第7話 ケガの功名、な訳ないって
「あれ、どうしたんだい? その指」
予備校に着いていつものグレーの清掃服に着替えていると、山田さんが不思議そうな顔をして私の手を指差した。
ガーゼで覆い、固定用テープでぐるぐる巻きにされた、3割増ぐらい太くなった私の右手の親指。
「スライサーで親指を削っちゃいました」
「はあ? 馬鹿だねえ」
「はは……」
思いついたらすぐやってみたくなる。家に帰ったらお茶漬け用に買っておいた塩昆布があったので、私はさっそくスライサーを取り出した。
あった、あった。4種類の刃がセットになっているやつ。輪切りとかもこれでやっちゃえばラクだよね。
「ふ、ふーん♪ ふふん、ふふーん♪」
グリーンボールはザク切りし、洗っておく。きゅうりをスライサーで輪切りにして、これらに塩昆布を混ぜてよく揉み込めばOK。
彩りをよくするために、お母さんは人参も入れていたっけ。確かに白と緑だけじゃちょっと淋しいけど、まぁいいか。
そうして機嫌よく鼻歌を歌っていたら、きゅうりごと自分の親指もスライスしてしまったのだった。
アレって、すぐには血が出ないんだよね。
びっくりして自分の親指をみたら、先の左側が斜めにカットされてる。
野菜が血にまみれる前に慌てて絆創膏を貼り、ボウルに入ってしまった自分の親指の破片(……うぷ)を取り出した。
よし、セーフ。ちゃんと食べられる。
だけど……痛い!! めっちゃ痛い!!
右手はもう使えないので、左手で揉み込んで作りました。味はちゃんと思い出の味になったから良かった。
モップを持ったり雑巾で拭いたりとかは、どうにか親指を使わなくてもできた。固定テープが多少は水を弾いてくれるので、雑巾絞りもある程度は問題ない。
さて……そんなことより、ストーカー調査だ。
私はトイレ掃除がメインで、生徒たちがウロウロしている職員室や教室があるフロアに足を踏み入れる用事はあまりないんだけど、ゴミや忘れ物を探すフリをして少しだけ入ってみようか。
浪人生は私より年上の人達ばかりだし、まず私の事を知っている人はいないだろう。それに、高校時代は眼鏡をかけていなかったから今の私の姿とは結び付かないに違いない。
……とは言え、人がごった返す休み時間は怖いので、授業時間中に侵入してみた。
エレベーターホールからガラス戸を通って中に入ると、真ん中に八畳ほどのフロアがあり、二十人ずつぐらい収容できる教室が三方に並んでいる。
授業が行われているのは、一つの教室だけ。――新川センセーの授業だった。
空き教室には生徒は誰もいなかったし、ここでは噂話も聞けそうにないなあ……。ストーカーも、授業中は盗撮してなかったんだよね。
さ、戻るか……。他のフロアも覗いてみなきゃ。
何も情報は得られなかったな、と溜息をつきながらエレベーターホールに戻る。
「……ちょっと」
馴染みのある声が背後から聞こえてきたので振り返ると、新川透が立っていた。
妙に怖い顔をしている。
「センセ、授業は……」
「今は演習中。それより、それ、どうした?」
私の手を指差しながら睨んでくる。
小声でヒソヒソ言っているのに、妙に迫力があるな。
何で怒ってんだ、この人は?
「ちょっと怪我しただけですよ。怪しまれるんで早く教室に戻ってください」
「け……」
「とにかく、こっちも隠密行動中なんで。じゃっ!」
何か知らんが面倒くさい。
私は左手をしゅたっと上げると、タタタッとエレベーターとは逆の職員用裏階段へと走った。
新川センセーだって、さすがに授業放棄はしないだろう。
階段を降りる前にちらっと振り返ると、もうそこには新川透の姿はなかった。
その後、各フロアを見回ったけれど、特に怪しい人物もおらず、隠密調査は空振りに終わった。
夕方に仕事が終わり服を着替えた後、オバちゃん達もみんないなくなってからこっそりタブレットを取り出した。
預かり物だし、あのボロアパートに置きっぱなしにする気にはなれなかった。鍵のかかる更衣室の棚に置いておいた方がマシだと思ったし。
例のブログを覗いてみたが、残念ながら新しい記事は投稿されていなかった。
やっぱり狙いは金曜日かなあ、と思いながら仕舞おうとすると……そのタブレットが、急にパッと変な画面に変わり音が鳴りだした。
ん? ん? 何だこれ?
