第11話 部長と顧問
「ねえ、後輩君」
その日は部室に十時さんが居た。
僕は部室に何か目的があった訳でもなく、ただ足の向くままにやってきてスマホを弄っているだけだった。
十時さんはなにやら難しそうな、海外の小説を読んでいた。実は結構頭がいいのかもしれなかった。
挨拶だけ躱してそのまま一時間ほど、それぞれの世界で孤立していたのだけれど、突然十時さんは昨日の残りのチョコスナックの包装を開けながら僕を呼んだ。
「……。なんですか?」
その頃にはもうスマホを弄るのにも飽きていた。スマホのゲームは三日で飽きる僕としては、スマホでの時間つぶしなんて一時間も持たないのだ。
だから椅子を窓際に持って行って日向ぼっこをしながらうとうとしていた。
外的要因によって覚醒が促された時特有の脳味噌が締め付けられるような感覚を感じながら、僕は椅子ごと身体を十時さんへと向ける。
「一緒に空を見に行かない?」優しそうに、にっこりと笑ってそう言った。「うとうとするのなら、その方が気持ちいいと思うけど」
そう言えば。
僕が天文部に仮入部してから、一度も屋上へ言っていなかったことを思い出した。
僕は断る理由も思いつかなくて、ブレザーを脱いで十時さんと一緒に屋上へと向かった。
*
閉鎖的な解放空間。
今思えば、僕が屋上のことをえらく気に入っているのはそういう理由な気がする。
人が嫌いな訳じゃない。誰もいないのは寂しい。孤独は嫌だ。そんな、一人でいるのが好きな寂しがり屋。
だから、そんな僕だから、他に人はいなくて、他の生徒の部活やらの青春の気配を感じ取れる屋上へと足蹴よく通っていたのだと、屋上の錆びついた扉を開けながら考えていた。
それもただ何となくそう思っただけで、証拠とか裏付けもなく全くの見当はずれなのかもしれないけれど。
「…………」
扉を抑えている僕のわきを抜けて、十時さんが一足先に屋上に出た。苔塗れの床をいつもと変わらない調子で難なく歩いて中心に経つと、ぼんやりというかぼーっとというか、心ここに有らずといった表情でフェンスの向こう側を眺めた。
僕もその隣に立つ。十時さんは僕の存在に気付かないのか気に留めていないのか、そのまま心ここに有らずと言った様子で立ち尽くしていた。
仕方がないので、僕も同じようにフェンスの向こうを眺めてみた。いい景色だと思う。歩けばごちゃごちゃした街並みも、高い所から見れば絶景だ。
「……っと、ごめんね、後輩男子」
名前を呼ばれて彼女の方を見れば、その場で大きく伸びをして、気持ちよさそうに目を細めていた。「んーっ……」。深く吐き出した吐息が風と混ざって彼方へ流れた。
「上、行こ」
上? 心の中で首を傾げたものの、貯水タンクの上のことだということはすぐに分かった。
ふらふらと十時さんはタンクに近寄って、慣れた動作で梯子を昇ろうとする。
「あっ、ちょ、ちょっと待ってください!」
「……んー? どうしたの?」
「……僕に先に昇らせてくれませんか?」
「いいけどどうして?」
どうしてって……そりゃあ…………。
「わたしはスカートの下にハーフパンツをはいてるわよ?」
「っ!」
火照っていた顔の温度が、更にむくむくと上昇していく。
「……十時さん」
「どうしたの?」
「つらいです」
「あははははっ。……しょうがない、お先どうぞ」
「はい……ありがとうございます」
僕はなるべく十時さんの顔を見ないようにして、また僕の顔を見られないようにして、階段に手をかけた。
僕が上り終えると直ぐに十時さんが顔を見せた。表情はにやにやと楽しそう。タンクの上に立つとスカートの裾をつまんでちらちらと揺らす。まじで辞めて。ハーフパンツはハーフパンツで悪くないし、そうじゃなくても太もも見えてるから。
僕は咳払いをして気持ちを切り替えつつ、なるべく奥の方に腰を下ろした。
「いいでしょ、ここ」
「いいですね」
僕はすぐさま頷いた。
高度があがったとはいえ数メートル、景色はそう変わるものではない。だけれど貯水タンクの上にいるという非日常感が、不思議と気持ちをわくわくさせる。
「独り占めしたくなる理由も分かります」
