2.42 誹謗の果てに③

 クリスと別れ、北都ほくとを出たサシャの足は、しかしすぐに道から外れる。


[サシャ]


 とぼとぼと、湖沿いを歩くサシャに、トールは何度も声を掛けた。


[修道院、戻った方が良い]


 しかしサシャは、トールの言葉に首を横に振る。


 仕方が無い、のかもしれない。とぼとぼと歩くサシャに従って浅瀬の色から深い水の色へと変わる湖面を横目で確かめながら、トールは小さく息を吐いた。今日、北都で聞いた、サシャに対する虚言は、中学生の時にトールが受けた虐めよりも断然、酷い。トールの時は、オンライン上でも匿名で散々酷いことを言われたが、母の教育方針により小学生の頃から大学の公開講座などでネットリテラシーを叩き込まれていたトールは、全てをスルーした。「影で悪口を言う友人は友人ではない」という、父やサッカー&フットサルクラブの監督の言葉も、トールの支えになった。だが、今回の件は。トールの背表紙を断続的に濡らすサシャの涙に、トールは首を横に振った。とにかく、今は、サシャを比較的安全なユーグやアラン師匠の許へ戻すことが、優先事項。


 そこまで考えたトールの視界が、不意に揺らぐ。


 続いて全身を襲った衝撃に、トールは思わず呻いた。


「あ」


 何もない場所で転けたサシャが、久しぶりに驚いた声を出す。


「トール、ごめん」


[俺は、大丈夫]


 サシャは、大丈夫か? 起き上がったサシャの、涙と砂に濡れた頬を見つめる。左側に見える、ぐっと下にある深い色をした湖面は、夕日の色から夜の色へと変わりかけている。早く、戻らないと。サシャの冷たい胸を確かめ、トールは言葉を紡いだ。


[戻ろう。ユーグさん、心配してる]


「うん……」


 トールの言葉に、サシャが小さく頷く。


 躊躇うように修道院の方へと踵を返したサシャにトールが胸を撫で下ろす前に、聞き知った厳しめの声がトールの耳に響いた。


「サシャ」


「ジルド師匠!」


 驚きで飛び上がったサシャの鼓動を、確かめる。


「どうして、こちらに?」


 ジルドを見上げ、そして頬の涙をエプロンの裾で忙しなく拭ったサシャは、しかし普段通りに聞こえる声でジルド師匠に尋ねた。


「都の修道院に、用がありましてね」


 久しぶりに聞くジルド師匠の声は、やはりどこか居丈高に聞こえる。ジルド師匠がサシャにした仕打ちを思い出したトールが身構えるより早く、ジルドはサシャに微笑んだ。


「私が渡した祈祷書は、肌身離さず持っていますか?」


「はい」


「見せてください」


 ジルドの指示通り、サシャはエプロンのポケットからトールを取り出し、ジルドに示す。右手でトールを掴んだジルドは、サシャからトールをひったくるなり空いていた左腕でサシャを湖へと突き飛ばした。


「えっ?」


 戸惑いの声は、トールのものかサシャのものか。


[サシャ!]


 次にトールが声を上げる前に、やけに軽い水音が、トールの耳を強く打った。


[サシャ!]


 身を乗り出しても、深い色の湖面は見えない。耳を澄ましても、サシャが湖面で藻掻く水音は聞こえてこなかった。


[サ、シャ……]


「この祈祷書を持つようになってから、サシャは運が向いてきた」


 真っ白になってしまったトールの頭に、トールを右手から左手に持ち替えたジルドの平静な声が響く。


「ならば私も、この祈祷書を持っていれば……」


 サシャが北都で勉強できるようになったのは、サシャがリュカに対して真摯に対応したから。サシャの努力の賜物であって、トールの力ではない。トールの反論はもちろん、ジルドの耳には届かない。


[サシャ……]


 自分の無力さに、トールは全身を弛緩させた。


 だが。


「……ジ、ルド、師、匠」


 北都の方に足を向け、歩き始めたジルドの背後で、思いがけない声が響く。


「トール、返して、ください」


[サシャ!]


 ジルドが振り向くことでトールにも見えた、全身濡れ鼠のサシャの小さいがはっきりとした影に、トールは歓喜の声を上げた。サシャの背後に、浅瀬が見える。おそらくサシャは、前の夏に習い覚えた水練をそのまま使い、暴れず浅瀬まで浮くことで自分の身を守ったのだろう。


 そして今、サシャはトールの目の前にいる。


「何のことでしょう?」


 平然としたジルドの声が、サシャに背を向ける。


 そのジルドを遮るように、ジルドの前に回って立ち塞がったサシャの小さな身体を、ジルドは平然と無視して歩き始めた。


 俯くサシャの横を、醜悪な笑みを浮かべたジルドがすり抜ける。次の瞬間、トールの視界を覆ったのは、サシャの白い手!


「何をするのです!」


 身体全体を使い、ジルドの左腕ごとトールを抱き締めたサシャに、ジルドが抗議の声を上げる。サシャの腕の温かさにトールがほっとしたのもつかの間、サシャの左頬に走った銀色の光に、トールは言葉を失った。


[サシャ!]


 何とか、それだけを叫ぶ。


 自分には構わず逃げろ。その言葉を、トールは言うことができなかった。


[なっ!]


 次にトールの目を射たのは、サシャの背を狙う、ジルドが持つ短刀の煌めき。サシャの左肩を抉った、その凶刃を、トールは呆然と見つめていた。


「ううっ……」


 痛みに呻くサシャは、それでもトールと、トールを掴んだままのジルドの左腕を離さない。


 ようやく声が出せるようになったトールの視界は、次の瞬間、ぐるりと大きく回った。


[え?]


 暗い湖面が、目の前に迫る。


 次にトールの耳を叩いたのは、サシャとジルド、二人が湖に落ちた水音。


 冷たさが、急速にトールの内部に入り込む。


 力を失わないサシャの腕の中で、トールは意識を失った。

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