2.38 それぞれの、未来への課題

 再び肺炎を起こしかけたサシャが健康を取り戻したのは、春分祭しゅんぶんのまつりが終わった頃。


「この調子じゃ、次の年も、またその次の年も、サシャはここの学校に通うことになるな」


 サシャが療養を続けている『星読ほしよみ』達の館に「見舞い」と称して現れた助手エルネストの皮肉を、トールは心の痛みと共に聞いていた。これでは、サシャの目標である『母上と同じように帝華ていかの学校に進む』が果たせない。


「詩作、進んでないし」


 だが。次に響いた、エルネストの言葉に、にやりと笑う。サシャが休んでいるベッドの横にある腰棚の上、トールの隣に置かれている蝋板に、湖を題材にした詩が刻まれていることを、トールは知っている。北都ほくとの学校の事務長ヘラルドから羊皮紙を受け取ることができれば、清書して提出することができる。これで、一年以上悩んでいた課題は解決。次に進むことができる。大丈夫。少しずつだが、サシャは目標に向かって進んでいる。疲れが見えるサシャの青白いままの頬に、トールは大きく笑って見せた。


「カジミールは、受かりそうか?」


 丁度、サシャの部屋に薬湯と共に入ってきた、北辺ほくへんから一時的に戻ってきている『星読み』博士ヒルベルトにも、エルネストは軽い調子で尋ねる。


「受かると良いのですが」


 自分の方が年上にも拘わらず、ヒルベルトはエルネストに敬語を使った。


 カジミールは、今夏、帝華の大学を受験する。サシャとトールがそのことをカジミールの口から直接聞いたのは、春分祭の頃。


「自由七科、まだ音楽と天文が取れてないんだけど、外へ出てみたくなって」


 大学で法律を学びながらでも、自由七科の卒業資格を取ることは可能。この世界の教育制度の曖昧さにトールが唸る前に、カジミールが照れたようにサシャに向かって微笑む。


「もっと広い世界を見てみたい。……サシャも、そう思うだろ?」


「うん」


 北都にも、法律を学ぶことができる大学はある。だが、それでも、外の大学へ行きたい。トールには無かった憧れを話すカジミールと、そのカジミールに頷くサシャが、トールには眩しく映る。いや、トールにも、数学を専門的に学ぶことができる、母方祖父母の家から山一つだけ超えたところにある父と母の母校に通うという選択も、確かにあった。その選択をせず、地元の大学に進んだのは、……小野寺おのでら伊藤いとうと、一緒にいたかったから。


「カジミールが出て行くとなると」


 エルネストの軽い言葉が、トールを現実へと戻す。


「当分の間は、サシャは北都に残った方が『星読み』のため、だな」


「そうかもしれませんね」


 確かに。エルネストとヒルベルト、二人の言葉に頷く。


 そして。


「夏には、リュカを北都に戻すと、セレスタンは言っていますし」


 次のヒルベルトの言葉に、サシャの頬に赤みが差したのを、トールは見逃さなかった。


「リュカ、北都に来るのですか?」


「予定では」


 息急いたサシャの言葉に、ヒルベルトが大きく頷く。


 夏には、リュカに弟ができる。北辺を守るセレスタンはその子供の世話で手一杯になるから、リュカは北都の王宮に戻した方が良いだろう。それが、ヒルベルトと、ヒルベルトの配偶者であるセレスタンの考え。もちろん、前の秋にサシャに怪我をさせた暗殺者と、その背後にいる狂信者達に対する懸念はある。だが、神帝じんてい候補であるリュカには、北辺では得られない学習が必要。


「ならば尚更、サシャは当分北都に居た方が良いな」


 ヒルベルトの言葉を聞いたエルネストが、薬湯を飲んだサシャの髪を撫でる。


「リュカの子守をしないと」


「北辺でも、サシャはリュカの学習を手伝ってくれたと、セレスタンは感謝していましたよ」


 エルネストに続くヒルベルトの言葉に、サシャの頬はますます赤みを帯びた。


 サシャは、どうするのが一番良いのだろうか? まだ身体が本調子ではないのだろう、エルネストとヒルベルトが去った後、ベッドに身を伏せたサシャの青白く変わった頬に、息を吐く。サシャが「母と同じ道を行きたい」と願っていることは、理解している。だが、今の身体の調子では、無理だろう。サシャが作ろうとしている『紙』もまだ、何とか形はできたがその上に文字を書くとインクが滲んでしまうという問題を抱えている。「先立つもの」のこともある。エルネストの言う通り、当面の間は「北都で頑張る」のがベストなのでは。眠りに落ちたサシャの、薄れかけた目の下の隈に、トールは納得するために頷いた。

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