適当に画面に現れたボタンを押すと、プツッと切れる。
何だったんだ……と思っていたら、再び鳴り出した。
これ……まさか、電話? タブレットって、電話ができるの?
よく見ると、画面には『新川スマホ』と表記されている。どうやら新川透からの電話らしい。
だとすると、出ないとマズい。
悩んだ挙句、タブレットを縦にして肩に担ぎ、音が鳴る方を耳に当ててみた。
これ、10インチあって大きいから、重い……。
「もしもし?」
“莉子? どこにいる?”
何で呼び捨てやねん、と思ったけど、大きい声も出せないのでとりあえずスルーする。
「予備校の更衣室です。今から自転車で帰ります」
“あ、そっか、自転車か……”
向こうからチッという舌打ちのようなものが聞こえてきた。
「それよりこれ、電話がかかるんですか? 他の人からかかってきたらどうしたら……」
“大丈夫、その番号は俺しか知らないから”
「そうですか」
そう言えばガラケーの電話番号は聞かれなかった。最初からコレで連絡を取るつもりだったのか。
だったらちゃんと言っておいてよね。タブレットなんて初めて見たんだから、びっくりするよ。
ってか、これいつまで担いでいればいいの? 重いー!!
“もうすぐ上がるから、待っててくれないか?”
「何でですか? 今日はブログの更新もないし、特に報告することはないですよ」
“いいから”
「ちっともよくないです。……それとですね!」
溜まりかねて、私は叫ぶように声を荒げた。
「タブレット、重い! もう電話切ってもいいですか!?」
“は? 重……”
「だから、担いで耳に当ててると重いんです! 切りますよ!」
“……ぷはっ! ぶははははは――!!”
な、何だ!?
新川透の口から発せられたとは思えないような豪快な笑い声が聞こえてきて、私は思わず耳を離した。腕もいい加減限界がきていたので、プチっと電話を切る。
何なんだ、もう……。頼むから誰か、新川透のトリセツをください。
* * *
アパートに戻ってから再びタブレットを取り出す。ブログを確認すると、新しい記事が投稿されていた。
『信じられない! 新川センセーの大笑いをゲット!!』
というタイトルの記事には、確かにちょっと見ないぐらい大笑いしている新川透の写真が載っていた。
確かに、生徒向け聖人君子スマイルとも、前にちょっと見た意地悪そうな笑顔とも違う。
これは貴重だわね……。
ブログの主も、興奮気味にその目撃した時の様子を語っている。
『電話の相手、誰だろう!? 友達かな!?
まさか……恋人!?
そんなの嫌だ――!!』
いやいやお嬢さん、単なる奴隷みたいなもんです。心配めされるな。
それはそうと……これ、裏口の喫煙所付近かな。一度外に出て電話をかけたのか……。
あっ、ってことは!! 裏口には駐輪場があるから、自転車通学の子かも!
生徒が裏口に来るには、表玄関から外の道路をぐるっと回って来ないといけない。電車通学の子はまず立ち寄らない場所だ。職員は校舎の中の職員専用通路を通るから、すぐに出れるけどね。
と、いうことはだよ、建物の中から裏口に出る新川透を仮に目撃したとしても、生徒は表から大回りをしなければいけないから、1分以上はかかる。
会話時間を考えると、この写真を撮れる可能性は、限りなく低い。
ということは、最初から駐輪場にいてたまたま電話をかける新川透と遭遇したに違いない。
自転車通学の生徒は、確か予備校で一覧にして管理していたはず。違法駐輪の自転車と区別するためだ。
これでかなり絞り込めるかも!
「いえーい!」
バンザイしたところで、再びタブレットの画面が切り替わった。
勿論、皆さんご存知の――新川透ですよ。
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