第10話 そして皆がダメージを食らった

 新川透の姿が駐車場から消え……いつの間にか辺りが真っ暗になっていることに気づいた。

 そしてヘッドセットから聞こえてくるのは、かすかな衣擦れの音だけ……。


“あっ、透兄……”

“えっ……新川先生!?”


 不意に、ホッとしたような新川弟の声と、ひどく慌てたような古手川さんの声が耳に飛び込んできた。

 そりゃびっくりするよね……あの女の子が来ると思ってるんだから。

 そしてやっぱり、新川弟はとっくに兄にゲロっていたようだ。待ってました、と言わんばっかりだもんね。

 このぉ、私にも言っておいてよ……って、無理だよねー。兄の奴隷だもんねー。ああ、憐れ。私も新川弟もな!


“透兄、あの……”

“タケ、お前はここから二度と口を開くな”

“はぐぅっ!”


 こ……怖っ!! マジで怖っ!!

 新川弟の怯え方がハンパない。そりゃそうだ。すんごい低ーい声で、「お前、邪魔したらマジ承知しねーから」って感じだったもん。

 余計なこと言ったら社会的に抹殺される、確実に……!

 多分彼は、一刻も早くこの場から立ち去りたいだろうに……。何かごめんね、新川弟!!

 

“新川先生、あの……”

“古手川、盗撮は違法だって知ってるよな”

“そ、それは勿論です”


 いや、あんた弟にやらせてたやないかーい。

 あれ? でもあれは盗撮ではないのか。弟に指示して撮らせてたんだもんね。

 言うなれば、自分のブログを上げていたようなもの……。

 そうか、新川透はセーフだ……。やってたことはどう考えてもアウトのような気がするけれど。


“タケに見せた写真、消して? その女の子の写真、全部”

“えっ……。な、何でですか?”


 何でそんなこと命令されないといけないの、とばかりに古手川さんの口調がキツくなる。

 さすがだね。それが肝だってわかってるもんね。

 なかなか消しはしないだろうし、スマホを渡すことだってないだろうよ。


“――予備校の、盗撮魔”


 新川透が、その低い声でゆっくりと言った。


“実は、とっくに吐いてたよ。古手川に命令されたって”

“何を……”


 古手川さんが、「ハッ、馬鹿馬鹿しい」とでも言うように言葉を吐き捨てる。しかし新川透は、尋問の手を緩めなかった。


“最初にたまたま見つけたの、古手川だって? そしたら、黙っててやるからミネルヴァを突き止めろ。そのためには7階でやれって言われたって”

“そんなのは彼の妄想でしょう。何で私がそんなことを言わないといけないんです?”

“その写真の女の子がミネルヴァに違いないと思い込んでて、しかもタケと親しそうだったからどうしても突き止めたかったんだよな”


 えーと? つまり、8月のあの日から始まった、ということ?

 ごめん、新川弟。やっぱり私のせいだったね……。


“なかなか捕まらないはずだ。男の盗撮魔が女子トイレに入る最大の難関は、誰にも見られずに潜り込めるか、そして抜け出せるかだもんな。女の協力者がいれば、簡単だ”


 そう言えば私が初めて盗撮魔と遭遇したとき、やけにバタバタした男みたいな足音だった。

 でも廊下を覗いて見てみたら、女の子の後ろ姿だった。

 あのとき古手川さんは、盗撮魔を逃がしてあげてたってことか。

 だとすると……私が囮作戦をしたときの女の子の声は見張りをしていた古手川さんで、あのときに私の写真をどこからか撮り……。

 あれ? ちょっと待てよ?


