第17話 乱入
ただの、よく聞く音だった。
学校に居ればいくらでも聞ける、ただの音。
そう、階段を駆け上る、激しい足跡。
だけれど僕と猫宮さんは、今聞こえたそれが一体どういう意味を持つのか――瞬間的に理解した。感覚的に確信した。
「―――――!」
「――!」
それからやや遅れて、もう一つの足音も聞こえる。何かを言い争うような声も聞こえる。僕と猫宮さんは青い顔をして、でもその音がこの部室にたどり着くのを待つしか出きなくて。
そして、ドアノブが開かれた。
「はあ――はあ――はあ――」激しい息遣いと乱れた髪から、彼女がどれだけ激しく駆けつけて来たかは思い知れた。「二幹、くん――――!」
いろりさんは部室に一歩、二歩足を進めると、崩れるようにその場に座り込んだ。だけれども直ぐに顔を上げて、僕の名前を呼んだ。
「いーちゃん――!」
いろりさんが明けたドアが閉まる前に、もう一人女性が部室に乱入。言うまでもない、もう一人のいろりさんの友達のフユさんだった。彼女も倒れ込むようにしていろりさんの隣に座り込んだ。
「……いろり」
猫宮さんが、ばつが悪そうに視線を泳がせた。
そんな彼女を、いろりさんは攻めるように鋭い視線を向ける。
「……そういう、ことなのね。花梨」
「……うん」おどおどした様子だった猫宮さんも、覚悟を決めたようにいろりさんを鋭く見つめた。「今、野渡くんから話を聞いてたの」
「……っ!?」いろりさんは僕の顔を見て、突然驚いたような、絶望したような、怒りと悲しみに満ち満ちた表情をした。「花梨、もしかして二幹くんをぶったの!?」
「……」猫宮さんは苦しそうな表情をするが、それでも「そう」と頷いた。
いろりさんが心配そうに、立ち上がって僕の下へと駆け寄る。
僕の頬は、自覚はないけれどもしかすると結構腫れてしまっているのかもしれなかった。
「……どうして!? 野渡くんは何も悪くないよ!」
「知ってた。知った」
「ならどうして!」
「悪くなくても、許せないこともある」
「……いいんだよ、いろりさん」僕はなるべく柔らかい笑顔を作って、場を諌めようとする。「僕は悪いよ。いろりさんの友達からしたら、僕のやってることは許せなくて当然のことだって」
「だから二幹くんは悪くないって!」
「わたしはどっちが悪いとか分からないけど!」突然叫ぶように言葉を挟んだのは、床に座り込んでいたフユさんだった。「……わたしはバカだから、何が正しいとか悪いとか分からないけど。でも、わたしは、いろりには死んで欲しくないよ……」
「……フユ」
「その、野渡くんは……いーちゃんの為を思って行動してくれてるってのは分かる……りんちゃんもそれは分かってると思うんだけど、…………でもわたしも同じで、それは悪い事じゃないって分かってるけど、でもいいよとは言えない……かな…………。ごめん、話すのあんまり上手じゃなくて……」
「……二人は、私に死んで欲しくないってこと?」
「そうだよっ! そうに決まってるじゃん!!」
三人の感情がそれぞれ剥き出しになって、僕に言葉を挟む余地はなかった。
それでも僕はどうにか諌めるすきを窺いながら――三人のやり取りを黙って聞く。
「……優しいんだね、フユと花梨は」
「どうしてそういう話になるの」不機嫌そうに言ったのは花梨さん。「今は優しいとか優しくないとかそう言う話じゃないだろ」
「そういう話だよ。二人はわたしのことを気遣ってくれて優しい、ってことでしょ?」
「まだそういうことを言うの? あたしたちがいろりのことが心配だから一緒に居るって」
「そうじゃないの?」
「そうだよ」
「そうじゃん」
「でもそうじゃない! いろりが考えてるような憐みじゃない。友達だから心配なの。いろりのことが好きだから死んで欲しくないの!」
「それは……違うよ」
「どうして!」
「だって……だってそうじゃん! 昔っから私、死にたいって言って、死にたい死にたいって言って――こういうこと言われるの迷惑って、私知ってるもん!」
