1.26 新たな友人①

 久しぶりの修道院図書室には、新顔がいた。


「リュカ殿です、サシャ」


 笑わない口元でサシャを見下ろすジルドの細身の影の横で、閲覧用の机から顔を上げた小さな影が、サシャに向かって小さく微笑む。


「この間砦にいらっしゃった新しい隊長、セレスタン様の息子になります」


 この小さいのが、サシャの見舞いに来た修練士グイドが言っていた「『神帝じんてい候補』になった、砦の隊長の息子さん」か。まだ小学校に上がる前くらいの年齢に見えるが、大人しくて賢そうな感じがする。サシャよりも少しだけふっくらとしているその影に、いつものようにサシャのエプロンの胸ポケットに収まっているトールも思わず笑みを返した。


 ジルドが言うには、砦が落ち着くまで、リュカはこの修道院図書館で勉学に励むよう言われているらしい。粗相の無いように。その言葉だけを残して去って行くジルドの、急いている気配があるようでなさそうな背を、トールは肩を竦めて見送った。


「掃除をしますから、少しうるさくなりますが、宜しいですか、リュカ殿?」


 そのトールの上で、サシャの、まだ少し枯れている声が響く。


「リュカで良いよ」


 深く頭を下げたサシャに、リュカの、子供らしい笑い声が降ってきた。


「サシャって呼んで良い?」


「あ、はい」


 サシャが頭を上げたので、サシャの胸ポケットの中にいるトールにも、リュカの、屈託なく笑う金色の髪が見える。


「ぼく、勉強してるけど、掃除の邪魔にならない?」


「あ、はい。あ、えと、……いいえ」


 あくまで無邪気なリュカの言葉で返答が乱れるサシャに、トールはサシャに聞こえない小ささで笑い声を出した。


「じゃ、ぼくは勉強するね」


 あとでサシャのこと、聞かせて。その言葉と共に、リュカは真面目に、机の上にあった本を開く。やっぱり、大人しい子供だ。エプロンからトールを取り出し、閲覧用の机の、リュカから十分離れた場所に置くサシャの荒れた皮膚を感じながら、トールは少しだけ首を傾げた。やっぱり『王族』で『神帝候補』だから、人前では大人しくするよう、身内から躾として言われているのだろうか? 何となく可哀想な気もする。


「新しい地理の本、持ってくるね」


 そんなことを考えていたトールの耳に、サシャの囁き声が響く。図書室を出て行ったジルドの様子から察するに、少なくとも昼食時まではジルドは図書室には戻ってはこない。サシャがトールを、『祈祷書』を身に着けていないということでジルドに怒られる可能性は低い。脳内の推測が終わると同時に、トールはサシャに頷いた。


 少しのタイムラグの後、トールに重い圧が掛かる。


南苑なんえんには、「古代の民」が残した遺跡が数多く残っている』


 脳内に響く聞き覚えのない固有名詞を、これまでの知識に繋ぎ合わせる。サシャが風邪を引く前にトールが読んでいた地理の本は、どちらかと言えば紀行文のような本だった。だが、今日サシャが、盗難防止用であるらしい鎖を外して持ってきてくれた本の文章は、どこか固い感じがする。サシャを支え守るためには、この世界に関する知識が、どうしても必要。脳裏に刻み込むように、トールは、本から湧き出る言葉に耳を傾けた。


『「古代の民」は翼を持つ顔の無い神や獣面人身の神を信仰し、快楽を重視して数多くの施設を作成した。南苑には、彼らが建設した神殿が、ほぼそのままの形で残っている』


 ふと、机の向こうを見やる。


 小さい子には少し高い椅子に座るリュカが、足をぶらぶらさせながら目を通しているのは、上1/3が多色刷りの絵になっている本。子供用の本だろう。トールはそう、見当を付けた。しかしトールの位置から見ても、文字が小さすぎる気がする。絵本とか、小野寺おのでらが授業研究用に持ち歩いていた小学校低学年用の国語の本の方が、子供が楽しく読むには良いのだろうが、この図書館には、大人が読む本しかない、はず。可哀想だな。そんなことを思っていたトールは、不意に現れた大きな瞳に、飛び上がるほど驚いた。


「これ、サシャの『祈祷書』だよね」


 知らないうちにトールの側に立っていたリュカが、伸ばした小さい腕でトールの上に乗っていた地理の本をトールの横に落とす。


「名前、書いてないけど」


 やっぱり子供は飽きやすい。トールを掴んで引き寄せ、その柔らかい指でトールを半ば乱暴にめくり始めたリュカに、トールは諦めの息を吐いた。この世界の子供も、小野寺が大学の授業の一環として通っていた小学校の子供達と変わらない。小野寺に頼まれて本の読み聞かせに赴いた時の、どこか退屈そうに見えた子供達のことを思い出し、トールは無意識に首を横に振った。トール自身は全然楽しめなかったが、小野寺は、子供達と居て楽しそうだった。数学について学びたいが母と四六時中顔を合わせるのもどうかと思い、母が所属している教育学部の数学コースではなく、数学も学ぶことができる工学部物理学科を受験したのだが、その選択は、……おそらく間違ってはいなかったのだろう。

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