6年前の糸切りばさみ

 彼と出会った時、私はまだ青年と呼ばれていた。彼もまた青年であったが、顔はそれを通り越して少年と言えるほど幼かった。

 少しウェーブのかかった前髪に、すらりと伸びた背丈に相応しい、黒繭のような髪。歩くたび黒い糸が靡き、風がない廊下に空気が流れた。

 かつ、かつ。やがて半長靴の重苦しい靴音が私の前で止まる。私が平均よりも高いからか、その青年が基準ぎりぎりの高さだからか、彼は空でも見るようにこちらを一瞥する。


「中尉殿、失礼いたします」


 空を写し取ったような目が細められる。その瞳と少年の面影が残ったような声に既視感を覚えたが、それが何であるかわかる前に彼は踵を返した。

 私は答礼を返すことすら忘れ、後ろを振り返った。遠目で見づらくはあったが、彼の肩には、金縁のない赤四角の中に星二つが輝いていた。そしてふと、気がついた。

 あの頃より一オクターブほど下がった声。上京する機関車の煙があの空にかかってしまったものの、その瞳から私は思い出したのだ。


「同郷の筑前ではないか」


 中学校に入るまで同じ机を並べた、筑前駿東ではないかと。


「筑前! 久しいな。まさか同じ軍人になっていたとは」


 とつとつと靴を鳴らし筑前へと駆け寄る。すると筑前は、くるりと軍服の裾を翻し、こちらを振り返った。


「息災であったか? 話したいことが山ほどあるんだ」


 故郷から遠く離れ、景色もだいぶ違うところに来た私だからか、久しく感じられなかった郷愁の念が溢れるように広がった。そして、軍人としての、旧友としての礼として、先程の答礼も含めて敬礼をした。

 しかし、再会に喜ぶ私とは対照的に、筑前は顔を曇らせていた。黒いまつげは瞳を覆うように下を向き、口は真一文字に結ばれていた。


「──殿」


 何かの名前、おそらく私の名前を、彼はか細く呟いた。それが下の名前であったか、上の苗字であったかは私にはわからない。だがその声が湿っていたことははっきりとわかった。

 やがて何かを割り切ったような顔で、彼はこちらを見る。目や口は笑うみたいに曲げられているが、どこかが歪んでいる不安定な顔で。


「私は、国家に尽くす身ではあっても軍人では無いのです、中尉殿。今日のところは、失礼いたします」


 体を九十度に折り曲げて礼をし、彼は足早に去っていった。綺麗に整った、軍人らしい一礼であった。


「...そうか」


 ああ、そうか。私は納得した。

 軍人にしては細身の体、幼少期彼は体術ではなく勉学に優れていたことから、私はようやく気がついた。

 彼は確かに軍人ではない。軍属と呼ばれる、文官であったのだ。

 たったそれだけ、たった一文字が違うだけだ。なのに何故、こんなに差は開いてしまったのだろう。そう思う私は、稀有な存在なのだろうか。


「女々しいなあ。我ながら」


 先ほどとは打って変わって、物悲しさが滲み出るように広がってゆく。

 肩の上で輝く星二つと金枠が眩しすぎて、思わず手で覆い隠した。


 これが、私と彼にとって二回目の出会いだった。


 ──────────────────


 三度目の出会いは、さほど遠くはなかった。

 眼鏡橋と呼ばれる橋を離れた先の河川敷にて、偶然通りすがった私と彼は出会った。


 男、そして女子の長さすら超えた長髪を全ておろし、彼は風のなすがままに佇んでいた。月明かりがおぼろげに彼を照らしているものだから、遠目でもその姿は目立っていた。

 それは時間帯もあってだろうか。私の部下や後輩は寮で眠っているはずの時間に、人っ子一人歩いているはずがないからだ。


「......筑前?」


 正直言うと、彼に話しかけるまで私は変に緊張していた。また以前のように壁を感じる、当たり障りないやりとりになるのではと危惧していたからだ。


「...ああ、中尉殿」


 遅いですね、もう少し早くに来るのかと思っていましたが。


 ふっ、と息を吹くように彼は笑う。

 私は勘違いしていたのだ。その人を見透かすような態度と笑い方はまだまだ変わっちゃいないと言うことを。


 昔から筑前はそんな奴だった。人が考えていることを先回りし、時にはそれを悪用して嘘をつくのだ。

 昔いじめっ子に彼がどつかれた時のこと。彼は苦渋の表情をこれでもかと言うほど浮かべて泣けば、それが大人たちにも広まった。その後、私に「そこまで痛くはなかったんだがなあ」とけろっとした表情を見せていた。

