第16話 海神の十字架 2
水の中では動きが鈍い。陸と違った重さがある分、一秒の差が強大な力を持つ。
エミリアはセイレーンが向きを変えた途端に土を起こし、動きに合わせて杖を振るう。
セイレーンは動きを先読みするエミリアに触れることが出来ずにいた。
エミリアも攻撃こそすれど、水の利があるセイレーンに致命傷を与えられずにいた。
「どうして······人間が!」
「
エミリアは杖を海底に突き立て、土から無数の槍を生み出した。セイレーンの群れに狙いを定め、顕現した槍を一斉に放つ。
水の中を走る槍にセイレーンは散り散りに逃げた。一人逃げ遅れたセイレーンの腕を槍がかする。
血が滲み、水に溶け出す腕を、セイレーンは痛そうに押さえた。
エミリアは苦しそうに目を背けたが、次の瞬間には驚き、少し考えた。
意識を逸らしたその直後、喉に圧迫感を感じた。地面から離され、もがくエミリアの前に、殺意に満ちた眼差しで首を絞めるセイレーンがいた。
「たおやかな海よ 蒼き水面の光りさす城に──」
金切り声の歌声からそんな歌詞を聞き取れた。
エミリアは苦し紛れにその腕を掴むと、確信に満ちた目でセイレーンに問う。
「あなた方は─────」
***
ごつごつとした岩に囲まれた静寂な住処だ。海淵の洞穴は潮ごとイーラたちを迎え入れた。
光もなく、音もなく、飾りっけもない。好んで棲んでいるというよりは、隔離か追放されてここにいるという雰囲気だ。
リノアは鬼のような面持ちで槍を構えて進む。
イーラはフィニと目を合わせた。フィニも首を傾げた。
「────」
声が聞こえた。リノアが口に指を当てて先導する。イーラたちも、警戒しながら声を辿った。
「ああ、悲願が叶う──」
「これで私たちは──」
薄汚れ、腐ったドアの向こうからその声は聞こえた。隙間から見えたセイレーンの長らしき女が
リノアは歯ぎしりをしてドアを蹴破った。
「ちょっと、作戦が違う······」
「追い詰めたぞ! 人魚の宝を返せ!」
リノアは力いっぱい叫ぶと槍をセイレーンの長に向ける。取り巻きのセイレーンが応戦しようと構えると、長はそれを制止した。
そして、リノアの頬にそっと触れた。
「触るな!」
リノアがその手を払い飛ばすと、長は悲しそうに眉をひそめた。イーラはその表情で違和感に気づいた。
もし、今自分たちのやろうとしている事が間違っていたら。
もし、その仮説が正しいのだとしたら。
────取り返しのつかないことになるのでは?
リノアは槍でセイレーンを突き刺そうとする。イーラは槍を横から叩いて弾いた。
「どうして止めるんです! 宝を盗んだ悪党なのに!」
「ねぇ、まずは話を聞きましょうよ。全く通じないって感じじゃないし、なんだか私、聞かないといけない気がするの」
「野蛮なセイレーンにそんな必要が·········!」
「今の状況で一番野蛮なのはリノアさんよ」
イーラはリノアを落ち着かせると、セイレーンの長に向き直る。
胸に巣食った違和感を丁寧に掘り起こし、セイレーンの姿を隅々まで観察する。フィニは床に落ちた鱗を拾い、リノアに見せた。
イーラはセイレーンの長に、ゆっくりと尋ねた。
「アンタたちの目的は?」
すると、セイレーンの長はイーラに深く礼をした。
リノアもその人魚の挨拶にはっとした。
「私はアリア・カナン・エーテ・グレース。元は
「嘘だっ!!」
リノアは険しい顔で叫んだ。しかし、後ろから「真実ですわ」とエミリアが顔を出す。数多のセイレーンを連れて、アリアに向き合った。
フィニも鱗を持ってイーラの横に立つ。透き通った鱗は硬く、それでいてオーロラのように美しい光沢をもっていた。
「人魚の鱗の特徴と一致する。イーラ、この人たちは嘘を言ってない」
「フィニが言うなら間違いないわね」
「海中での傷も一瞬で治りました。人魚の回復力はどんな文献にもあるほど有名ですわ。
アリアはイーラたちに真実を語った。
哀れに思ったアリアが十字架を手にすると、セイレーンはゴブレットを振るい、アリアたちに魔法をかけた。
『醜い人魚をセイレーンに』
気がついた時にはセイレーンに変わり果て、代わりにセイレーンが人魚になっていた。