“だけどミネルヴァはどうしても見つけられない。諦めたお前は盗撮魔を使ってタケの気を引く作戦に切り替えた”


 そうだ、新川弟はお前に呼び出されて……って言ってた。

 7階女子トイレに盗撮魔を入れておいて、新川弟を呼び出す。

 遭遇して怖かったとか、何とか……。

 だけど実際には、新川弟が来る前に私が来てしまった。咄嗟に物陰に隠れて様子を見ていたら、盗撮魔が飛び出してきた。とりあえず逃がして、自分も陰に隠れた。

 ずっと探していた、私が現れたから。何者か探ろうとしたんだ。

 きっと、私と新川弟のスマホのやり取りも聞いていたんだろう。顔を近づけてボソボソ話してたし、すごく親しそうに見えたんだろうなあ……。


 ってことは! やっぱりあの課題は、ミネルヴァへの嫌がらせ……!!

 ぐぬぬマジか!! 頑張った私の時間、返してよー!!

 んでもって、新川透はとっくに古手川さんの嫌がらせだって気づいてたってことじゃない!

 じゃあ、何でそう言ってくれないのよー!


“新川先生、想像力が逞しすぎますよ。馬鹿馬鹿しい……”

“これを見ても、そう言える?”


 何やらカチャッと小さな音がした。古手川さんの“それっ……!”という悲鳴みたいな声が小さく聞こえる。


“駄目だなあ、古手川。模試が終わったらこのガラケーを取りに来るように言ってあっただろう?”

“だって、新川先生、見当たらなくて。そしたら新川くんが話があるっていうから……。それに、今日は先生、予備校にいなかったじゃないですか!”


 ん? ガラケー? 古手川さんのガラケー? 彼女、スマホじゃなかったっけ。

 そうか、2台持ちか。まぁあるよね。大事なメールは残しておきたい、とかさ。

 でも……その古手川さんのガラケーを、新川透が持ってたってこと?

 普段使いじゃないとはいえ、そんな大事な物を預けっぱなしにするかな、普通。


 あ、そう言えば新川弟が、模試の後に二人で会って時間を決めた、とか言ってたな。それで取りに行けないままになってた、ってことか。

 でもまさか、預けたガラケーの中身を見られるとは思わないもんねぇ、先生に。


 机の中にスマホが忘れてあった、などは割と日常的にある。そういうとき掃除婦は予備校講師に預けて、後はお任せしてしまうのが一般的だ。

 その場合も、講師は中を覗いたりはしない。この教室で忘れてあった、という掲示を出したり、心当たりの生徒に直接問いかけたりするだけだ。


“このガラケーでヤツと連絡を取ってたんだよな。ヤツはとっくに吐いていた、と言っただろう? 後は裏を取るだけだ。それこそ、ヤツの妄想だったら困るしな”

“だからって、こんな……えっ!”


 文句を言おうとしていた古手川さんが、急にひっくり返った変な声を上げた。


“じゃあ、まさか! 最初からそのつもりで、ガラケーを……”

“当たり前だろ?”

“……くっ!!”


 えぇ? 何だか混乱してきたぞ。新川透は何をいったいどうやったんだ?

 んー、ちょっと整理してみましょうね。

 えーと、盗撮魔をピンポイントで捕まえた新川透は、きっと他の先生に報告する前に色々話を聞いたんだ。昨日の模試の時にどうにかして彼女のガラケーを巻き上げ、今日まで返さずに手元に保管……その間に、中を確認する。


 ガラケーには彼女の悪事の証拠がある。盗撮魔に指示を出していた、という明らかな証拠。

 本当はなりふり構わず取り返したいところだろうけど、かと言って他の先生にどうなってますか、と聞くわけにもいかない。事を大きくしたくない、何も悟られないうちに新川透から取り返そう、と思っていたはずだ。


 うおぉぉ、そんな彼女のガラケー、どうやって巻き上げたの?

 というより、新川透はいつから彼女が怪しいって思ってたんだろう?


“写真を消せば、これは返してやる。勿論、俺に消させろよ”

“か、返すって……”

“タケ、黙ってろ”


 そのあとしばらく、無音状態が続いた。スマホとガラケーのやり取りをしているんだろうか。

 でも……証拠を返したらさ、古手川さんは何の罪もなくなるの?