「……」
「迷惑でしょ。正直に言っていいよ」
「……迷惑じゃない、とは言わない」フユさん。
「ほら。……別に、だから怒ったりとか悲しんだりとかはしないよ、分かってるし」
「でも、迷惑だから、どうって訳じゃないんだよ? 嫌いになったりしない、距離置こうともしない。……だってわたしだって迷惑かけてるし。ほら、この前、わたしお弁当忘れておかず分けてもらったもん」
「それとこれとは大きさが違うよ」
「でもわたししょっちゅうそんなことやってるよ? 忘れ物なんてしょっちゅう。……でもその時、二人は快く貸してくれるよね」
「……まあ、それくらいは、どうってことないから」
「迷惑って思ってても、わたしと一緒に居てくれてる。それと一緒じゃないの……?」
「…………」
いろりさんは口を開くも、そこから言葉が漏れ出ることはなく、そのまま黙ってしまった。
これはいろりさんの自意識だ。僕は知っている。
もっと砕けて言えば心配性なのだ。
二人はこう言ってくれている。そして自分も二人の優しさは感じている。きっと間違いなく、二人は私のことを友達と思ってくれていて、だから一緒に居てくれているのだろう。
――だけれども。
だけれども、という言葉。この言葉が、いろりさんの自意識。この言葉が、いろりさんに信頼という行為を許してくれない。
白いシャツに染みが目立つように。
フユさんと花梨さんのことが信頼できるからこそ――「だけれども」の一点が強調される。「もしかしたら」の唯一の黒が目立ってしまうのだ。
「……ねえ、二幹くん」
三人の女子が黙ってしまった中、最初に言葉を発したのはいろりさんだった。僕でも何とか言葉の輪郭が捉えられるような声量だったから、僕より離れたところにいるフユさんとカリンさんにはブツブツ言っているようにしか聞こえなかっただろう。
「分かってるんだよ、最初から私」
「……何が?」
僕が言葉を返したのを見て、フユさんと花梨さんはいろりさんが僕に向かって話しかけているということに気付いたらしかった。花梨さんはそれを聞き取ろうとこちらに近づく。
「悪いのは私だって」
「……」その言葉を否定したかったが、とりあえず彼女の言葉を最後まで聞くことにする。
「死にたがってることじゃないよ。その後のこと。『死にたくて苦しいんだからしょうがないでしょ』――私は心のどこかでそう思っててさ。それを私は、例えばフユと花梨の優しさを知らないフリしたり、二幹くんに無茶なお願いしたり――それもしょうがないじゃん、私はすごい苦しんでるんだからって、そういう風に免罪符にしてた」
「……自分が弱ってる時は相手の迷惑なんて考えなくていい。それと一緒で、別に僕はそれを悪い事とは思わないけどね」
「悪いよ」いろりさんは即答。「さっきの話に戻るけど、悪いのは私。二幹くんじゃない、私だけ。私が、私だけが悪いの」
「そんな訳、ある訳ないじゃん」傍に寄って来た花梨さん。
「あるよ」いろりさん。
「ない!」花梨さん。
「あるの!」いろりさん。「あるんだってば!!」
最後の言葉だけ、鼓膜がしびれるほどに声を張り上げて、そしていろりさんは駆けだした。逃げる、というか、どうしていいか分からずそれしかできない、という風に、ばたばたと足を動かした。
花梨さんとフユさんの隣を抜けて、部室のドアを抜けて。
いろりさんは、逃げ出してしまった。
*
最初に動いたのは僕だった。
僕はいろりさんの開けたドアが閉まらない内に廊下へと飛び出した。
「ちょ、――――!!」
後ろで何か声が聞こえたが――それはもう、僕にとってはただの音だった。
取りあえず足を動かしながら――脳味噌は冷静に稼働させる。屋上。いろりさんが逃げ込む場所で最初に思いついたのはそこだったけれど、でも違う。いろりさんが部室を飛び出してから足跡が聞こえた。そしてそれは遠ざかった。部室のすぐ隣にある屋上へ行ったのならそれは聞こえないだろう。
ああ、くそっ、となるともう手がかりがない!