「でしょ? だからもう、掃除とかしちゃだめよ」
「……そんな場所に僕を連れてきてよかったんですか? 気に入ってまた一人で来るかもしれませんよ?」
「ギブアンドテイク」
「……どういうことですか?」
「二幹くんは天文部に入ってくれた。だから、わたしもとっておきの場所を教える」
「……ああ、なるほど。ありがとうございます」
十時さんはその場で横になった。きっと十時さんがやったのだろう、貯水タンクの上はぴかぴかに磨かれていて、この上でいくらごろごろしようとも服が汚れることはなさそうだった。
「でも、どうして天文部を残したかったんですか?」
「あーそれ聞いちゃうか。 てか前も聞かれたのをわたしがはぐらかしたんだっけ」
「……言えないことなら、全然大丈夫です。ただの会話のつなぎに聞いただけなので」
「んー……」十時さんは唸りながら頬を掻いた。「言えないっていうか、……まあ言えないんだけど、これといった理由がないからどういえばいいか分からないのよね。ただ強いて言えば、この部活が気に入ってるからかなあ」
「……一人だけだったのに、ですか?」
「去年は他に人がいたんだよ。当時の三年生が、二人」
「そうなんですか」
「まあ星は見なかったけど。その人たちも、道具の使い方は分からないって言ってた」
十時さんはそこで一旦話を着ると、ブレザーのポケットからキャラメルの箱を取り出した。二つ取り出して「食べる?」と僕に一つを差し出した。
僕が頷くと、包装を剝いてから僕の掌の上に乗せた。
キャラメルをかろかろ舐めながら、十時さんは話を再開。
「結構楽しかったんだよねえ。部室でグダグダしてるだけだったけど、……うん、凄い楽しくて。だから、できることなら部活を残したかったの。活動実態の無い部活だから、廃部になっちゃえばそれもしょうがないとは思ってたけど」
そこで、十時さんは寝転がったまま僕の顔をじっと見つめた。
「だから、入ってくれてうれしかったよ、後輩くん。見知らぬ先輩たちの遺志を継いで、部室で思う存分だらだらしてくれたまえ」
「……はあ」
言われなくてもそうするつもりだったけれど。
*
そのままぼおっと二人で空を眺めていると、「すう――すう――」と静かな寝息が聞こえた。もしやと思って見ると、十時先輩は赤子のように丸まった姿勢で気持ちよさそうにまどろみに落ちていた。
僕は起こしてしまっては悪いと思って――それと無防備な寝顔は精神衛生上悪いので、そそくさと部室に退散することにしたのだ。
「……おお、二幹か」
部室では諏訪部先生がくつろいでいた。ポータブルのDVDプレイヤーを持ち込んで、イヤホンも着けずに大音量垂れ流しだった。
ガガガガガガッ、っと鼓膜を嫌に障る銃声。一体どんな映画を見ているのだろうか。
「丁度良かった、ちょっとそこに座れや」
諏訪部先生はDVDを停止させるとやや乱暴に閉じて、ソファの隣に置いてあったカバンにプレイヤーをしまった。
「はあ」
僕は言われるがままボロイスに腰を下ろす。
と、そこで諏訪部先生の表情が妙に強張っていることに気付いた。いつもむすっとした表情だけれど、今はそれに真剣みが加わっているというか。
「早速だけれど、二幹」
「はい」
「お前、いろりとは付き合ってるのか?」
「……違いますけど」
「そうか……」
いきなり何を言い出すんだ、たちの悪い冗談?
そう思ったけれど、でも諏訪部先生はおちゃらけた様子はなく、神妙な面持ちのまま頷くだけだった。
至って真剣に「付き合っているのか」と聞かれることがこんなにもむずがゆいなんて知らなかった。
「でも、仲はいいよな?」
「……悪くはないですけど」
友達ではない。
それくらいの関係だし、それくらいの関係で留めなければいけない。
「……曖昧な表現だけど、一緒に入部しにくるくらいの関係ってことだよな。そうか…………」
そういうと、諏訪部先生は腕を組んで何やら考え込んでしまった。
一体何なんだ?
僕といろりさんの関係性を探っているのか?
いや、この感じはそうじゃなくて――僕を介していろりさんのことを聞きだそうとしているのか?