 それって……。


“これでいいでしょ!”


 ふてくされたような、古手川さんの声が聞こえてきた。

 どうやらスマホで撮った私の写真を消したようだ。そして例のガラケーは返してもらったのだろう。

 電話越しにも「グギギ……」という彼女の歯ぎしりが聞こえてきそうな気がする。


“ここまでするなんて……あの子がやっぱり、ミネルヴァなんだ!”

“……違うよ♪”


 あれ? 新川透の声が、急に変わった。妙にテンション高めだし……何だか嬉しそう。

 さっきまでのシリアスは、いったいどこへ?

 首を捻っていると――私の耳に、トンデモナイ台詞が飛び込んできた。


“あの子はね。――俺の、恋人なんだ”



「ばっ……バッカじゃないの!?」


 反射的に叫んでしまったけど、私の声は届くはずもなく。

 はえー!? 何をトチ狂った、新川透!!


“えっ……だって、高校生って……”

“そう♪”

“し、し、信じられない……!!”


「こっちだって信じられるか――!! こら、新川透! 教え子に何を言っちゃってんの!? 明日からどうすんだよ!? だっ……はぐっ……」


 やばっ、興奮しすぎて喉が詰まった。

 ちょっと待て、妙に嬉しそうだったのは……まさか、コレをしたかったから!? 

 あの、無茶苦茶こだわってた……“恋人一番乗り”!?

 それがやりたかったの!? 敵を叩きのめす、とかじゃなく!?


「くっ……かふっ……」


 もう、悶えるしかなかった。

 新川透の優先順位が、全くわからない――!!


“あの子はね、ちょっとヤキモチ焼きでね……生徒じゃないのに入り込んじゃったからね。タケはそれを知って、庇ってたんだ。俺の恋人だって言えないから、自分の彼女だって偽ってね”


 どこの誰のお話ですか、それ? 

 まさか私? うっそーん……。


 私が

「新川センセー、モテすぎるから心配~❤」

とか言って潜入したところを見つかった、みたいな?


 すごい! 堂々と脳内妄想を語ってる……!!

 新川透、すごいよ、アンタ……!!


“あ、明日っから言いふらしてやる!”

“どうぞ? そっちの証拠もすぐに出すよ?”

“え、あ……あぁっ!!”

“詰めが甘いな、古手川。SDカードに落としたデータは、どれだけでもコピーできるんだぞ?”

“くっ……”


「あうっ……ふうぅっ……」


 もう、呻き声しか出ない……。

 うわー、悪だー。本当の悪い人がここにいますー。

 ガラケーのデータ、取り出してコピーしてたんだ。それこそメールのやり取りとか、全部。

 そしてこれは、立派な脅迫!!   


“でも、仮に俺の恋人が高校生だって言って、信じるかな? 証拠もないし、古手川がホラ吹き呼ばわりされて終わりじゃないか?”

“……うっ……!”


 うーん、これは確かにそうかも……。

 新川透が「何それ?」て言ったら、恋人がいるなんて信じたくない女生徒たちは絶対に新川透の意見を支持するに決まってる。

 ……ってその前に! 私は新川透の恋人じゃないから!!


“明日から、タケに二度と話しかけるなよ”

“……っ……”

“俺の授業は出てもいいけど、俺は二度と話しかけないよ。幸い、お前の担任じゃないしね”


 ひいぃぃぃ……それは公開処刑に近いのでは……。

 誰にでもニコニコ、聖人君子の新川センセーが、ですよ?

 古手川さんだけシカトするんですよ? まぁ、古手川さんだって馬鹿じゃないから周りに悟られないようにはすると思うけど……。

 でも絶対、受験どころじゃなくなる……!



 怖ーい! マジで怖ーい!!

 ……でもって、このあとの私のお仕置きが一番怖ーいっ!!

 何をされるのか全くわからない。……底が知れないんだから!

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