 まさに計算高い男と言わざるおえない彼に、私はまたも負かされてしまったと言うわけだ。


「...また君にやられたのか?」


「ええ、そうなりますね。なにぶんあなた様は表情が豊かですゆえ」


 うやうやしく胸に手を当て一礼する様はまさに「慇懃無礼」と呼ぶべき姿であった。だが、この姿勢に何度か救われたことがある身としては何も言えないのだ。学徒であったころ、上級生に絡まれることもしばしばあった私に、彼は勇敢にも味方してくれたのである。よって彼の本性を知る私は「またいつものことか」と懐かしむ気持ちさえ湧いていた。

 事実、彼は少しも変わってはいなかった。白い首筋にかかる丈の長い黒カーテンも、空色の瞳を縁取る睫毛も、アルトの音程で響く声も。元は変わっておらず、硝煙と紫煙の香りがそう見せるだけなのだ。


「...やはり俺は、銃剣を握る方が性にあっているのだろうな」


 これまで、相手の裏をかく戦術や敵を惑わせる陽動なんて嫌という程学んできた。しかし人を前にすると、お人好したる所以が相手にばれてしまうらしい。だから軍の門をくぐった時からは人を疑い、出し抜くように癖付けていったのである。ある種疑心暗鬼であることと変わりないそれは、今前にいる筑前が現れてからべろんと剥がれ「根は変わることがない」ということを私に知らしめることとなった。

 昔、夜更かしというものに憧れていた時だ。何人かの学友と、共に寝ている両親の目を盗み、近所の警備上手な犬の目をかいくぐり、今いるような河川敷へ来たことを覚えている。故郷の澄んだ星空を未来図に見立て、将来の夢を身の程も知らずに語り合ったものだ。

 私はそれを思い出し、早速彼に話しかける。


「筑前、覚えているか? こんな風に星を見ながら、時間を忘れて話し込んだ夜を」


「......ええ。昨日のように」


「なら今日も、また夜更かしをしようじゃないか」


 彼はぱっとこちらを向き、薄青の瞳を輝かせる。同時に月にかかっていた雲が抜け、朧げだったものがきらめきを増した。月明かりの下、彼がふっと息を零れさすように笑った。

 すると、どうやら風が吹いたみたいに空から白い糸が吹き飛ぶ。月は今までにないほど輝き、天井のない空に大きな照明がついたようだった。


「ええ。あの塔に月がかかるまで、お付き合いしますよ」


 夜がやっと再開した。それはきっと、私たちにとって4回目の出会いに相応しいものであったに違いない。


 ──────────────────


 ちょうど10回目の出会いの時。彼はふと、こんなことを言い出した。


「そろそろ、髪を切り落とそうと思うのです」


 通常、別れの前兆というものは嫌でも感じ取れる。相手が少し素っ気なく感じる、いつもは饒舌な相手が今日ばかりは静かになっている、などだろうか。しかし彼は違った。嵐の前の静けさなどあってないようなもので、突然回りくどい台詞で別れを示してきたのである。

 髪を切り落とす。それは彼なりに、長く続いてきた過去との決別を意味するのだろう。それを理解した私は何も言えなかった。


「欧州へ行くのです」


 すました横顔がいつものように言葉を紡ぐ。友人にとってみれば出世という大変喜ばしい報告であるだけに、私は努めて明るい声色で返事した。


「そうか」


 しかし、いつもなら絹糸のように耳に入る言葉たちが今回ばかりは針金のように感じる。10か月の内、両手で数え切れるほどの回数しか会っていなかったとしても私は彼との出会いをいつも心待ちにしていた。要は、昔からの大切な友人がまた離れてしまうのはなかなか心にくるものがあった、ということだろう。

 私も彼に合わせいつも通り振る舞うようには心がけた。しかし出るのは最小限の言葉ばかり。


「いつなんだ?」


「今月の末です。どうやら実家の方には顔を出せそうにありませんね」


「...そうか。......よかったじゃないか。君の実家には俺が報告に行ってやるよ」


 わざと彼の瞳から視点をずらし、私はぼそりと呟いた。半ば独り言に近いそれを聞いて、彼は何故か振り向く。私も驚いて彼の顔を凝視すると、彼の瞳には希望なんて入ってなさそうだった。私はてっきり、輝かしい希望が瞬きするたび彼の目の中でころんころんと跳ねているのだと思っていた。しかし改めて見た今、私は悟った。彼の瞳は瞬きするたび、瞼を不安げに閉じては開けているのだと。