その話を聞くと、リノアはその場にへたり込んだ。ガランと槍を落とし、虚ろな目で床を見つめた。
「そんな······なら私は、セイレーンで、正当な持ち主が、憎きセイレーンたるお前達だと······?」
「混乱するのも仕方ありません。事が起きたのは数百年も前。あなたが産まれる百数十年も前なのだから」
イーラは一人、人魚の寿命の長さに驚いていた。
フィニもエミリアもそれほど驚いていない。イーラは黙って話を聞いた。
「大方そう教えられたのでしょう。リノアはセイレーンにとって大事な存在。魔力を持たない彼女たちにはリノアは必要不可欠だった」
「どうして! どうしてそれを知っている! 私は敵なのに······」
「それは────」
口ごもるアリアに代わって、イーラが代弁した。
「お母さんなんでしょ。アリアさんが、リノアさんの」
リノアに手を弾かれた時の表情。子に拒絶された親と同じ顔をしていた。アリアはぎゅっと目を瞑り、首を縦に振った。
リノアはどんな顔をすればいいのか分からなかった。笑っているのか、怒っているのかも分からないでアリアを見つめていた。
「セイレーンは良くも悪くも、
アリアは苦しそうに胸を押さえ、ポロポロと涙を零した。
胸が張り裂けそうな思いを、エミリアは深く共感する。アリアはもう一度、リノアの頬に触れた。
「ああ、こんなに大きくなって······。私の大事な娘。私のリノア。この手で抱きしめられるなんて、夢にも思いませんでした」
アリアはリノアを強く抱きしめた。
混乱していたリノアも、ボロボロと涙を流し、アリアにしがみつくように腕を回した。
周りでもらい泣きするセイレーンがリノアを優しく撫でた。
そんな中、ふつふつと怒りに燃えるイーラが入口を見つめていた。フィニはイーラの気迫に怯え、オドオドと顔を覗く。
「·········この私を、騙したのね」
エミリアもイーラの表情に後ずさった。
そして、アリアたちに声をかけた。
「悲劇を終わらせましょう。七宝が手に入った今、
アリアは十字架を胸に抱き、立ち上がった。
リノアも、落とした槍を拾い上げた。
***
激しく抵抗されるかと思ったが、兵隊は一人もいないし、それどころか城内に人の気配さえない。
拍子抜けだと思っていると、アリアは真っ直ぐ王座を目指す。
それに続いてセイレーンたちも、堂々とアリアの後ろをついていく。
イーラたちは慌てて一団を追いかけた。
王座の間、扉を豪快に開け放つとアリアは声を張り上げた。
「出て来なさい! 我が城を占拠する不届き者よ! 南アリアイナ海を統べる者としてあなた方に罰を与えます!」
王座の裏のカーテンからあの女王が現れた。女王はアリアたちを見ると、蔑む目を向けた。
「なんと卑しき
「私から全てを奪っておきながら! まだそのようなことを
「正体を現したな! 汚れた種族め!」
女王が指を鳴らすと、武装した兵隊がカーテンの裏から飛び出した。圧倒的な兵数にイーラたちは完全に囲まれた。
アリアはじりじりと距離を詰めてくる兵隊に、
「人魚の魔力に共鳴せよ! 我が祈りを聞き届け給え!」
十字架はそれに反応するように水を溢れさせると、ムチのようにしなって兵隊を飲み込んでいく。
それを皮切りに、二つの種族は激しくぶつかり合った。
エミリアは杖で兵をなぎ倒し、フィニは声にならない悲鳴をあげてイーラに隠れた。
イーラは戦いに巻き込まれないように隅に隠れて様子を窺う。
「ねぇ、私魔法に詳しくないんだけど、ゴブレット奪ったら魔法が解けたりしない?」
「いや、魔法がかかってるなら術者が解くか、魔法媒介を壊すかしないと解けないと思う······ひゃあっ!」
「当たんないわよ。でもそうなのね。魔法媒介······ゴブレットを壊せればいいのかしら」
考えていると、女王が王座で高みの見物をしているのが見えた。その手にはゴブレットが握られている。
女王はゴブレットを傾けると、中の水を無数の槍に変え、雨のように降らせた。その槍に貫かれ、味方も敵も倒れていく。
アリアの腕を槍がかする。リノアがそれに気を逸らし、敵に足を刺された。
