は……」


「エリゼの息子、サカリだろ」


「えっ?」


 続いて響いた、赤色の髪の人物の言葉に、トールは愕然としてサシャを見上げた。ここは、帝都。サシャの母エリゼが自由七科を修めた場所。そういう場所だから、サシャの母を知る人物がいるかもしれないという予測は、あらかじめしておくべきだった。いや。目を丸くしたサシャに、首を横に振る。北辺ほくへんで背中を斬られたサシャが眠っている間に起こった事件と、その後でサシャの叔父ユーグが話したサシャの出生にまつわる話をサシャに話すことを、今の今までトールはすっかり忘れていた。


「紅い瞳以外真っ白な奴なんて、八都はちと中探してもエリゼしかいない」


 おそらく、サシャにエリゼを見ているのだろう、赤い髪を揺らす影の、青みの強い瞳が大きく笑う。


「エリゼから、何も聞いていないのか?」


 だが。目を丸くしたままのサシャに首を傾げた赤い髪の人物は、次の質問に頷いたサシャに唇をへの字に曲げた。


「そうか……」


 掴んだままのサシャの腕を離した赤い髪の人物が、サシャの左手を優しく掴む。


「お前の父と母のこと、話してやる」


 半ば強引にサシャの手を引き、細い街路を曲がる赤い髪の人物の、大きくも小さくもない背中に、トールは無意識に首を横に振っていた。

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