第55話 リリー(1)
「当日で申し訳ありませんが、今日って空き、あります?」
電話で繋がったホテルの係員に訪ねた。
「今お調べしますので少々お待ちください」
係員は明るいトーンで応えた。電話口の向こうでキーボードを叩く音が聞こえる。
「何名様ですか?」
「大人1人と、小学生が1人です」
かしこまりました、とまたカタカタとキーボードの音。
「そうですね。本日キャンセルが出ておりますので、お部屋はご用意できますよ。但し、空いているお部屋がレジデンスデラックスルームだけとなっております。こちらは4名様以上のお部屋となっておりますので、料金がお2人でも4名様のお値段になってしまいますが、よろしいですか?」
この横文字のネーミングで、いったいそれがどういう意味かわからないが、2人では広いことと値段が高いということだけは伝わった。
「構いません。それで、できれば連泊したいのですが、明日以降も空いてますか?」
料金も聞かずに構わないと答えてしまった。銀行には別れた女房に受け取ってもらえない養育費があるし、どうせ支払いはカードだ。
「そうですね。キャンセルのご予約は2泊でしたので、2泊お取りできます。それ以降のご予約ですと、お部屋を替えていただければもう1泊ご用意できますが」
係員は「そうですね」が口癖らしい。俺は部屋が替わることを承諾して、3泊の予約を入れた。係員は予約内容を復唱して、料金を言った。思ったより高額だったが、それで承諾した。今から他の宿泊先を探すのも
電話を切ってスマホを見ると、着信の表示が出ていた。井口からだけではなく、会社から、同僚からの着信が沢山あった。会社のグループLINEも沢山来ている。LINEはブロックし、読まずに消した。
せっかくリゾートに来ているのだ。日頃、色んなことに縛られ、どうでもいいことで頭を下げ、世の中のなんにも役に立たないことに精神と体力を削られてきた。そんな現実を切り離して、金を出す分充実したっていいじゃないか。携帯が普及して面倒な世の中になった。どこにいても繋がってしまう。そんな世の中と自分を切り離したくて、誘拐じみた馬鹿なことをしでかしたというと、言い訳になってしまうだろうか。
みずきはストロベリーバニラミックスのソフトクリームとアイスコーヒーを両手に持ち、転ばないように慎重に歩いて近づいてきていた。外気温が高いので、既にソフトクリームは溶けて、ソフトクリームを持つ手の甲に垂れていた。溶ける前に食べてしまえばよかったのに、多分俺にアイスコーヒーを渡すまで口をつけないようにしていたのだろう。その健気さが、不憫に思えてしまった。
俺は立ち上がり、アイスコーヒーを受け取った。みずきは溶けて流れている部分を舐めて、持っている手を持ち替えて、汚れた手の甲も舐めた。
「ベタベタしてる」
「ごめんごめん。あとで手を洗いに行こう」
みずきは手を振るって苦笑いをしていた。
はっはっはー、と大きい笑い声が聞こえた。みずきは驚いて、その声の方を向くと、その声の主は1つ間を開けた隣のベンチの老人だった。老人という生き物は、家族や他人の垣根なく割り込んでくるから困る。
「今日は
知らない老人から声をかけられて、困惑気味のみずき。話しかけられたのが自分とわかっていても、それに反応して良いのか、戸惑ってしまうのは仕方がない。話しかけるにしても多少遠慮してくれるのが常識というものだが、こういう老人には世間の常識なんてものは通じない。
「父ちゃんはアイスコーヒーかね。コーヒーは飲み過ぎると血管が細くなるから気をつけた方がいいぞ」
余計なお世話だ。長く生きているだけで自分が何でも知っていると信じ込んでいる。どうせテレビの健康番組かなんかで見た偏った情報だろう。こういう老人は、自分が見たもの聞いたものが全てだ。反論すると面倒なのは目に見えている。
老人はこの暑さの中、ベージュの麻のジャケットを羽織っていた。自分で暑いと言いながら長袖を着ているのは矛盾してないか、と思ったが、多分歳を取ると肌が弱くなり直射日光が辛いのだろうと勝手に納得した。
愛想笑いで誤魔化そうとするが、顔が引き攣ってしまう。逆に鬱陶しいと思っているのは事実なのだから、伝わってしまって離れていってほしい。
たが、鈍感なのか図々しいのか、離れていく様子はない。相手の都合などを考える回路がない。老人のメンタルというものは
俺はスマホで泊まるリゾート施設のホームページを開いた。レジデンスデラックスというのがどういう部屋なのか想像がつかなかったので、ゲストルームの種類を調べてみると、かなりデカい部屋だった。寝室とリビングともう1つ部屋があり、テラスまで付いている。リビングテーブルには4つの椅子があり、テレビの前にはソファが3つ並んでいて、テラスにもリクライニング付きの椅子が4脚。子供と2人では、こんなにたくさんいらないよ、というほど椅子があり、そんなたくさんの椅子があっても悠々とスペースがあるほど広い。俺が住んでる部屋より広い。
その写真をみずきに見せると、目を輝かせて喜んだが、視線を俺に向けると心配そうな表情に変わった。
「チャミュエル、お金、大丈夫?」
またその渾名か。その訳の分からない呼び方に慣れない。かと言って、その呼び名を否定すると、みずきが楽しそうにしている気持ちに水を差すことになりそうで、その居心地の悪い渾名で呼ばれることに甘んじた。「オジサン」と呼ぶのも周りの目があるし、「お父さん」と呼ぶのにも抵抗があるのだろう。かと言って「ゆうじ」とか「ゆうちゃん」と呼ばせるのも面倒だし、親子ほど離れているので、おかしい。結局なんの脈略もない渾名を付けてくれたんだと思う。大人なんかよりもずっと、子供は周りに気を遣えるのだ。
「なんだね。あんた、ガイジンかね」
周りに気を遣えない代表の老人が、普通に声をかけてきた。
「どこの国だね。俺にゃあ普通に日本人に見えるがね」
からかっているのか、本気で訊いているのか、わからないトーンだった。耳が遠いのか、声が大きいので、説教されている気分になる。
老人の着ている服は、どれも高級品のようだ。シワだらけの顔のくせに、悲壮感がない。偉そうな物言いからして、年齢的にはもう引退しているだろうが、どこかの会社の偉い人だったのだろう。大股開いてベンチに座る姿は、もう何十年も他人に頭を下げたことはない、というような堂々とした態度だ。
「まあ、ええわ。お嬢ちゃんは
俺が返答に困っていると、さほど興味がなかったようで、今度はみずきに声をかけていた。
「10歳」
戸惑った表情で答えた。隣に座った腰を上げ、俺に寄り添い、俺の後ろに隠れた。
「はあー、小学4年生かね。ウチの孫と一緒だな」
そんなの知らねえよ、とも言えず愛想笑いをしていると、老人は足元でチョロチョロと動き回る小型犬に、リリー、リリー、と言って撫でていた。リリーと呼ばれた小型犬は、キャンキャンと可愛い声を上げる。
みずきは俺の後ろから顔を出し、小型犬に興味を示していた。
「ウチのリリーちゃん、可愛いだろー」
みずきは俺の後ろに隠れてはいたが、覗き込んだ目は目を輝いていた。
「ほれ、イイコイイコしてやってくれ」
そう言って老人がリードを緩めると、小型犬はキャンキャン吠えながら、みずきの元まで駆け寄ってきた。みずきがベンチから腰を下ろし、しゃがんで頭を撫でてやると、リリーはみずきの膝の上に飛び乗ってきた。可愛い、みずきは思わず口から溢していた。
「うちのリリーは、べっぴんさんだろ」
みずきを見ると、ソフトクリームを食べ終えていた。リリーに
「ウチはなぁ、子供が2人いるんだけど、これがまあ、どうしようもねえんだ。ウチは上が女で、下が男だったから、息子の方に会社は継がせたんだが、まあ仕事ができねえし、他人の顔ばっか伺ってやがるから、周りから慕われてねえんだ。重役の奴らは、会長、会長ってすぐ俺んとこに来る。アイツは思い切りが足りねえんだな。会社のトップたる者は、ウジウジ考えてねえで、バンっと決めて堂々と構えてりゃあいいんだ」
出た。訊いてないのに自分の身の上話を勝手にする老人。この手の話は、こっちも知ってる
「決断力だな、男は決断力がなけりゃあいけねえ。社長のくせに重役なんかに気を遣うからナメられんだ。あれがいいですかねぇ、これがいいですかねぇ、なんて一々俺に聞かなくても、自分の会社なんだから大きくするのもダメんなるのも自分の責任だろ。アイツはその責任を取りたくねえんだ。気が小せえ。俺なんかなあ、迷ったときにゃあ、勘で決めてたぞ。それを何やらデータ、データって数字ばっかり見やがって。仕事ってのはな、数字じゃなくて、人の顔を見てするもんだよ。なあ、アンタもそう思うだろ」
そんなこと言われても知らない。聞いていると、今の時代はデータ分析するだろうし、パワハラなんかも気にしているだろうし、息子さんがそうなっても仕方ないことだと思うが、こういう時は反論しない方がいい。
リリーはみずきの口の周りや手の甲を、小さくて薄い舌でペロペロ舐めている。ソフトクリームが付いていて甘いのだろう。みずきがくすぐったがって避けているのに、リリーは絡みつくように戯れていた。みずきもリリーも嬉しそうだった。
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