【1】Ace from 1945 : 2016.November

 冬の盛岡を流れる北上川を渡ったところで男はバスの運賃箱に音を立てて硬化を落とすと、ちらほら雪が降るバスの外へと降りて行った。彼の手にはスマートフォンが輝き、電子地図がこれから行く方向を指し示していた。操作を完了すると、行くか、と小さく独り言を残したエルフ耳の男は案内に従って歩き始めた。

 男にとって、そこは見知らぬ街だった。

 男と出くわす人はそれなりにいたが、誰も気にも留めなかった。異人種の男など、珍しいことには珍しいが、顔を覗いてみるほど珍しいというわけではない。

 だが、その昨日ショーウィンドウから取り出したようなコートの下をもし見る者がいたとすれば、その人は何を見るのであろうか。その顔深く刻まれた無数の苦難と苦労を感じ取ることが出来たらば、男に対して人は恐怖と畏怖を覚えるだろう。そして思うだろう。どれほどの地獄を生きてきたのかと、そして、そんな「戦場帰り」が一体この街に何の用かと……。


 盛岡北上川の近くにある小さな焼き肉屋「平壌亭」のこの日の営業時間は何事もなく過ぎていった。一時過ぎとなれば近隣の役所や企業の昼休みも終わり、暫くは客の少ない閑散とした時間が流れるのがいつものことだった。

 無論店主たる琴 彩華 (クム チェファ)にとってこの時間は朝からの忙しい作業が中断する憩いの一時だ。さっそく店の奥に入るとテレビを軽音楽代わりに流し、スマートフォンを手に取る。昨日と大して変わらない台湾難民、南北朝鮮難民のフィリピン移住計画をBGMに彼女はソーシャルゲームの無料ガチャを回し始めた。

 そんな一時を厨房で過ごしている時にゴメンクダサイ、という下手な日本語と共にカラン、カランと厨房のドアが開いたらどうだろう。少し不機嫌な顔をして彼女は客席の方を目指して歩き始めた。感情はあまり良くない。この時間の客は彼女にとって気怠い午後の一時を粉砕する。そういう意味でこの時間の客に対応するのはあまり好きではなかった。

 だが、ドアの前に立つ人物を認識するや否や彼女の嫌々な感情は吹き飛んだ。いや、吹き飛んだとは比喩ではない。心臓が一瞬止まり、目の前の人物の姿を足のつま先から頭頂部まで何度も見返した。

 脳の理解に体が追い付かずに硬直した。体が現実の認識に追いついた時、やっと彼女は言うべき言葉を見つけ出した。

「小虎……小虎なの?」

 男は、いや、趙 鉉濬(チョウ ヒョンジュン) 「元」朝鮮人民軍空軍中将は目を合わせると穏やかな顔で「70年ぶりになります。姉さん。」と返答した。

「あ……。」突然の事に次に出す言葉など出てこない琴は数秒間固まったままだったが、やがて、ああ、ああ、と数秒間あえいだ後、自分でも気づかないうちに床にぺたんと座っていた。

「小虎、よかった……どんなになっているのかとずっと心配していたよ……小虎……。」

 心配だったよぉ……と、涙を流しながら抱き着くなり感情の堤防が決壊したのかよかった、よかったと言いながら朝鮮人特有の感情を出し惜しみしない大声で泣き始めた。

「大丈夫だよ、姉さん。僕は大丈夫だった。大丈夫だった……。」

 趙は静かに自分より小さくなってしまった彼女を抱きかかえ、そのまま、彼女が寄りかかるに任せる。

「でも、生きていてよかった。本当に良かった。」

 彼女の何度も言う「生きていてよかった」が何を意味するのか趙には最初わからなかった。恐らく、戦争に参加したという事だろうと思って趙はとりあえず、「僕はそう簡単に落ちるパイロットじゃない。」と柔和な笑みを浮かべる。だが、彼女は違う、違う、とそれが要因ではないと指摘する。じゃあ何なんだ?と尋ねるとどうやらテレビで見るたびに趙が映っているか不安だったと言うことを話した、ようやく趙は事態は飲み込めた。

(そうか、テレビを通じてしか僕を見る機会がなかったんだろうな。)

 店のテレビの黒い画面に目を遣りながら思いを馳せる。彼も日本で北朝鮮に関する報道が盛んになったのは拉致の実態が明らかになった15年ほど前だったというのは知っている。

