第15話 全員集合! ……って、何でだ?
「結婚……かあ」
アパートの私の部屋の中央のテーブル。ペタンと顔を付ける。
視線の先には、白い真四角の箱が置かれていた。
この中には逆三角形のパカッと開くケースが入っていて、その中にはアクアマリンの指輪がある。
考えるなと言われてもなー。
好き……は、好きだよ。だけど、こんなボヤンとしててその言葉を返していいのかな?
新川透は、あんなに重い『好き』をくれたのに。
ここ数日、小林梨花や玲香さん、松岡さんの件もあってずっと寝不足だった。
今日こそは、と思っていたけど……でもやっぱり今日もグチャグチャと考え込んでしまい、なかなか寝付けなかった。
* * *
とてものどかな風景だ。小川がさらさらと流れている。河原には丸い石がゴロゴロ転がっている。踏みしめているのに、あまり痛くない。綿でも踏んでいるような感覚だ。
辺りを見回したけど、誰もいない。
ここは、どこだろう……。川の向こう側に渡れば、誰か見つかるだろうか。
ツーッと、涙がこぼれた。
あれ、何でだ? 泣かないって決めてたのに。お母さんが死んで、呆然としている間に葬式が終わった――あの日に。
私の誓いは……。
「――クサッ!」
あまりの焦げ臭さに飛び起きる。え、何だ、煙?
知らない間に涙がこぼれてる。
これは……火事!?
「え、な……ゴホッ」
咳き込みながら飛び起きると、咄嗟にその辺のタオルを鼻と口にあてる。空いた手でいつも使っているリュックを掴み、チェストの引き出しを開けて通帳などの貴重品を放り込む。次に仏壇の位牌に手を伸ばす。
そうだ、指輪……!
リュックを両肩で担ぎ、テーブルの上に置いたままになっていた四角い箱を掴み、玄関へ。
ドアノブに触れた瞬間、あまりの熱さに手を引っ込める。持っていた小箱が転がっていく。慌てて拾い上げると、痛みが走る。どうやら火傷したらしい。
火事。本当に火事だ。どうしよう、出れない。
グラリと眩暈がして、その場にへたり込む。
右腕はしっかりタオルで鼻と口を押えたまま。左腕に位牌、そして左手に小箱を抱えて。
お母さん。どうしよう。私……このままここで死ぬのかな。
ねえ、まだ返事してなかった。そしたら、新川透は、どうするのかな。
ここでギュッと指輪を抱えていたら、返事ができなかった代わりに伝わるかな。
* * *
(――莉子!)
何? ここにいるよ。
ねえ、私はここ。私の声、聞こえない?
(莉子、目を開けて!)
開けてる……開けてるつもりだけど。でも駄目だ。白い煙が立ち込めたような、靄がかかっている。何も見えない。
(莉子! 聞こえてる!?)
聞こえてるよ。……でもそうか、私の声は聞こえないのか……。
ひょっとして幽霊になっちゃったのかな。一枚隔てて、違う世界に来ちゃったのかな。
「新川透に、伝えたかったのに……」
ボロボロボロッと涙がこぼれるのが分かった。
もう最後だもんね。誓い破ったけど、仕方ないよね。
(――何を?)
「あのね……」
一瞬だけ、新川透の顔が見えた気がした。
ねえ、聞こえる? 今なら、ひょっとして届く?
「――ちゃんと好きだったからね」
もう完全に手遅れだけど。
温かい涙が頬を伝うのを感じた。でも、それが本当に最後。
私の視界は、真っ暗闇に包まれた。
* * *
右腕にちくりとした痛みを感じる。うっすらと目を開けると……薄いベージュの天井と点々と明かりがついた丸いライトが映る。
そこから右側に視線を移すと、点滴の器具。ポトッ、ポトッと雫が落ちているのが見える。
そこからゆっくりと視線を落とすと、薄いピンクの服を着たおばさんが何やらテキパキと作業をしていた。
「あ、目が覚めましたか?」
「私……?」
「点滴の途中ですから、なるべく動かずに。しばらく休んでいてくださいね」
「は……」
看護師さん……だよね。辺りの器具を片付け終わると、少し慌てた様子で去っていく。
ということは、ここは病院……。
そうか、アパート、火事になっちゃったんだっけ。
左側に目を移すと、壁の大半が大きな窓になっている。
……ってちょっと待て、病室にしちゃ広くないか? 何か高層マンションの一室みたいな夜景が広がってるんですけど!