「......どうしたんだ」


「今更、泣きませんよ。かっこつかないですし。結局、両手で数えられるくらいに収まってしまったことが、残念で残念でたまらないのです」


 彼は天へ向けて両手をかざした。何かを掴むというよりかは、何かを手放すような動作で。空っぽになった手の受け皿を彼は悲しそうに見つめる。そして、彼はぽつりと呟いた。


「糸切りばさみを持ってきているんです。何度、切ろうとしてもなかなか踏ん切りがつかなくて」


「だから、貴方に切って欲しいんです。長く伸びすぎた、この黒糸を」


 ふわり。一纏めにされた彼の糸が舞う。それには彼の全てが詰まっているはずなのに、私には今にも千切れそうなほど細く長いものに見えていた。

 筑前は震える手で鋏を差し出す。高価そうなその鋏は年が経っても傷一つ入っていない。「これでも新品なんですよ」と髪の伸びきった彼が言う通りに。


「さあ、一思いに切ってくださいな」


 持ち手の方を私に突き出し、彼は催促する。その姿が可哀想に映り、私はぶれる手でしっかりと受け取った。鉄の持ち手は全く冷たさを感じさせず、生暖かさが刃の方からグラデーションのように広がっていた。


「...切るぞ」


 金属同士が擦れ合う音がする。60度に広げた刃をゆっくりと髪に当てる。髪に神経など通っているはずがないのに、筑前は髪を持ち上げられるとびくり、と肩を震わせた。背筋に沿って伸びていた髪の感触がなくなる。それは彼にとって神経をまるまる一本抜かれるようなものだろうと容易に想像できた。

 鋏の柄をそっと黒束に当てる。一度手を動かせばもう元には戻れないだろう。そう考えると無意識に喉が鳴った。口の中の酸素がなくなったとしても、張り詰めた空気の中、息なんて吸えるはずがなかった。

 だから私は、大きく息を吐き出した。そして一思いに髪を裁断する。じゃき、と繊維の一つひとつが切れてゆく音がする。その音が一回一回耳に刻まれていくようで、耳を塞ぎたい気分に襲われる。10本、20本、100本、500本と糸がほつれ、途切れてゆく。

 そしてとうとう、しゃき、と音を立てて髪は切り落とされた。自分は髪を切った時の爽やかな風の通りが好きだった。髪を揃えてすっきり、だなんて言うが、きっと彼にとってみれば空しい風に他ならないのだろうと悲しくなった。

 切れた、と声をかけるが、それに変動はない。彼はじっと、ほつれた髪が舞い散るのをみているのみだった。はらり、はらりと空気に流れる糸を目で追うのだ。


「...ありがとう、ございました」


 ずしりとした、黒繭のような髪束を手渡せば、彼はやっと声をあげる。


「いや、いいんだ」


「......きっと、会いに来ますから。それまで、この鋏は持っていてください」


 彼は鋏を返そうとした私の手を押し返し、そっと手を握った。


「女のような男、そう呼ばれていました。そんな男の事を、どうかたまには思い出してくださいね、中尉殿」


「まさか、筑前、まだそう呼ぶやつが...」


「いえ、いいのです。その通りだったので。こんな奴と質実剛健の中尉殿が親しくしていたらあれでしょうに」


 彼は声を遮って言う。思えば彼がつく嘘は、全て誰かを気遣ってのものだったのだろうと、私は今更気がついたのだ。

 彼は髪を大事そうに仕舞うと、すぐに踵を返す。そして一度振り返り、ぽかんとした様子の私に笑いかけた。


「ありがとう! また会おう、中尉殿」


 笑う、という表現とは名ばかりの、悲しさを隠し切れていない笑みで彼は去っていった。


「笑いきれてないじゃないか、あいつ」


 寒空の下。私の手に残るのは、中途半端な温度をした糸切りばさみのみだった。


 ──────────────────


 一枚の入場券と何度も読み返してくしゃくしゃになった手紙を握りしめる。とある日の夜、凍えそうな程の寒色が広がる夜空の下私は立っていた。ホームには故郷への列車を待つ若者や、自分のようにまだ見えぬ待ち人を思い浮かべる女性もいる。彼女と私を隔てるものといえば、年齢の差だろうかと自嘲する。青年と呼ばれていた頃からは随分と離れてしまったなあ、と呑気に考えていたが、やがて突き抜けるようなブレーキ音が聞こえてくる。


「そろそろか」


 空気が抜けるような音とともに、ドアがゆっくりと開く。指定された号車の前から彼を待つが、待たずとも彼は満を持して降りてきた。


「やあ、また会ったね。中尉殿、いえ、少佐殿」


「いや、待っていないさ。我が旧友よ」


 6年前の糸切りばさみを鞄から取り出し、私は彼、筑前駿東へと歩み寄った。


「6年前の糸切りばさみ」






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