 半世紀ぶりの「再会」は、おそらく軍事パレードを眺める「将軍様」の脇にいる自分だったのだろうと考えれば彼女の受けた衝撃と不安を予測するのは難しくない。恐らく立場が逆だったらば、自分も不安で仕方なかっただろう。

趙は掛ける言葉を持たい。彼女とは余りにも異質すぎる世界を生きてきた。終戦直前に金日成の元に馳せ参じ、三代の将軍に使え、空軍を指揮し、空の上の死と生の狭間を飛ぶ。そんな世界で生きてきてしまった故、70年を異国の小市民の一人として過ごしてきた彼女に思いを伝える言葉が見つからなかった。だが、言葉にしなくても思いを伝える方法はある。ただ、お互いの感情を受け入れ、全てにおいて否定しない事だ。

そのまま「姉」のように接してくれた彼女の心の中から感情の波が引くまで黙って趙は彼を受け入れ続けた。その間、趙は彼女がこれまでどんな人生を生きてきたのか思いめぐらしていた。あの、日帝の敗北の時に「日本人」になることを選んだあの日から、趙と彼女の運命は全く別の道を歩んだ。それからの70年、いったいどれほどの笑いが、涙が、彼女の人生を通り過ぎたのだろうか。それを慮る一方で彼もまた、涙を流していた。途切れることのない涙が目から流れ出てきた。


「姉さん、泣き止みましたか?」

 どれくらい時間が経っただろうか。、趙が声をかけると琴は「うん。ありがとう。」と涙を拭いて返答する。既に彼女は落ち着きを取り戻し、激しい嘔吐のような呼吸も既に過去に去っていた。

 代わりに彼女はいつも通り……そして70年前と何ら変わることがない……笑顔を取り戻していた

「よくここが分かったね。」

「偶然だよ。」力を抜いた笑いで趙は答えた。「世話になったJ-フォースの隊員がこの街の出身でね、偶然この店を知っていたんだ。」

 それから趙は、少しだけ時間を空けて、すまなそうな顔をして話を続けた。

「実を言うと、僕はずっと姉さんがどうなったかわからなかった。死んでいると思った時もあった。正直言うと、忘れた時もあった。」

 それを聞いた琴は、表情一つ変えることなくこう返した。

「でもよかった。元気そうで。」

「僕もよかったと思っている。」

 うんうんと頷く彼女は遠い昔と何も変わらない。彼女の笑顔を見ていると、急に昨日までの時間が嘘だったかのような錯覚を受けた。今はまだ大日本帝国で、自分は町の悪ガキだったあの時……、無論、それは幻想だ。今も、彼を待っている仲間と機体がある。

「そうだ……。」少しでも空気を明るくしようと場の空気を乱したのは琴だった。

「おなかすいているでしょ。何か食べていかない。」

「そうだね……。」急激なストールに面食らったものの、その風の飛び方は体がおぼろげに覚えていたらしい。表情をニュートラルにして返答する。

「じゃあ、一番高いのをひとつ。」

 はーい。と、にこにこ答えた彼女は奥に入っていった。

「姉さんは、一人なのかい?」

厨房で料理をする彼女に趙は少し大きな声で話しかけた。

「そだよ。」

「結婚とかは?」

「あー、昔はしていたさ。でも、別れた。今息子は仙台にいて、夏休みには孫が来るよ。そろそろ歳を取らないことに驚く頃合いだね。」

「別れた?どうして?人種とか?寿命かい?」

「我慢ならなくなったのさ。最初は一生若い奥さんと暮らせると思っていたんだろうね。でも、それは外側の話。心は一緒に老いてくれると信じていたんだと思う。」

「脱皮した姿が嫌になったって訳か。」

 そ!、と琴は返した。趙が言葉の最後を遮る雑音が気になって通りに目を遣ると、そこを自衛隊の大型車両がガガガガ、といううるさいエンジン音を立てて通過していった。それがいなくなると再び静かになった。

「人間の70年ぐらいの人生だって変わらなきゃやっていけないよ。南朝鮮解放の時の戦闘機と、その南朝鮮から日本に逃げて来た時の戦闘機、随分変わった。」

 別れたのは間違いじゃない。と趙が言うと、ありがと、と台所の奥から声がした。再び現れた自衛他車両の振動とエンジン音を合図に会話は途切れた。


「はい、出来たよ。」

琴が奥から料理を持ってくる。キングランチ大盛、この店のランチで一番高いメニューだ。まだ焼けていない赤々とした肉、盛岡冷麺のスルメのように透き通た麺。

 激しいデジャブが趙を襲った。今日で何度目か、まるで昔に戻ったような気分が襲ってきた。思い出補正も含んだモノだということは分かっていた。それでも、琴が笑顔で食事を出す姿は、間違いなく昔のままだった。