手から滑り落ちた十字架が音を立てる。リノアが十字架に手を伸ばした。しかし敵に狙われて、あと一歩のところで届かない。
アリアも敵に襲われて十字架から遠ざかった。
「無様だな! アリア・カナン・エーテ・グレース! そんな弱さでどうして国が守れるんだ! 七宝に頼らなければ何も出来ないひ弱な種族は、このセイレーンさまには勝てないんだ!」
誰かが十字架を拾った。
槍が飛び交う王座の間を堂々と歩く。
階段の下まで歩くと、聞こえるように舌打ちをした。
「最低で最悪の詐欺種族が、偉っそうな口聞いてんじゃないわよ!」
エミリアは驚いて思わず叫んだ。フィニがあわあわと手をくわえる。リノアも戦う手を止めた。
イーラの頭は女王に一発いれることでいっぱいだった。
リノアを騙したこと、自分をまきこんだこと、なによりも怪我人を増やしたことに憤っていた。
「これはこれはマシェリーの娘。お前がマシェリーと同じ魔導師だったならきっと違う未来が訪れていただろうな」
キリキリと、頭の中で小さな音が聞こえる。
女王はニタニタと不気味な笑みを浮かべ、人魚としての姿を保てずにいた。髪が黒く染っていく。その目は蛇のようになり、艶やかな肌には鱗が生える。
イーラは苛立ちを抑えて女王を見つめていた。
「マシェリーは一度地上に出た時に会ったんだ。凄い女だったよ。私が来るのを知っていたかのように待ち構えて『議会』の牢に入れたんだ。命からがら逃げ出せた時は、二度と会いたくないと思ったぞ」
「あっそ。もっかい捕まえてあげるわよ」
「お前に何が出来る! マシェリーと違って魔力さえ持たないような底辺の人間が! 同じだったらどうしようかと思ったが、存外大したことの無いガキだったよ!」
イーラの堪忍袋の緒が切れる。
「うるっさいわね! 私はアンタを一発殴るためにここに立ってんの! さっさと王座から降りなさいよこの外道がぁ!」
イーラの怒りに反応してか、
『汝、我ヲ振ルウ者ヨ。祈リヲ捧ゲ、祝詞ヲ謳エ───』
イーラは無意識に十字架を掲げた。そして、怒りに任せ、女王を睨みつけて叫んだ。
「海に身を捧げし龍神よ 我が祈りに力を与え給え
全てを無に帰す怒りの叫び! この世に大いなる激流を!」
エミリアはイーラから目が離せなかった。
「────どうして」
零した一言は、イーラの怒りにかき消される。
「唸れ!『
***
イーラは何も覚えていなかった。
気がつくと王座は水浸しで、女王はセイレーンに変わっていた。傍らのゴブレットは砕け散り、
「これが海図です。大事にしてくださいね」
アリアから受け取った海図を抱え、礼をしてその場を去る。
その去り際、イーラはリノアに呼び止められた。
「これをあなたに」
リノアから受け取ったのは、貝殻のオルゴールだった。
「これしかお礼することが出来ません。あなた方に助けていただいたおかげでセイレーンを退け、城を奪還出来たというのに······」
「お礼なんて要らないわ。私たちだって、アンタの仲間たちを傷つけるためにあの海淵に向かったのよ」
イーラが素っ気なく言うと、リノアは申し訳なさそうに目を伏せた。
アリアはリノアの肩を抱き、無言で励ました。そして祈るように手を組み、イーラたちの出航を祝福する。
「一つお聞きしたいのです。どうしてあなた方は海の中でも息が出来たのですか? 人間は海で呼吸は出来ないはず」
アリアが不意に声をかけた。
エミリアとフィニも不思議そうにイーラを見つめた。
イーラは「事前に説明したでしょ」と二人を睨むと、アリアに向き直り、海藻を見せた。
「ネマルシア藻よ。魔法薬に使うこの海藻を食べると、陸に戻るまでの間だけ水中でも呼吸が出来るわ」
ただし、酷い吐き気が伴う。それを薬で負担を減らし、水中での活動を可能にした。
アリアは納得すると、船を海上まで送ってくれた。
泡に包まれ、美しい笛の音に送り出される船。
イーラたちは綺麗な海を楽しんだ。時折、エミリアは悩ましげにイーラを見つめては、ぎゅっと杖を抱いたのだった。
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