左手を見ると、手のひらにぐるぐると包帯が巻かれていた。そうか、火傷しちゃったんだっけ。
両腕の肘を軸にしてどうにか身体を起こすと、ホテルの一室のような、二十畳ぐらいのスペースが目の間に広がっていた。
まず最初に目に飛び込んだのが、向かい側の壁に備え付けられている40インチぐらいの大型テレビ。
その前には、ベージュのソファとガラステーブル……いわゆる応接セットが。右側の壁には木目調のシックなチェストと、それと同じ材質で作られた立派な机が一続きになって設置されている。床には薄いグレーのカーペットが敷き詰められており、それらの立派な家具たちをふんわりと受け止めている。
よく見たら、ベッドもただの病院のベッドとは訳が違う。ダブルサイズぐらいあるし、ふっかふかだ。
あれ、ちょっと待て、ここはやっぱりホテル? はい?
そのとき、遠くのドアからコンコンというノックの音が聞こえた。返事をする前に、ガラガラというドアを開ける音が聞こえ……。
あれ、ホテルなのに引き戸?
「お義父さん、お義母さん、ちょっと待……」
「回診だ」
「私は薬剤の説明を」
「そんなこと言って……あっ!」
そんな騒々しい声が聞こえ、五十代ぐらいの小太りの男性医師と白衣を着た背の高いショートカットのおばさん、そして玲香さんが現れた。
何だ、何が始まるの?
三人を見比べて、ふと男性の医者に目が止まる。
あれ……この人、新川透のお父さんじゃん!
「仁神谷さん、気分はどうですか?」
「大丈夫、ですけど……」
「ちょっと疲労が溜まっているようなので、念のため栄養剤を投与しましたよ。……全く、透ったら何やってるのかしら! こんなに痩せ細って……!」
「いえ、これは元々……」
「莉子ちゃん、ごめんなさいね。止められなくて……」
「玲香さん……」
そ、そうだ。これはどういう状況なんだ。
新川透のお父さんが回診……ってことは、ここは新川病院?
「お義父さん、お義母さん、透くんに怒られます!」
「だから、ちょっとだけだから。ねっ!」
玲香さんを押し切る白衣のおばさん……あれ、この人も見たことがあるような。
こんな背の高い綺麗なおばさん、滅多にいないし。最近どこかで……。
「あのぉ、前に……」
私がおばさんに話しかけると、そのおばさんは「しまった!」というような顔をした。
「あらやだ、覚えてた? あの時はありがとう、莉子ちゃん」
「お前、勝手に会いに行ってたのか?」
「だって、あなたが悪いのよ。健彦の面談とか言いつつ莉子ちゃんに会いに行って! ズルいじゃないの!」
「お義父さん、お義母さん、ちょっと……」
そうだ! このおばさん、確かスーパーで会ったおばさんだよ。
缶詰拾って、昆布と三杯酢がどうとかこうとか言っていた……。
えっ、どういうこと? 私ったら知らない間に新川家コンプリート?
いやいや、まだお兄さんがいたか……って、そうじゃなくて。
じゃあ何か、お父さんは私に会うためにトイレの周りをウロウロしてたの?
お母さんはわざとスーパーで私にぶつかったってこと?
そして素性を隠してアパートの隣に越してきた玲香さん……。
オイコラ、ちょっと待て。
新川家の人間は、私を最初に騙さないと気が済まないんですか?
