新井 規之

第22話 鼻

 僕は、巡査部長の篠山さんと井口雅紀の部屋を後にした。篠山さんはまだ2年足らずの僕の教育係といったところだ。篠山さんは2お前はトロい、とすぐ叩いてくる。また怒られると嫌なので、言われる前に先のことをしなければならない。外の階段を降りながら、内ポケットから縦に4つに折ったA4サイズの資料を広げた。


「あと、こ、このマンションで訪問できてないのは、406の佐伯さんと、202の野島さんですね。ここ、5階なので、先に佐伯さんのところ回りましょうか」


 完璧だ。篠山さんが言うことを先回りし、どうすべきか提案もした。わかってるじゃないか、お前もやっと成長したな、と褒められるだろう。

 ところが篠山さんは眉間に皺を寄せ、ムッとした顔をしている。いいや、篠山さんは元々そういう顔だ。おっと、手を上に上げたぞ、ハイタッチか?顔に似合わずアメリカンな褒め方だな、いいや、そんなキャラじゃない。


 バチン。やっぱり頭を叩かれた。でも、なぜ。


「なんだ、さっきのあの態度は!」


「え?」


「え?じゃねえよ!他人の家で鼻クンクンして臭そうな顔しやがって。あんなの失礼だぞ」


「篠山さん、臭わなかったです?」


「臭わねえよ!俺は元々鼻が悪いからな。そういう問題じゃねえんだ。あれだけゴミがありゃ、そりゃあ臭えかもしんねーけど、我慢すんだよ。あんな態とらしいことしやがって」


 階段の踊り場は声が響くので、途中で小さい声になり、階段を駆け下り、上の様子を見ながら、僕の袖を引っ張った。僕の体を引き寄せ、耳元で小さな声で怒鳴る。


「民間人には優しく真摯に接するんだよ。じゃなきゃ、情報協力なんてしてもらえねえぞ。覚えておけ!」


「違いますよ。ゴミの臭いじゃないです。なんか、こう、焦げたみたいな、生臭いというか、獣臭というか」


「何言ってんだ。生ゴミの臭いじゃねえのか」


「違います。さびみたいな、鉄みたいな、あれ、血の臭いですね」


「バカか!どうせ、刺身かなんか残したゴミがあるんだろうよ。なんなんだよ、そのお前の鼻がいのは。面倒くせえんだよ」


 もう1度頭を叩かれた。パワハラです、と訴える奴は警察にいない。これは教育、ゴリゴリの体育会系社会。


「女の人って、妊娠すると体質が変わるそうです。お腹の子供を外敵から守る反応が働いて、人によっては視力が良くなったり、聴力が上がったり。うちの母親は嗅覚が上がって、鼻が良くなったらしいんです。そして、僕がその遺伝で鼻が良いのを受け継いだようです」


 406号室まで歩きながら説明すると、佐伯の家の前で止まり、篠山さんがこちらに、うんざりした顔で振り向いた。


「あのなあ、そんな要らねえ能力、面倒くせえんだよ。本当の鼻じゃなくて、を効かせてくれ」


 さっきみたいな態度はするなよ、と篠山さんは406のインターフォンを押した。僕は深呼吸し、息を止めた。


 ニオイには色んな種類がある。他人の家の臭いなど、そいつの家の洗濯洗剤の臭いから食べ物の臭いとそいつの体臭で、色んな臭いの混ざった奴が近くにいると、臭いで酔って調子が悪くなることもある。

 臭いか、臭くないかは個人差がある。苦い臭いの加齢臭を放っていても、親しい人間なら嫌ではない。逆に、爽やかなフレグランスの香りでも、嫌いな奴の臭いなら嫌いな臭いに変わってしまう。


 僕は、実際の臭いとは別に、その人の内から香るニオイというか、カラーというか、超能力みたいに聞こえてしまうから説明しにくいがオーラに似た、その人のだけのニオイを感じ取ってしまう性質のようだ。


 好意を寄せる異性からは甘いフルーツに似た匂いを感じる。実際に女性はシャンプーや化粧品のいい香りがするのだが、それと別にイメージというか雰囲気というか、それがニオイとなって僕の鼻に届くらしい。

 嫌いな奴、自分が受け入れられない奴からは、強いスパイスの辛いようなニオイがする。輸入品の香水のニオイに似ている。自分と合わない奴からは、自分の鼻に合わないニオイを察知するのだろう。

 逆に自分の味方というか、自分と近しい人間、自分が心を許している人間からは、優しい石鹸のようなニオイがする。


 篠山さんがインターフォンを3回程押しているが、406号室の佐伯は出てこない。僕は鼻を扉に近づけて、クンクン嗅いでみた。また、篠山さんに肩を小突かれた。


「わかんねえ奴だな!だから、それを止めろって言ってんだろ!」


 篠山さんからは、タバコの臭いと整髪料の苦い臭いと、優しい石鹸のニオイがする。


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