第48話 『食事処 取調室』

 目の前に鰻からは湯気が立ち上がり、タレの甘い香りが食欲をそそる。割り箸で端の焦げ目を突くと、フワッとした感触が足しに伝わり、鰻がほろっと崩れた。下に敷かれたご飯の層にもタレがしっかりと染み込み、まだ一口も口に入れていないのに唾液が溢れる。

 箸で一口分を持ち上げ、口に運んだ。タレの甘みと端の焦げ目の苦さが相まって、安心できる味を堪能した。それを篠山さんは静かに見守っている。


 お盆を持った割烹着をきた年配の女性がテーブルの横を通ると篠山さんは、おかあちゃん、と呼び止めた。


「お母ちゃん、今日の鰻、端っこが焦げてるぜ」


 お母ちゃんと呼ばれた女性は、お盆から肝吸いのお椀を2つ乱暴にテーブルに置いた。


「はい、肝吸いサービス。ったく、シノさんは細かいこと煩いねえ。だから出世しないんだよ。それにアタシは、アンタのお母さんじゃないんだからね」


 割烹着を着ている年配の女性に、金を払ってるのはこっちだぞ、と篠山さんが軽口を叩くと、こっちは採算度外視してやってるから文句を垂れるな、と女性は辛口で返す。この年配の女性は『食事処かわせ』の女将おかみさんだ。

 僕たちは結局、安さ、早さ、旨さでお馴染みの『食事処かわせ』で鰻を食べている。最初は老舗の高い鰻屋に行ったのだが、表の値段を見ると一人前4.600円。篠山さんは慌てて財布の中身を確認したので遠慮すると、恥をかかせるな、と言い、高級鰻料理屋の暖簾を潜ったが、従業員に今は満席で個室なら空いているという返事が返ってきた。

「個室なら静かでゆっくり話せるな」と引き攣った笑顔を見せたが従業員から、個室は食事代とは別に個室料がかかりますが、と言われ、また財布を確認し、カード使えますか?と言うので、僕は篠山さんの袖を引っ張り、『かわせ』にしましょう、と言って今に至る。

 僕が給料日前で金欠なのは、篠山さんはだって同じだ。それに『かわせ』くらいの金額なら自分で出せるからと遠慮したが、大人に恥をかかせるな、と怒られてしまった。僕は素直に従った。『かわせ』で食べるなら鰻ではなくもっと安い物でも良かったのだが、既に鰻モードになっているのか、『かわせ』では1番単価の高い600円の鰻丼を2つ、先に着く前に注文していた。


『食事処かわせ』の女将さんとは、篠山さんが中央署時代からの旧知の仲だった。女将さんは、まだ30歳くらいで刑事課第1班で現役バリバリだった頃から篠山さんを知っている。歳は篠山さんより少し上だそうだ。


 おかわりー、という注文の声やら、おじさんサラリーマンの下品な笑い声やら、お昼の時間を過ぎているというのに賑やかを通り越して煩い。厨房の方から皿が割れる音がした。主に料理を作っているのは厨房にいる旦那さんだ。多分、皿洗いのバイトが洗い物をひっくり返してしまったのだろう。旦那さんの怒鳴り声が聞こえた。

 女将さんは厨房に向かって大声を出した。


「あんたー!こっちにゃ、お客さんいるんだから大きい声出すんじゃないよ!」


 女将さんの声が1番でかい。他の常連客が、女将さんが1番煩いよ、と軽口を叩く。常連客たちが笑うと、女将さんも笑う。女将さんと目が合う。


「一緒の若い人、前にも来たことあるねえ。本当、ごめんなさいね、煩くて」


「ええ、何度か連れてきてもらってます」


「こんなシケた店の安いご飯食べさせてもらったくらいで、いい顔させるんじゃないよ。もっと高いご飯食べさせてもらいなさい」


 女将さんは学校の先生のお説教みたいな口調で言うので、僕も笑ってしまう。自分で言ったらぁ、と篠山さんが言うと、うちの父さんが作るご飯が1番美味いよ、篠山さんの背中をバシッと叩いて、篠山さんは噎せた。それを見て常連客たちがまたも笑い出す。篠山さんにこんなことができるのは、ここの女将さんしかいない。

 そんな活気あふれる店には忙しなく次の客が入店し、女将さんはそちらの対応に急ぐ。


「すまんな、こんな騒がしいところで」


 女将さんが離れていったのに、篠山さんは体を屈めてこちらに顔を突き出し、小声で言った。

 女将さんは新規のお客さんに注文を聞きながら、こちらに向かって、なんか言ったかい、と言うので、篠山さんは、地獄耳だなあのババア、と更に小さな声で言ったのに、あんまり歳は変わんないよジジイ、と言い返され、またも店内は笑いに満ちた。



「いや、『かわせ』だったら何食べても美味いですし、むしろこっちの方が落ち着きます」


 かしこまった高級店ではかえって落ち着かない。高級素材の料理なんか食べても、それがわかるほど舌が肥えてるわけではないし、しんと静まり返った個室なんかで篠山さんと2人きりになってしまったら、話したいことも話せない。篠山さんに連れ立って中央署を出た時は、まだ話そうか迷っていた。


「あの、さっきの話なんですが」


「さっきの?なんだっけ?」


 本当はわかっているのだろうが、篠山さんはとぼける。


「なんで、僕が幼女誘拐にこだわっている、というか、気にしているかということなんですが」


「お、おうおう、その話か」


 篠山さんはポケットからタバコとライターを出し、おーい灰皿、と女将さんを呼ぶと、女将さんはタバコを取り上げて、うちは先月から店内禁煙だよ、と壁の張り紙を指差す。

 いつも怒ったり叩いたりしてくる篠山さんが押されているのは、相手が女将さんだからだ。こんなコントみたいな場面は他では見れない。なんだか緊張感が薄れてしまう。

 ただ僕の話をするのには丁度いい場所だ。重い話を重く受け止めますよみたいな神妙な顔を突きつけられたら、僕の方も話しにくい。元から辿れば、高級鰻屋で金が足りない時点でコントだ。そこへ来て、この女将さんとの小競り合いを見せられて、緊張がほぐれ、話してもいいかなという気分になった。これも篠山さんが意図的にしていることなのかもしれない。そう言えば、篠山さんが現役時代、取調室で落とさない人はいないと言われるほど自供率が高かったと聞いている。取調室の容疑者の気持ちが少しだけわかった。篠山さんは、この人なら話してもいいかなという気分にさせるのだ。


「子供の頃、近所の子が殺されたんです」


 僕は椎名恵の話を始めた。




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