「――何をしてるんだ、あんた達は」
ドスの利いた低い声が、ドアの方から聞こえてくる。
私の周りでわちゃわちゃしていた三人が、ビクッとするのが見えた。とてつもなく不機嫌なオーラをまき散らしながら、新川透が現れる。
「と、透……」
「莉子は絶対安静じゃなかった?」
「それはお前、名目上だ。分かってるだろ? 幸い煙は殆ど吸い込んでいないし、少し休めば大丈夫だ」
「だからって目覚めたばかりの莉子にあんた達は何を……」
「だって透ったらいつまで経っても紹介してくれないじゃないの!」
「お義母さん、それを言ったら……」
「とにかく早く出ていってくれ」
「紹介……」
「それは落ち着いたら!」
「ごめんなさい、透くん」
「玲香さんも頼みますよ、本当に……」
新川透が父親の背中をぐいぐい押し、玲香さんがお母さんの肩を抱きかかえるようにして廊下の奥に消えていく。
ガラガラ……パタン、という音が聞こえ、一気に静かになった。
「ったく……」
と、新川透が小さく舌打ちする音が聞こえる。
「あの、何事……」
「ごめん、莉子」
新川透が申し訳なさそうな顔をしながら部屋の中に戻ってきた。
「さすがに病人には無茶しないはずだけどね。莉子に異常がなかったもんで『ちょっと挨拶だけ』と思ったらしい」
「は……」
「――莉子」
ベッドの上――私の左側に腰掛けると、新川透は私をギュッと抱きしめた。そして少し体を離すと、ゆっくりと顔を近づけてくる。
ちょ、あんた、いきなり何を……。
こら待て! 私は両手が動かないんだぞ!!
「――莉子、その顔、何?」
私の顔面のすぐ手前でピタリと止まると、新川透が眉間に皺をよせ、不満そうに言葉を漏らした。
私が「いーっだ!」という顔をして歯をガチンと合わせ、剥き出しにしていたからだ。
「キスしようとするから!」
「駄目?」
「駄目でしょ! 両手不自由な人間に、卑怯!」
「うーん……」
だいたい寝起きで歯も磨いてないし! 絶対嫌だ!
新川透はしばらく粘っていたが、全力で「いーっだ!」を維持していると諦めて身体を離してくれた。
一番無茶しているのはお前じゃないのか、というツッコミはとりあえず飲み込んでおく。
「ねぇ、ご両親は私のこと知ってたの?」
「そう。……とは言っても、2か月前ぐらいだけどね。だから言っただろ、両親も公認だからって」
「それも本当だったのか……」
「そうだよ」
新川透は腕組みをすると、なぜか得意気に胸を反らした。
「莉子の前では、極力嘘はつかないようにしてる。莉子が相手じゃなくてもね」
「へぇ……」
「後で後ろめたくなるからね」
ベッドから少し離れた場所にあったキャスター付きの椅子を引っ張ってくると、新川透は「はぁ……」と溜息をつきながら腰を下ろした。
「本当に、今日だけは莉子のアパートに行ってよかった……」
「今日? え、今何時?」
「月曜日の、夜……7時過ぎだよ」
再び溜息をつきながら、時刻を教えてくれる。
それから新川透は、アパートの火事についてゆっくりと話してくれた。
月曜日の明け方、私の住んでいたアパートが火事になった。火元は2つ隣のヤバいおっちゃんの部屋だそうだ。タバコの不始末らしい。
朝の新聞配達の時間に合わせてやってきた新川透は、アパートから火が出ていることに気づいて通報、そして玄関を突き破って私を助けてくれたらしい。
そして私は新川病院の特別室へ。煙は殆ど吸ってないし(倒れたのはストレスと連日の睡眠不足のせいだったらしい)左手をちょっと火傷した程度なのに、なぜそんなことに……。
「ここなら秘密は守れるし、安心だから。俺もいつでも来れるし」
「秘密……」
「一般病棟とは完全に隔離されてるからね」
前からちょっと不思議だったんだけど、新川透はどうしてこんなに用心深く私を守ろうとするんだろう。
どちらかというと、物理的な意味じゃなくて……精神的な意味で。
私が悪意にさらされないように。謂れのない中傷をされないように。
自分の意思を曲げないで済むように。やりたいことができるように。
そんな意図が伝わってくる。
新川透は、私が本当の意味で困るようなことだけは絶対にしないだろう。
そう、素直に思えた。その点だけは、信用できた。
だけど、そのギリギリ手前までは猛烈に攻めてくるけどね。私が困ろうが照れようが怯えようがお構いなし。
あは、あははは……。
これって愛情表現に入ると思います? ……オーディエンス使いたいなあ。
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