第15話 今度はホントの天体観測
眠たい目を擦りながら登校した僕の前を、フユさんとカリンさんと一緒にいろりさんが通りかかった。きっと自販機にジュースを買いに来たのだろう。
「……あっ、二幹くん」いろりさんは驚いたように僕の顔を見て、それから優しげに微笑んだ。「おはよう」
「……うん、お、おはよう」
僕も驚きながら挨拶を返す。というか僕の方が驚いているはずだった。いろりさんが部活以外で声を掛けてきたのは初めてだったからだ。
隠していた訳ではない。隠すような関係でもない。部活が一緒なだけで、僕といろりさんは友達未満なのだから。そもそもクラスメイトに挨拶をすることはいたって普通のことだろう。僕はしないけれど。
「……おはよう」
小さな声でそう言ったのはフユさんとカリンさん。いろりさんと親しそうにする僕に怪訝な目を向けつつ、場の流れで挨拶をする。僕はそれに対してまたおはようと返しつつ、その場から逃げるように教室に向かった。
いろりさんはその場で、僕の背中に手を振っていた。
それから昼休みまでの一日中、どうにもいろりさんは落ち着きがないようだった。妙にそわそわしているというか、こちらをチラチラ見て目が合うと微笑んできた。
その理由が分からない程僕は間抜けではないけれど、そんなに天体観測が楽しみなのかと疑問ではあった。
「どんなに準備が万端でも、時間ばっかりはどうしようもないわ」
部室でも同じ調子だったいろりさんに対して、十時さんはソファに寝転びながら呆れたように言った。
「間が持たないようなら一度帰ってもいいのよ? というかわたしはそうすると思ってた。暗くなってきた頃にもう一度ここに来てくれれば……」
「いや、大丈夫です!」
ボロ机の一つを持ってきて、そこにノートを広げていたいろりさんは元気よくそう答えた。だけれどいろりさんの握ったシャーペンは、さっきからノートに全く文字を記していないことを僕は知っていた。
「ならいいんだけど……」
十時さんは呟いて、僕の顔を見て苦笑した。僕も苦笑を返した。
*
六時頃だろうか。諏訪部先生が部室にやってきて、ソファに横になってすやすや寝息を立てていたいろりさんを無理やり起こすと、その隣にどかっと腰を下ろした。そして挨拶をして、各々揃って何をするでもなく、ただそれぞれ時間を潰していた。
「よし、そろそろ屋上行くぞ」
下校時刻を知らせる校内放送が終わったころ、諏訪部先生のその言葉に一番に反応したのは言うまでもない。「了解ですっ!」。その喰いつきように先生は、「お、おう……」と困ったように曖昧な返事を返していた。
僕と十時さんは「はあい」とやや遅れてそれに続いた。
屋上は、まあ、うん、綺麗だった。「綺麗ではない」と言えば嘘になる。だけれどそれなりだったと僕が感じてしまったのもしょうがないことだとは思う。
この街が都会かどうか置いておくとして、でも夜でも明るい街なのは確実だ。その街で果たして美しい星空が見れるのかどうかという疑念は最初からあった。そしてその通りだった、というだけのこと。
「わあっ……」
屋上にではいろりさんは、そのまま誘われるようにふらふらと、顔を空へと向けたまま屋上の中心へと歩き出した。
諏訪部先生、僕、十時さんの順番でいろりさんに続く。足を苔にとられないように慎重に、だけれど視線は星空へ向けて、ゆっくり歩く。
ごみごみとしていて、ギラギラと無意味に眠らない街。僕たちが立っている場所は苔むしたコンクリートの上。そこで見る夜景は、まあ、想像の範疇のもの。
だけれど何故だか僕は、「がっかり」とは、決して思わなかった。つまらないとは、感じなかった。
「シート引くぞ、シート」
諏訪部先生が折りたたんだブルーシートを持ちながら、僕に声を掛けた。どうやら事前に、この屋上へブルーシートを持ってきていたらしい。
僕は先生と一緒にシートを広げると、「一番乗り」と手伝いもしなかった十時さんがその中心に寝転がった。
「ほら、いろりも座れよ」
先生がいろりさんの名前を呼ぶと、いろりさんはそこでようやっと僕たちがシートを広げていたことに気付いたらしかった。靴を脱いで遠慮がちに端に座った。僕は一番最後に、いろりさんの隣にそこに座った。
いろりさんはその間も今も、ずっと口をぽかんと開けたまま、空を眺めていた。分からなかった。もちろん綺麗ではある。でもやはりそれだけで、少なくともずっと眺めているような魅力があるようなものとは思えなかった。
まだ、以前いろりさんと一緒に見た動画の方が見てられると思った。あれは様々な夜景が映し出されていた。だけれど今僕たちの前に広がっているのは、そのどれにも劣る景色、それが一枚だけ。
「お菓子持ってきたけど、食べる人?」
「逆に食べない人なんているのか?」
十時さんがお菓子をシートの中心に広げると、自然と僕たちはそれを囲む体勢になる。
「あっ、私あったかい飲み物持ってきました」
「優秀な後輩だ」
「優秀な新入部員だな」
いろりさんは自分のリュックサックからやや大きめの水筒を二本、取り出した。それと一緒に未開封の紙コップも。
全員に紙コップを配って、「コーヒーとココアどっちがいいですか?」。結果は僕だけコーヒーでそれ以外がココア。女の人ってコーヒーあんまり好きじゃないのかな。
「昨日二幹くんと買って来たものなんですよ」
何故だか誇らしそうに、いろりさん。それに対して十時さんが「ひゅー」と雑に冷やかす。
「それは所謂デートというやつでは?」
「違いますよ……」
僕はすぐさま否定。
