第5話 イライラが止まらない!

 ――最悪だ。何であんなシーンを見ちゃったんだろう。


 目の前に置かれた社会の問題用紙を睨みつけながら、私は心の中で毒づいた。


 いつもは一日でいっぺんにやってしまうマーク模試だけど、今回は土日の二日間に渡って実施される。予備校で行われる最後の模試という事で本番と同じ時間帯で実施するから、らしい。

 だけど入室完了から実際の試験開始まで結構時間が空くし、しんどいのよね。

 ましてや控室で新川透と二人きりなもんだから、気まずいったらないわ。

 気分は最悪だし。


 ……え、何を見たのかって?

 昨日、桜木社長が車で私のアパートまで送ってくれた。

 そのときに……予備校から帰るところと思われる、新川透の白いレクサスと遭遇したのよ。信号待ちで、桜木社長の車が左車線、新川透の車が右車線でね、ちょうど並んで。

 桜木社長は新川透の車は知らないから気づかなかったみたいだけど、私はすぐにわかった。そして、思わず身体を縮こませた。夜の車内なんて、運転席の新川透から見える訳がないのにね。


 だって……助手席には、小林梨花がいたから。


 何で車に乗せてるんだろう? 確か前に言ってたよ? 生徒を乗せる事はないって。

 車で送迎している時に事故にあったりしたら責任持てないから、職員は『非常事態』じゃない限りはそういうことはしないんだって。

 『非常事態』って、アレだよ? 予備校内で急に生徒が倒れて病院に連れて行かないといけなくなったとか、そういうレベルのやつよ?


 見たところ、小林梨花は泣き顔だったけど体の具合が悪い感じではなかった。いわゆる『非常事態』とはとても思えなかったな。

 それに生徒の一人をそういう特別扱いしていいものかね。ん? ん?

 予備校講師として尊敬していたのに、見損なっちゃったな。


 新川透のことをちゃんと考えようと思った矢先でのこの出来事。私の心は急速にしぼんでしまった。

 きっと、聞けばどういうことだったのかは教えてくれるだろう。だけど、この胸のモヤモヤは消えそうにない。当然、松岡さんの手紙の件だって相談する気にはなれない。

 だってそこは……。



「――始め」


 そのとき、新川透の声が聞こえてきた。

 いかん、今はそれどころじゃない。集中、集中!


 私は破らんばかりの勢いで表紙をめくると、目の前の日本史の問題に没頭した。

 いつもより鉛筆の芯がポキポキ折れたので、余計イラついた。


   * * *


 ミネルヴァ様


 こんにちは。お返事、ありがとうございました。

 お言葉に甘えて、少し愚痴ってもいいですか?


 私は一人っ子です。両親共働きで、家に帰っても誰もいません。

 両親には可愛がられているとは思うけれど、話もできないのだから意味がありません。

 その両親が、離婚することになりました。もう随分長い間不仲だったけど、母に不倫相手がいることが分かって、私の家は完全に壊れました。

 母は家にもその男の人を入れていたそうです。気持ち悪い。

 家にいたくなくて、予備校に来て自習しています。

 家には帰りたくないけど、私の帰る家はあそこしかないんです。


 新川先生にも相談しました。先生の家に泊めてよとワガママを言ってみたけど、当然断られました。これは私が悪いんですけどね。パニックになると、どうしても無茶苦茶を言ってしまう。

 母から予備校に「娘がまだ帰ってこない」と苦情の電話が来て、新川先生が対応してくれました。

 私がグズってたせいで、新川先生は悪くないのに。

 責任持って送るので、と言ってくれて、新川先生が車で私を家まで送ってくれました。


 ある人から、新川先生にはとても若い恋人がいると聞きました。

 ちょっとショックです。私よりずっと大人の綺麗なバリバリのキャリアウーマンとかだったら、諦めがついたのに。

 勿論、これは私の勝手な幻想。だけど……。

 やっぱり、諦めた方がいいんですかね?


   * * *


 知るか――! ……と叫び出しそうになるのをグッと堪えながら、手紙をジャンパーのポケットにしまう。ギュッとチャックを閉めて、絶対に落とさないように。


 日曜日、マーク模試二日目。

 7階女子トイレの洗面台下を覗くと、小林梨花からの手紙が来ていた。


 まぁ、一つ謎が解けた。そういう理由で車に乗せたのか……。

 でも、何で助手席? 後部座席でいいじゃん。タクシーみたいで変かな?

 いや、こだわる私が変?


 ああ、もう! しかも古手川さん、小林梨花にやっぱり言っちゃってるじゃん!

 どうしよう……。んでもって、しっかり新川透に恋してるし。

 だから思ったんだよ、決定的に間違ってるって!


 いや待て、手紙を受け取ったのは『トイレのミネルヴァ』。『仁神谷莉子』の気持ちは置いておいて、無にならないと。ちゃんと『ミネルヴァ』として考えなくては……。


 ……って、できるか――!

 ああもう、松岡さんの件もあるのに、面倒くさい!

 しかもどれもこれも、誰にも相談できない! 私も『ミネルヴァ』が欲しいよ!