「……おほん」諏訪部先生はわざとらしくため息をついて、顔を上げた。「お前らが中学からこの高校へ進学する際にな、いろんな情報を引き継ぐんだよ、プライバシーの侵害にならない程度の」
「……はあ」
「あー、例えば成績とか、どんな実績があるとか、そういうの。そういうのを引き継ぐんだ。でもそれだけじゃないぞ、例えば……内向的かそうじゃないかとか、指導に関わるそういうの。そう、本当にいろんなことを引き継ぐんだ。…………あー、あー、回りくどいのはどうにも苦手だからストレートに言うがな」
「…………」
僕には先生の言葉の続きが予想で来ていた。
にもかかわらず――いや、だからこそか――緊張して、どこか恐怖も感じて、口腔内の唾を飲み下した。
「いろりには自殺未遂の経歴がある。……未遂って言うか、未遂未遂だな。自殺を計画していた……らしい。いろりの担任から教えてもらっただけで、それ以上の詳しいことはほとんど知らないけど」
「…………なるほど」
「驚かないんだな」先生は鋭い視線で僕を見た。「知ってたのか?」
「いや……それは…………」
「ああ、すまんすまん。別に咎めようって訳じゃない。怒る理由も、怒れる理由もないからな」
「……すみません」
「謝るなって」
諏訪部先生は肩の荷が落ちたみたいに、さっきまでの真剣な表情を崩して歯を見せて笑った。
「むしろ知ってて助かった。知らなかったら、あたしはいろりの秘密を言いふらしたことになるからな」
「そうなってたらどうしてたんですか?」
「そうならなかっただろ?」
……無茶苦茶だ。
「ぶっちゃけるとあたりは付いてたんだがな」
「あたり?」
「お前らの様子とか態度とか、それと屋上で一緒にいたりしたんだろ? 当てずっぽうよりマシ程度の予想だったが、まあ当っててよかったよ」
「…………」
僕といろりさんがなにやらこそこそしていれば十時さんにはいつか勘ぐられてしまうだろうな。それは予想していたが、そうか、先生か……。
先生に言ったりしないの? たしかいろりさんはそんなことを言っていた気がする。あれは経験則だったのか。
「どういう経緯で教えてもらったのかは気になるけど……そんな深い事までは聞かないよ。だけどこれだけは教えてくれ。お前、それを聞いた時どうした?」
「……」
「これだけは何としても教えてもらう。お前はなんて言い返した?」
「……死にたいなら死ねばいいんじゃないかな、みたいなことを…………」
「それはどういうニュアンスで?」
「ニュアンス……?」
「『死にたいなら死ねよ、ハッ』って感じなのか、『そうしたいならすればいいよ』みたいな優しい感じなのかってこと」
「……割と優しい感じ」
「……そうか。ならいいんだ」諏訪部先生はほっとしたように息を吐いてから肩をすくめた。「教師としては止めて欲しかったが」
「……すみません」
「それも、謝ることじゃない。……うん、突き放したり、傷つけるようなことを言ってないならいいんだ」
……いいのか?
僕はいろりさんの自殺を助長するようなことを言ったんだぞ?
「いいんだよ」言葉は口に出してないはずなのに、先生が言い返して来た。「そういうのは部外者がむやみやたらに踏み込んで良いことじゃない。そういう意味では、お前の返事は満点だ」
「……そうなんですかね」
「ああ。多分、そう言って同調してやるのが、いろりにとって一番優しい」
優しいじゃなくて、それは甘いだけだろう。
心の中で反論。口には出さない。
「……ただまあ」先生は苛立たしげに頭を掻いた。「そうはいかないのがあたしの立場でな。教師は教え子が死にたいって言ってはいそうですかじゃ済ませられねーんだよ。立場抜きにしても、あたしは教え子の死を肯定はできない」
「……そうですよね」
「それに、責任うんぬん抜きにしても、関わりある生徒が死ねば目覚めが悪い。だからあたしとしてはどうにかしてそれを止めなきゃならん訳なんだが」
「……僕に協力しろと?」
「…………いや、そうは言わない。そうは言えない。お前がそう思ってないのなら、そう強いることは出来ないさ。あたしは自殺は認めないけど、でもいろりやお前が間違ってるとも思わない」
「それはいいんですか、教師として」
「よくねーよ。でも、そういう役割も必要なんだよ」
「…………」
「それはお前にしかできないことだ。なにも考えを肯定してるだけで死ねって言ってる訳じゃないし、ヘンに罪悪感を感じる必要なんてねーよ」
その時僕は、ふとあることが気になって。
それを先生に尋ねてみることにした。
「……先生はさっき、自殺の動機を僕たちの担任の先生から聞いたって言いましたよね」
「ああ、お前もいろりと同じクラスか。そうだよ、雑賀先生だ。それがどうした?」
「その時、『それ以上の詳しいことはほとんど知らない』って言いました」
「……回りくどいのは辞めてくれ。苦手なんだ、そういうの」
「すみません、悪癖だって自覚はあるんですけど……。じゃあ率直に聞きますけど、いろりさんの自殺の動機は知っていますか?」
「もちろん知ってる。……知ってるから、今こうして、回りくどくお前から話を聞きだそうとしてたんだよ」
「……そうですか」
「どうしていいか分からないんだ、あたしも」
俺もまったく同感だった。
いや、先生の方がよっぽどどうしていいか分からないはずだった。
僕はいろりさんを望む道に導けばいいのだけれど、先生は反対方向に引きずって行かなければならないのだった。
「しょーもない理由を掲げるようならはったおしてでも目を覚まさせてやるが、自分でも理由が分からないと言われちゃどうしようもない。……だから、二幹。強制はしないけど、もしいろりを死なせたくないと思うことがあったら、あたしに協力をしてくれ」
「……」
「もちろんあたしはあたしでいろいろ動くけどな、いろりの問題に一番近いのは今のお前だ。ハッキリ言って、お前がいろりの命運を握ってると言っても過言じゃないだろう。……重荷に思ったのなら悪い、だが、ちょっと考えてみてくれ」
僕は。
僕の頭の中で諏訪部先生の言葉がぐるぐると渦巻いて。
「はい」そう言って頷いて、頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。
「ごめん」先生は最後にそう謝って、テーブルの上にイチゴミルクを置いて部室を後にした。
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