いろりさんは僕のことを随分信頼していたようだけれど――僕はいろりさんのことを全くと言っていいほど知らないのだ。
僕なんかより、フユさんと花梨さんの方がよっぽど信頼できるのだ。だのになんでいろりさんはそれをしなかったんだ。
僕はとりあえず下駄箱へと向かった。学校の外へ行ったのかそうでないかを確認しようと思ったのだ。外に出てしまえば、僕はもういろりさんにたどり着くことは出来ないだろう。
やはり彼女に付いて何も知らないし、この街に着いても全然知識がないのだから。
息を切らしながら昇降口に到着。下駄箱でいろりさんの名前を探す。通りすがりの何人かが僕のことを不審げに見るけれど――そんなの構っている余裕はない。
果たして――ああ、いろりさんの靴は下駄箱に入っていた。まだこの校舎にいるのだ。まだ僕との繋がりは切れていない。
――が、しかし、ここでまた困ったことがあった。僕はここを離れることができない。
もし探している途中にいろりさんが帰ろうとしてしまえば、おしまいだ。だから誰かがここで、いろりさんが帰ろうとしていないか見張っていなければならないのだ。
くそっ。また心の中で毒づいた。
フユさんか花梨さんを呼び出してここで見張ってもらうということは勿論思いついた――思いついたが、僕は彼女たちへの連絡手段がないのだった。
僕はクラスでぼっちだから。いろりさん以外の連絡先を知らないから。
クラスでのSNSグループのようなものもあるのかもしれないけれど――あるのかもしれない。僕はそこには入会していない。
ほらね。
僕はダメなんだよ、いろりさん。
君が信頼していた僕は、君のことなんてなんにも知らないし、普通の男子高校生以下の能力しかない。ただ、君が錯覚して、君の中で僕の存在が大きくなってしまっただけで――実際はこんなものなんだって。
「――野渡くん!」
僕の名前を呼ぶ声。それはいろりさんではなかった。フユさんだった。
僕の下へと駆け寄ると、またしてもその場に崩れ落ちる。はあ、はあと何度も荒い呼吸をして、ようやっと顔を上げて言葉を発する。
「わたし、白鯛冬雪、出席番号九番――じゃなくて、自己紹介なんてどうでも良くて、えっと――」ふう、一段と大きな息を吐いて、それである程度冷静さを取り戻したようだった。「下駄箱を見に来たんだよね、野渡くん。それで、えと、どうだった……?」
「いる。まだ校舎の中にいるよ」
「そか、そっか……」安心したようにほっと胸をなでおろす。「外に出たら探すの大変だからね。……うん? どうしたの、野渡くん。…………」
僕は白鯛さんに事情を説明する。いろりさんは校舎内にいるのだけれど、誰かがここで見張っていなければならないこと。……そして、僕はいろりさんを探しに行きたいということ。
「……わたしに、ここでいーちゃんが来ないか見張っててほしいってこと?」
「うん。……お願いできる、かな」
「…………」やや間があって。「正直な所わたしもいーちゃんを探したいけど――」
白鯛さんはそこで言葉を切ると、――両手で口元を覆って、大きな咳をした。それは咳き込んでしまったという訳ではなさそうだった。白鯛さんはひゅーひゅーと苦しそうに喉を鳴らしていた。
「わたし、喘息あって……もう走れない、かも…………」
「……えっ、それは大丈夫なの……? 病院とか……せめて保健室とか言った方が良いんじゃ…………」
「ううん、大丈夫」白鯛さんは力なく首を振った。「軽いやつだから、ちょっと休めば平気。―ごほっ」
「……もししんどかったら、気にせずに保健室に行っていいからね」
「うん、分かった……」
白鯛さんが頷いたのを見てから、僕は回れ右。
そして駆け出そうとしたところで、「あっ、待って」と白鯛さんに呼び止められる。
「ごめんね。ちょっとだけいいかな」
「う、うん」
「ありがとう、野渡くん」喉をひゅうひゅう言わせながら、ゆっくりと言葉を紡ぎだす。「ここに降りてくる間にいろいろ考えたんだけど、…………わたしバカだから、やっぱり誰が正しい誰が悪いとか分からなくて……、いーちゃんが死ぬのは嫌だけど、でもいーちゃんが死にたいならそれはいーちゃんの為にならないから……えっと…………」
白鯛さんは考えるのが苦手なのか、それとも喘息ゆえに思考がまとまらないのかは分からないけれど、自分の思考をうまく言葉にすることができないようだった。
僕は――正直直ぐにでも駆け出したかった。だけれど、根気よくいろりさんの友人の言葉を待った。
「……悔しいけど、ここしばらく、いーちゃんと一番距離が近かったのは野渡くんだから。いーちゃんが心を許してるのは野渡くんだから。だからわたしは、野渡くんに任せる。……もしもの時があった時は、全部野渡くんの決断に任せる」
もしもの時。
それはつまり――。
「……ごめん、押し付ける形になっちゃって」
白鯛さんは眉を下げて、心から申し訳なさそうに言った。
「いや。……これは僕の責任でもあるから」
「……わたしたちも悪いよ。わたしがいーちゃんを引きとめて、その間に花梨ちゃんが二幹くんから話を聞くって作戦だったの。……それがいーちゃんにばれちゃって、そのせいでこんなことになっちゃった…………」
「……それはいろりさんを慮っての行動でしょ? じゃあ、やっぱり悪くないんだよ」
じゃあ、言ってくるよ。
僕は白鯛さんにそう告げて――ふと思い立って、僕のポケットから財布を引っ張り出して白鯛さんに手渡した。
「そこの自販機で飲み物でも買って、ゆっくりしててね」
困惑したような白鯛さんから視線を外し、そして今度こそ、僕は駆けだした。
当ても目星もなかったけれど、いろりさんを求めて駆けだした。
「う――うう――――」
白鯛さんの嗚咽のような声が後ろから聞こえたと思ったら、次の瞬間にはそれは鳴き声に変わっていた。「いーちゃん――やだよ、わたし――――」。それは僕の鼓膜と――それから心を、過剰に振動させた。
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