 一口冷麺を口にする。

 昔と変わらない彼女の冷麺の味。

 一口、一口と食を進めるたびに過去の思い出が記憶の海の奥底から甦り、遠い過去の思い出が鮮明に思い出された。

 大日本帝国統治下で生まれ、育った日々。琴はすぐ隣に住んでいてまるで自分を弟のように接してくれた。

 抵抗運動を行う父と違ってすぐに考えが変わり、日本語苗字の事実上の強制が始まる遥か前にすでに日本語の読みを作り、日本の四季の祭りに連れて行くその破天荒な彼女と過ごした。

「世界は変わっていく。恐れていては仕方がない。」

「どうせ変わるしかないなら、こっちから変わっていくしかないでしょ!」

 それが彼女の口癖だった。

 幼き日々は趙の父の抵抗運動が百年スパンの長期的なプランだったために少年の頃の彼は直ぐには興味を示さず、毎日のように琴と一緒に遊んでいた。友人が出来、自身も抵抗運動に興味が湧いてきて、そして父が逮捕されも、何かあると彼女の所に行っていた。

 それは母親が早く死んでしまったからというのもあるだろう……記憶の片隅に母の葬式の列の泣き女たちのうめき声がノイズを何重にもかけられた形で趙の記憶の底に残っている……そのせいか、幼少期はやたらと甘えていた記憶がある。

 「琴(クム)姉さん。」と彼女を読んで甘えていた時期がおそらく人生で一番幸せな時期だっただろう。大戦があり、威張り散らしていた日本人たちが青い顔を押して海峡を渡り始める少し前に、その幼き日々は終わった。

 日本の敗北と金日成の存在に頼るために故郷を捨てる時にサヨナラが言えなかった日、祖国解放、南朝鮮解放、ベトナム戦争……そしてその苦楽の日々を過ごした国を自らの手で引導を渡し、白頭山を爆破して落ち延びた日々。

 激流を下るような戦争と政争の日々が彼に押し寄せては流れていった。ソヴィエトがロシアに戻り、イスラム過激派と、「民主主義の美名に隠れた醜悪な帝国主義」と彼の国が呼んだアメリカの際限なき地獄の戦争、異世界から国ごと訪れた侵略者ファーレン、そしてアメリカ崩壊、バランスの崩れた国際軍事情勢は台湾を赤い龍が飲み込むのを静観するしかなかった。そして、彼の祖国も……。

「…………ッ……。」

 自身も気づかないうちに彼は涙を流していた。それに気づいたときは更に涙が溢れ出るのを制御できないということを知覚した時だった。

「姉さん……。」

  それは嗚咽だった。目の前の彼女ではなく、記憶の彼方の彼女を呼んでいた。その時ようやく彼の精神は時間を一巡し、現代に帰還した。

「小虎、泣いてる……。」

「……。」

 次の瞬間、趙が爆発した。

 指揮官の条件たる冷静沈着など殴り棄て、感情に赴くまま残りの冷麺のゴムのように硬い麺を次々と食いちぎり、涙で薄まった汁にありったけのキムチをいれて一気飲みした。

「…………ッ……。」

 語る言葉など存在しなかった。

 表現すべき技巧など存在しなかった。

 百年、それに迫る長い時間から吐き出される激情の中で、彼は冷麺の器に倒れ込むようにして泣いていた。「何故」かは理解できなかったが、琴はその身もだえる「小虎」の気持ちを察し、テーブルの脇の椅子に座ると静かに寄り添った。

静まり返った部屋で調理場のTVの音だけが流れてきた。

「……この、激動の2016年の終わりの冬に、ここに我々は宣言いたします。必ずや、いつの日にか、故郷に帰らんことを。そして、約束の地へ向かうための、新たな世界を作ることを。」

 世界の片隅でかつて一国の空軍を動かした男が、泣く。女はそのそばでただ彼を見守る。

 古めかしく、あるいは昔のように。

 壊れ、変わってゆく世界で。

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