第26話 抜け駆け
昨夜は眠れなかった。
篠山さんが帰った後、今更誰も待っていない一人暮らしのアパートに帰ったところで寝るだけなので、帰るのが面倒になった。柔道場には田所たちがいるし、仮眠室を使うのにも、柔道場が宿泊所になっている場合、仮眠室は女性専用になってしまう。僕は自分のロッカーから簡易的な寝袋を持ってきて、刑事課の床に横になった。眠れなかった原因は、床が硬かったせいと、大島さんの鼾がうるさかったのもあるが、目を瞑るとあのニオイが蘇ってしまうからの方が大きい。
やっぱり篠山さんの言う事を無視して、あのゴミ屋敷に乗り込んだ方が良かったのか。でも大島さんに言われた、あまりシノさんに心配かけんなよ、と。あれは篠山さんが僕を心配してくれるのを言っているんじゃなく、静かに定年を迎えさせてやってくれ、と言いたいのだろう。もし、井口の家に奥さんの死体がなければ、不当な捜査だことの名誉毀損だことの訴えられてしまう。金に卑しそうな顔をした男だった。
もし井口の家に乗り込んでいったら、きっと死体はないのだろう。だけど、僕がこのまま行かないことで、やっぱり井口の家には奥さんの死体があって、決して僕の行動で死体の有無が変わるわけではないのに、考えが非現実的な方向へ進んでしまう。
それにもしも、だ。もしも、奥さんは死んでいなくて、瀕死の状態で3日間放って置かれてるのかもしれない。もし今行ったら助かる命も、明日になったら間に合わないのかもしれない。
あれは血のニオイだった。他には考えられない。あの男からはゴミの悪臭と共に、少し弱いスパイスのニオイがした。自分との関係がない人間は、基本無臭なのだが、こちらがなんとも思っていなくても、相手が自分に対して敵対心を持っている場合、ほんのりスパイス系のニオイを発することがある。職務質問をかければ、誰だって警戒心を抱くこともあり、その警戒心が敵対する気持ちと似ていて、弱くスパイスのニオイが現れると解釈している。だからあの男はただ警戒心を抱いただけで、なにも隠し事ちしているのではないかもしれない。
現実、僕はそんなニオイを嗅いで、相手が犯罪者だった試しはない。僕はまだ犯罪者を検挙したことがないからだ。
今、手塚百合子は何を考えているのだろう。娘が心配で夜も眠れないのではないか。残された娘はどうなのだろう。祖母の家で帰らない母親を待っている気持ちとはどんなものか。娘は何歳なのだろう。手塚百合子は多分婿の井口を疑っている、もしかしたら娘はどうにかされてるのではないか、と勘繰っているはずだ。自分の祖母が自分の父親のことを疑っているという状況に気付いてしまう年齢だろうか。やっぱり僕は井口の家に乗り込んだ方が良かったのか。話が堂々巡りになってしまう。
その堂々巡りを何ターンかしていると、外が薄く明るくなってきて、少しでも寝なければと硬く目を瞑るが焦って寝れない。そして一睡もしないまま、朝を迎えた。
出勤してきた篠山さんに、ひでえ顔だな、と言われた。自分の頬を強く叩き、目を覚ました。黒いバインダーを出し、昨日のページを開いた。篠山さんが頷く。僕はスマホを取り出して、手塚百合子の家に電話をかけた。
「朝早くにすみません。南警察署の新井と申します。百合子さんでしょうか?」
『娘は見つかったんでしょうか!』
電話口から、こちらの言葉に被り気味に叫んだ。
「すみません。まだ捜査中です。このことで確認したいことがありまして。今、お時間よろしいですか?」
『お願いします!早く娘を見つけてください。お願いします!』
「奥さん、落ち着いてください。被害届に出ている娘さんの携帯にも連絡しましたが、今のところ繋がっておりません。井口さんの家も訪問しましたが、娘さんがいらっしゃる様子もありませんでした」
少し事実と違うことで、辻褄を合わせた。井口もあの後連絡がつかないことを伝えてしまうと、手塚百合子が変な行動を起こしかねない。井口が電話に出ないことで、かなりクロに近いと思われるが、とにかく手塚百合子を落ち着かせることが先決だ。
「事実確認をするため、近隣にも目撃情報の調査をしたいので、娘さんの写真をお借りしたいのですが」
『携帯の写真じゃダメだったんですか?』
慌てて被害届に目を通す。娘の写真を借りたとは記載されていない。被害届を書いた署員の提出漏れか。写真などは個人情報になるため、また別の書類の記載が必要になる。既に写真を借りている場合、安易にもう1枚貸してくれ、とは言えない。
「大変申し訳ございません。こちらの引き継ぎミスです。確認しますので」
途中まで喋っていると、目の前に1枚の写真が置かれた。30代半ばと思われる女性の写真。顔を上げると田所が立っていた。
『昨夜の刑事さんが、プリントアウトできるから携帯の写真でいいと言ってたので刑事さんの携帯に送りましたけど。あの写真じゃダメなら、何枚でも送るから、早く娘を見つけてください』
「あ、すみません。今、本人来たので確認してみます。それでは失礼します」
慌てて電話を切り、僕は田所を睨んだ。
「お前、どういうつもりだ」
「昨日、そっちの方に用事があったんで、
「勝手なこと、するなよ」
「それと、ついでに井口のところにも聞いてきましたよ。奥さんとは出てったっきり会ってないそうです。ちなみに近隣もその写真の人見たかって聞いて回りましたけど、目撃情報はありませんでした」
「この件は、お前に関係ないだろ」
「同じ刑事なんだから、関係ないは、ないでしょ。あれ?パイセン、怒ってます?」
頭に血が昇り、無意識のうちに田所の胸倉を掴んでいた。刑事課の中がざわつき始めた。どうしたどうした、もっとやれ!いい加減にしろ!皆んな僕たちを見て、好き放題野次を入れていた。刑事課の中が、僕の嫌いなスパイス系のニオイで充満していた。
「なんすか?だって、もし殺人だったら、パイセンの手に余るでしょ」
殴ろうと手を上げ、拳を握ると、篠山さんと大島さんに止められた。
「何やってんだ!お前ら!」
田所はシャツの襟を直しながら、こちらをヘラヘラとした顔で眺めている。
「殺人だったら、俺の手柄かなぁって思ったんですけどね。なんにも無さそうでしたよ」
落ち着け!篠山さんに怒鳴られた。
「静かにしろ!」
もう1人怒鳴りながら刑事課に入ってくる人間がいた。馬場課長だ。
「捜査会議始める!」
刑事課の全員が、ゾロゾロと会議室に移動した。僕と篠山さんも、名目上は連続幼女誘拐殺人事件の応援で徴収されているので、会議には参加しなければならない。
馬場課長は刑事課の出入口で仁王立ちし、刑事課の皆んなが移動するのを、急げ!などと罵倒している。僕が出入口を通過する時、馬場課長は丸めて持っていた週刊誌で、朝からバカモンが!と頭を叩かれた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます