第18話 対峙
屋上のドアを引いて現れた僕の姿を認めると、貯水タンクの上から十時さんは不思議そうな顔をのぞかせた。
「……うん? 後輩男子、どうしたの?」
「いろりさんに話があってきました」
「だけど、君がさっきここに来てから今まで、後輩女子はここに来てないわ」
「はい。でもずっとここにいたでしょう?」
「……それが分かってるなら、どうしてさっき言わなかったのよ」
「……どこにもいないのなら、よく探してないここしかないと、安直な推測をしただけです」
「ふうん……。まあ、どうして分かったかは別にいいわ。大した問題じゃないし」
いろりさんは本当に興味なさそうに眉を下げた。
そして十時さんは後ろを向くと、自分の後ろに向かって「おおい」呼びかけた。「後輩君はちゃんと君のことを探し出してくれたよ」。いろりさんはずっと、貯水タンク上の死角になっている部分に隠れていたらしかった。
…………。
やや間があって。
見慣れた顔が、不安げな表情で。
躊躇いがちに顔をのぞかせた。
「……二幹くん」
「いろりさん」
僕はいろりさんの目をじっと見つめた。彼女はバツが悪そうに表情を乱すけれど、僕は視線を逸らすことを許さないとばかりにじいっと見つめ続けた。
「そんじゃま、わたしの役割は終わり。あとは若いもの同士でよろしくやってくださいな」
十時さんは楽しそうな声色でそう言うと、おもむろに立ち上がって貯水タンクの上から飛び降りた。苔の上だというのに危なげなく着地、そして擦れ違い様に「頑張れよ」と耳打ちして屋上を後にした。
やっぱり最後の最後までよく分からないというか、掴み所のないというか。
独自の価値観で動いて独自の法則で物事を考えている――端的に言えば変人。
しかし行動はずれていても悪に逸れることはなく、つまり良い人だった。
「二幹くん」
十時さんが居ないだけで、屋上はあまりにも静かだった。十時さんがお喋りだと言いたいのではない。この問題に無関係な人物がいるというシチュエーションが――そしてそれが掴み所のない十時さんだったということが、僕たちの気持ちのシリアスを削いでいたのだ。
そんな彼女がこの場所に居なくなった今、僕たちは覚悟しなくてはならなくなった。これに決着をつける、その覚悟。
それによって僕たちの意識は俗世から切り離され、僕たちの世界はこの屋上のみに限定される。そこには僕といろりさんしかいない。
ゲームでBGMが止まると違和感を感じるように。
僕たちしかいない世界は、そのほとんどがいつもと違う。
周りが静かで、自分がうるさい。
嫌に、意識が研ぎ澄まされる――鋭利な程に。
「そっち、昇っていい?」
声が変に上ずった。が、僕の口から発した音はちゃんと言葉として伝わっていたようで、いろりさんは小さく頷いた。あるいはそれは僕の見間違い――錯覚だったのかもしれなかったけれど、それでも僕は梯子に手をかけた。
梯子を上ると、いろりさんは貯水タンクの奥に座っていた。足を投げ出して、フェンスの向こうの遠くの景色を、ぼんやりと瞳に映していた。
僕はその隣に座る。いろりさんは表情を変える。すがるようにして僕を見つめた。
顔が、近い。軽く腰を浮かせて、身体も近づけてくる。
肩と肩が触れるほど、このまま喋ればと息がかかるほどの距離。――が、不思議と何も感じなかった。
ドキドキしないとかそういうことじゃあなくて――もっと根本的な、何と言えばいいのか……存在感、のようなものが感じられないのだ。
まるで半透明になっているかのような――この目で見えているはずなのに気が付けば式から外れてしまうような、そんな存在の希薄さ。
「ねえ、二幹くん」
何度目か、いろりさんが僕の名前を呼ぶ。いろりさんは確かに僕の目を見つめていたけれど、やはり何も感じない。
「私は、やっぱり死ぬべきなのです」
その言葉には、今までの彼女の言葉から窺えた自殺へのためらいが感じられなかった。自分は死ぬべき存在であると、彼女の中では明確な答えになってしまったらしかった。
人間失格の著者は太宰治。長方形の面積は縦×横。塩は塩化ナトリウム。物部いろりは死ぬべきである。世界の常識で共通認識。そういうことになってしまったらしかった。
「……どうして?」一応訊ねてみる。聞かずとも、その答えは分かっていたけれど。
「私が生きているとね、いろんな人にメーワクを掛けてしまうのです」
やはり、案の定。
「花梨にも冬雪にも、お母さんにもお姉ちゃんにも、十時先輩にも諏訪部先生にも、――――そして、私が今一番メーワクを掛けたくない二幹くんにも」
「…………僕、か」
「そう、二幹くん。……ハッキリ言うけどさ、今の私にとって、二幹くんが一番大事なの」
……そう言ういろりさんの顔は、いつの間にかという一瞬で、茜差す夕空よりもよっぽど赤く染まっていた。
「もっと言うよ。私は二幹くんとこれからも一緒に居たい。ずっと一緒に居たい」