「……莉子、大丈夫か?」


 女子トイレから戻り控室のドアを乱暴に開けると、新川透が心配そうな……というよりは訝し気な顔をして私の顔を覗き込んだ。


「眉間の皺がすごいことになってるけど。数学、上手くいかなかったのか?」

「ああ……うーん……ちょっとね」


 この二日間、かなりイライラしたもののどうにか模試はやり遂げた。最後の理科が終わって、時刻は六時近く。もう外は真っ暗だ。


「今日は一緒に帰ろう。生徒がみんな帰ったら戸締りするから、それまでここで待ってて」

「いいよ、別に。自転車を置いていくわけにはいかないし」


 私はぶっきらぼうにそう言い捨てると、バタバタと机の上の荷物をまとめ始めた。

 小林梨花の手紙をもう一度ちゃんと読みたいし、松岡浩司さんの手紙の件もある。

 とにかく、早く一人になって落ち着いて考えたい。 

  

「記述模試の判定の話も……」

「それ、明日の個別補習の時じゃ駄目かな」


 模試の問題や筆箱を乱暴に鞄に入れながら、新川透の言葉を遮る。

 駄目だ、イライラが治まらない。

 謎も解けたんだし、新川透にぶつけるのは間違っていることは分かってるんだけど、止められない。

 こんなんじゃ駄目だ。とにかく距離を置かなきゃ。


「今日は疲れたから……」

「――莉子」


 鞄を肩に担ごうとして伸ばした右手を、グッと掴まれる。

 「えっ」と思っているとそのまま手首を掴まれ、後の壁に押し付けられた。

 ハッとして顔を上げると、左肩もドンと壁に押し付けられる。


 な……こ、ここにきて王道の壁ドン! 何でだ!

 悪いけど、今日は小躍り莉子はいませんよ。全員ヤンキー莉子です。釘バット持って「ああん?」とメンチ切ってます。

 ああ、イライラが爆発しそうだわ。だから今日はさっさと帰りたかったのに。


「……何?」


 精一杯、落ち着いた表情を作り、静かに聞き返す。

 じっと新川透の顔を見つめると、新川透も同じぐらいの眼差しの強さで見つめ返してきた。


「やっぱり変だ。莉子、何かあった?」

「別に」


 視線をふいっと逸らすと顎をガッと掴まれて無理矢理上を向かせられる。

 ちょ、奥義・顎クイもプラスかよ! いや、これはそんな色気のある感じじゃないけども!

 いいよいいよ、今日は受けて立とうじゃないの。こんなことで動揺するか!


「そんなはずはない。顔を見てればわかる」

「保護者ヅラ……」


 思わずポロっとこぼれて、慌てて続きの言葉を飲み込む。

 ……だけど、遅かった。

 新川透は明らかにムッとしたようだった。


「そんなつもりはない。莉子こそ……」

「私が、何?」

「他人行儀だ。ずっと」


 他人行儀って、他人じゃないのよ!

 何言ってんだ! 私の事、自分の自由にできる所有物か何かだと思ってる!?


 頭にカッと血が昇り、顎にかけられた腕を左手でグッと掴み、爪を立てる。

 新川透は少し「痛っ」というような顔をしたが、手を除けてはくれなかった。


「保護者ヅラじゃなかったら、何? 自分は大人だから、未成年を管理するって?」

「そうは言ってない」

「子供扱いしないでよ!」

「した覚えはないけどね、一度も」


 そんな訳あるかあ!……と叫ぼうとしたけど、それは声にはならなかった。

 ――なぜなら、私の唇は新川透の唇に塞がれていたので。





「さ……最っ低――!」


 唇が離れた瞬間、雄叫びを上げて勢いよく頭を前に突き出す。

 私のおでこが新川透の顎にクリーンヒットした。目から火花が出て頭がグワングワンしたけど、新川透の手の力が緩んだのを感じる。

 ありったけの力を込めて振り払うと、私はすかさず距離を取った。

 

 ギロッと睨みつけると、顎をさすりながら顔をしかめている新川透と目が合った。どうやらかなり痛かったようだ。


「莉子……頭突きって……。舌噛むかと思った」

「うるさい、淫行だからね! しかも職場で!」

「莉子こそ都合が悪いとソレだよね。子供になる」

「そういう意味じゃないし! しかも……」


 さっきのことを思い出して視界がグルグルしてくる。

 何あれ。何なの、あれ。


「は、初めてなのに……舌入れるとか!」

「大人扱いした結果だけどね」

「少しは悪びれろ!」


 駄目だ、頭がグラグラして何も考えられない。頭突きってこんなに響くのか。いや、それだけじゃないか。

 とにかく帰ろう。そうしよう。


「悪くないのに悪びれな……うわっ!」


 私は自分の鞄を肩に担ぐと、テーブルをガガッと蹴り飛ばした。長テーブルが狭い控室の中で向きを変え、部屋の奥に新川透を閉じ込める。

 そしてそのまま脇目も振らずに扉に向かって駆け出した。


「莉子……!」


 予想外だったのか、新川透も咄嗟に私を追いかけられなかったようだ。切羽詰まったような声だけが背中から聞こえてきた。


 おかしい! おかしいでしょ! 何故あの流れでキスするんだ!

 大人なら冷静に話し合いで解決しようよ!

 はぐ~~!


 階段を猛スピードで駆け下りながら、今になって顔がカーッと熱くなるのがわかる。

 嫌だ、こんな顔、絶対に新川透には見せられないから!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る