男女が日時ち場所を定めて会うことを、言葉の上ではデートと言うらしいけれど、十時さんが言っているのではそういうことでは勿論無い。
交際的なやつとか男女の逢瀬的な意味あいは、昨日のデートには全く含まれていないのだ。
「おっと後輩男子、そういうことじゃなくとも、そんなにすぐさま否定されると女子は傷付くものよ?」
……どこかで聞いたことあるセリフだった。
そうは言われても、本当にそういうことじゃないのだからしょうがないだろう。
「おいおい、恋愛も結構だがほどほどにしとけよ?」何故だか神妙な表情で、諏訪部先生が会話に割り込んだ。「別に校則で禁止とかじゃあないけど、あんまり行き過ぎると…………な?」
「はあ…………」
な、って何ですか、先生。
僕にはそれを聞く気力はなかった。
「お前だって高校卒業したいだろ? 若くして苦労したくないだろ?」
「まあ……」
「じゃあ、恋愛はほどほどにしとけよ。節度を保って、良いお付き合いをだな」
「だからそういう相手いないですよ、僕」
「これからどうなるか分からんじゃんか」
「はあ……」
突然無実の罪で説教される僕を、十時さんはにやにやと、面白そうに遠巻きに見ていた。いろりさんはどういうわけだか、変に顔を赤くしてもじもじとしていた。
「でも、胡桃ちゃんの本音はそうじゃないでしょ」
「どういう意味だ?」
「自分がそう言う経験ないから、生徒のいちゃいちゃがむかつくだけでしょ?」
「……なあ、璃呼子」
「はあい、なんでしょ」
「本当のことは時に人を傷つけるから言っちゃだめだって、前に言ったよな?」
「あはは」
「えっ、先生って…………ないんですか、経験」驚いたように、いろりさん。「どこまでの経験かは……分からないですけど」
「もうなーんにもだよ」代わりに答えたのは十時さんだった。「お手手繋いだことも無いんだから」
「えー、意外!」
十時さんが暴露をする最中、諏訪部先生は腕を組んで俯いたまま動かなかった。それがどういう感情を示すものなのかは分からなかったけれど――ああ、凄い眉間に皺が寄っているのが見えた。間違いなく怒っている。
「十時さん、その辺にしておいた方が……」
「どうしてさ後輩。……ああ、胡桃ちゃんが怒ってる。どうしてだろう?」
わざとぼけた風に十時さんが言うと、諏訪部先生は「ちっ」と誰の耳にも届く舌打ちをすると僕のすねを軽く蹴ってきた。何故かその矛先は僕だった。
その事に対して抗議するより先に「女子に蹴ったら問題だろ」と諏訪部先生。それよりも教師が教え子を蹴ることを問題にしてほしかった。
……どうして十時さんが諏訪部先生の恋愛事情を知っているのだろう、という僕の素朴な疑問は、口に出すタイミングを見失ってしまった。
*
その後は段々と口数も減ってきて。でも時折思い出したように誰かが話題を持ち出して、それに対してやいのやいのやって。天体観測を始めてから一時間と少し、星空を見たり見なかったりした。時間で言えば見ていない時間の方が長かった気がする。
十時さんなんて途中からスマホを弄り出して、終盤はイヤホンをはめてお笑いの動画を観ていた。しかしそれでもしっかりと会話に交ざって来ていたのだから、器用というか何というか。
「この街で道具も知識も無しで天体観測をすれば、まあこんなもんだわな」
誰が言った訳ではないけれど、そろそろ解散という雰囲気になった時。諏訪部先生が四杯目のココアを飲みほして、そう言った。
「天体観測っていうか、夜空鑑賞会というか……」
「去年やった時もこんな感じだったわ」
「そうだなあ。ぶっちゃけ天体に興味あるやつなんて誰一人としていなかったしな」
「うん」
十時さんはイヤホンを巻いてからスマホをポケットに戻し、それぞれの空の紙コップをまとめ始めた。
「でも、どうしてだかそれなりに楽しめちゃうんだな。少なくともつまらなくは無い。しょーもない恋愛映画よりはずっと楽しい」
「それは胡桃ちゃんの感性だけど……夜空ってのは全員の傍にあって、でも不思議と気に留めることの無いものだから、それを改めて見上げるのって、なかなか乙なものよね」
「……」
僕が黙っていたのは、二人の言葉に全面的に同意だったからだ。一言一句違わず、心の底から同意だった。
楽しいというか……良い時間だった。うん。この言葉が一番適していると思う。
「確かに、星空なんていつも見ているはずなのに……今日見た星は、不思議と違って見えました」
この中で一番天体観測を楽しんでいたいろりさんが言った。
途中からは十時さんたちとほとんど雑談に興じていたけれど、最初は食い入るようにして夜空を眺めていた。
いろりさんにはこの星空がどう見えていたのだろう。僕にもそれなりにきれいには見えたけれど……もっと美しく、うっとりと見惚れるほどの景色だったのだろうか。
それは何というか……羨ましい。そう思う。
僕といろりさんで見ているものが変わらないのに、しかしいろりさんは美しく感じる。それは彼女の感性だ。彼女の感性が豊かだからだ。それは僕にはないものだ。羨ましいと、正直に思う。
「後輩たちにも天体観測の素晴らしさが分かったみたいでよかったよ」
うん、うんと頷きながら十時さん。適当なことを適当に言っているのが丸わかりだった。だけれどそれは事実だった。
「星空、綺麗だったね」
ブルーシートを畳んで撤収、となったところで、いろりさんは僕にだけ聞こえる声量でそう言った。僕はすぐさま、「うん」と名付いていた。
「また見ようね」
「……うん」
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