哲学の落ちこぼれ組

中学12年生

第1話

 この哲学という授業は、みなさんに物事の原因をさかのぼる力や論理的に物事を考える力を養ってもらうために開講されました。そのため、この授業で扱い、またテストに出題される内容も、極論を言えば皆さんが真剣に考えれば一から導けるものばかりなのです。


 しかしこのメールを受け取った皆さんは、その教科で赤点を取ってしまった。このままでは、今回のテストの結果が大きく成績に反映されてしまいます。実は私としても、それは出来れば避けたいところなのです。ですので、こうして補習授業を特別に開講することにしました。


 たまたまか、あるいは必然かも分かりませんが、皆さんが今回の授業で点を取れなかった分野は、高い割合で共通しており、また確かに難解な部分ではあったため、こうした文面で皆さんのメールアドレスに直接、解説とポイントを記し、送っておくので、補習期間が始まるまでに予習のつもりで目を通しておいてください。


 まず一つ。客観という言葉の定義から始めましょうか。客観というのは、事実と理屈のみによって構成される視点です。言い換えれば、一切の偏見や事実誤認を含まない視点。推論の文脈で言えば、その前提及び過程に特定の生命体の価値判断を挿入しない視点とも言えます。


 確かに、世間では第三者の主観を客観と呼ぶ人が大勢いらっしゃいます。例えば、あなたが誰かと喧嘩をしたとき、その二人のどちらが悪いのかを第三者の、例えば先生等の周りの大人の意見を聞いて、かつそれを尊重しなさいと言われますものね。


 あるいは、自分の意見を客観的であると言いたいがために、自分と同じ意見をいう人(特に著名な第三者)を例として出してみたり、昔から自分と同じように考えている人がたくさんいたのだと声高に叫ぶ人もいらっしゃいます。


 しかし、それらの根拠はその人の主張を客観的なものであると裏付けるものではありません。なぜなら、客観とは誰の味方でもない、事実と論理によってのみ構築される視点なのですから。


 そして当然、その事実の扱いにも私たちは慎重にならなくてはなりません。例えば、自分や自分たちにのみ都合の良い事実のみを恣意的に選び取り、そのうえで推論を重ね、そしてその主張を客観と呼ぶことは残念ながらできません。  


 例えば、倫理を例にとってみましょう。この倫理という学問体系がどのように築かれてきたのかといえば、私たち人類の長期的な生存戦略として構築されて来ました。つまり我々人類にとって都合の良いように徳だの正義などという概念を捏造してきたのです。しかし、例えば我々に飼われている鶏たちにとって、私たちの長期的な生存は明らかに望ましくない。つまり、倫理がいう私たちにとっての正義は、鶏さんから見れば悪なのです。


 その意味で、例えばインターネット上で人を叩き、ヘイトを撒き散らかす人たちが度々陥る、じぶんたちに正義があるのだという直感は人類にとって普遍的な荷物と言えます。つまり、自分たちに都合の良いものを「正しい」と呼び「悪い人」を虐げる自分を正当化したがる心理的な欲求は極めて厄介で、低俗でそれでいて捨てられない荷物なのです。


 なぜなら、その「自分たち」という言葉が指し示す範囲と、都合がいいという言葉の時間的延長性の違いだけが、彼らインターネット上で人を苦しめる人たちと、聖人君子の唯一の違いですからね。


 ですから、真に客観という視点に立ちたいのであれば、あなたがたは価値判断を忌み嫌い、そして事実の取捨選択にも注意を払わなければならないのです。そうでないと、たやすく論点先取の虚偽に陥ってしまいます。つまり、論証を始める段階から、導きたい結論を引き出すために自分たちに都合の良い客観的事実だけを恣意的に選び取ってしまう。これも、間接的な論点先取といえましょう。


 次に、上記の内容を理解したうえで、「である論」と「べき論」の区別という内容に入っていきます。


 である論とは、物事の性質や状態を表す論理です。例えば、私がテストで赤点を取ったのは、私が勉強しなかったからだ、等です。


 一方でべき論とは、何者かの価値判断を挿入した、目標を掲げる論理です。例えば、テストで赤点を取った私は補習を受けるべきだ、等です。


 ピンときた方もいらっしゃるかもしれませんが、べき論には価値判断が挿入されているため、客観的な主張とは言えません。そして、である論からべき論は導出できません。これを、ヒュームの法則といいます。

 

 では、なぜである論からべき論を導くことができないのでしょうか。例えば、


 前提1「山田さんは暴力を振るわれ苦しんでいる」

 前提2「山田さんはその状況から逃げ出したいと思っている」

 したがって、

 結論「山田さんは何らかの手段を用いて暴力から逃れるべきである」

という一連の推論には、どういった飛躍が含まれているのと思いますか。


 怪しいのは、前提2です。これは、山田さん個人についてのみ言及していますね。ここに罠があります。客観というのは、事実と論理によってのみ構築される誰の味方でもない視点ですから、前提2に山田さん(抽象化して暴力の被害者)のみの価値判断を挿入するのは不当です。


 確かに山田さんが幸福を追求したがっているのは事実ですが、一方暴力を振るっている方も、彼女を殴ることで幸福を追求しているかもしれません。


 また極めて一般的に、人類に酷使される鶏や牛にとって、人類の幸福自体が望ましいものではないのかもしれません。


 つまり、特定の者の価値判断のみを前提に挿入したべき論は、その時点で客観から逸脱しています。そして、である論のみを根拠にとってそこからべき論を出発させることはできないのです。なぜなら、主観は常に誰かにとっての主観でしかないのですが、誰かしらの目的性を内包したべき論は、その主観を一部に限定することによってしか導出出来ないからです。


 ここまでが、初回講義の予習範囲です。もし、疑問点がありましたらこのメールの送信元メールアドレスに送ってください。


 私は、皆さんの偏差値を公開の補講で大幅に上げることが出来ると確信しております。ぜひ、意欲をもって取り組んでください。


 以上でこのメールを終わります。

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哲学の落ちこぼれ組 中学12年生 @juuninennsei

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