これは、告白みたいなものだろう。経験したことがないし自惚れないように響きを付けている僕でも、流石に分かる。いろりさんからの不釣り合いな好意、それから目を背け続けたぼくでも認めざるを得ないものだった。
僕はたっぷりと考えて、それに対する返答を頭の中で練り上げる。
この告白みたいなもの対する返答を――この告白に似た何かに対する答えを。
「ねえ、いろりさん」
名前を呼んだ僕に対して期待と不安の混ざった顔を見せる。恥ずかしさに顔を真っ赤に染め上げながら、逃げ出したいのを必死に堪えながら、僕の顔を一点に見つめる。
……その顔は、やめて欲しかった。
僕の心が痛む。それに答えられないという罪悪感がのしかかる。
――これが善人か。甘い、相手の求めたことを言わず、相手の為を思ったことを言うこと。
「それは、違うよ」
僕はしっかりといろりさんを見返していった。いろりさんの目の奥にいる本当のいろりさんに向かって、その言葉を放った。
「…………。えっ」やや遅れて、いろりさんが驚きに声を漏らす。
イエスでもノーでもない僕の答えに、いろりさんの思考が一瞬止まった。
僕はその隙を見逃さずに言葉を続ける。
「いろりさんは僕のことが好きかもしれないけれど――それはいろりさんが自分で思っているようなロマンチックなものじゃなくてさ、もっと打算的というか、妥協的というか、――もっと端的に言うとさ、いろりさんは僕に依存したいんじゃないの?」
「…………そんなこと、ない」
いろりさんは言葉に詰まる。
僕はあくまで冷静に、冷徹に、彼女の言葉を鼓膜から神経を伝わせて脳に届ける。
「そんなこと、ないよ」
今度はハッキリと、いろりさんは言った。
「私は二幹くんのことが好き。それはハッキリしてます。いっぱい、助けられたから」
「……間違いないの?」
「間違いないです」
「いろりさんの告白をないがしろにするようなこと言ったのに?」
「それでも」
「そっか」
「はい」
それは嘘だ。だがしかし、本当ことでもあった。
いろりさんは僕のことが好きかもしれないけれど、僕しか好きに慣れない訳じゃないのだ。いろりさんは自分の殻に閉じこもっていて、それは死という絶望の殻で、でも僕がたまたま事故でほんの偶然でその殻の中に入ってしまって――だからいろりさんは僕しか見ていないのだ。
いろりさんは僕しかいないと思っている。でもそれは間違っている。
僕を選んだのではなくて、僕しかいないと思い込んでいる。
いろりさんはその殻を壊せば、いろんな可能性があるのだ。
それを僕でせき止めることは、僕はしたくない。
だけれどいろりさんはそれを望んでいた。そしてそれが、とりあえずは僕にとって一番楽な選択だった。
「ねえ、二幹くん」
その響きも、もうすっかりと聞きなれてしまった。
「……私のこと、嫌い?」
嫌いな訳がない。嫌いならずっと一緒に居ない。嫌いならもっと突き放している。
というか、僕はいろりさんのことを、……愛しているとは言わないまでも、好きだった、それなりに。これが恋愛的なものか友情的なものかは正直はっきりしない――意識的に考えないようにはしていた。だけれど、友情と断定できない程度には恋愛的に見ていた。
「嫌いじゃないよ」
でも、僕はそう答える。
ここで首を振るのは違う。違うのだ。
それは絶対に間違っている。そういう、なんだろう、確信がある。
「本当に?」
「それは本当」
「……じゃあ、好き? ――って聞くのは、ちょっとずるいよね、あはははは、は……」
「…………」
「二幹くん」
「うん」
「やっぱりハッキリ、こう聞かないとだめだよね。逃げ道が出来ちゃうから。私も、二幹くんも」
「…………」
「私と付き合ってくれますか?」
これは、後回しにはできないだろう。
こればっかは、後回しにしてはいけないだろう。
正直言えば、逃げ出したかった。
逃げて、全部知らないことにして、逃げ出しかたかった。
逃げ出しておけばよかった。
いろりさんと出会った時、逃げ出しておけばよかった。
僕は今までずっとそうだったのだ。逃げ出していたのだ。
それが人に甘くするということ。人に甘くすれば、甘やかせば、責任は負わなくて済む。相手の人生の進路を示して、その責任を負うことはなくなる。断る罪悪感も感じない。
相手の言うことを受け入れることが一番楽だったのだ。
猫宮さんは僕のことをお人よしといったけれど、それはやっぱり間違っていたと再認識。僕はやっぱり、自分に甘くするために人に甘くしていただけだ。
覚悟、しなくてはならない。
どうあがいても、どの選択をとっても、ここから先は、覚悟が必要だ。
だけれど――だけれど。
僕はまだ決めかねていた。
つまり、いろりさんを救うか、それとも甘くするのか。
どうすればいいのか、この段階に来てもまだ決めあぐねていた。
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