死にたい彼女はかえるのしっぽ
ヤマナシミドリ/ 月見山緑
第1話 屋上の詩人
僕の入学した星陵高校はあるいは天国だったのかもしれないけれど、少なくとも僕にとっては地獄そのものだった。
僕は昔っから、どうにも女性が苦手だった。話しかけるのが苦手とかそういうことじゃなくて――まあそういうことでもあるんだけれど、例えば雲を見たら怖がるように、がけ下を見たら足がすくむように、そういう恐怖の類の「苦手」だった。
嫌いな訳じゃない。高校生の一般的(だと思いたい)性欲は持ち合わせているし、また恐怖症という訳でもない。
ただ、苦手。女性を前にするといつも通りに喋れなくなって、どういう言動をすればいいのかが途端に分からなくなる。自分が自分じゃなくなってどうすればいいのか分からなくなるし、またそんな自分も嫌だった。
理由は分からなかった。
ただ、心当たりはあった。僕には一人の姉が居て、姉にはずっとつらく当たられてきた。まあ弟なんてそんなもんだ。弟思いの優しい姉なんてフィクションでファンタジーなのだ。
姉の私物に触ればけがれると怒られ、会話をすれば罵倒が随所に含まれ、姉が友人を呼べば僕の失態を得意げに話し、自慢話をすれば鼻で笑われる。
きっとこれらの経験が、最も身近な女性の一人につらく当たられたというトラウマ的記憶が、女性と上手に関われなくさせているのだと思ってきた。
女性恐怖症だ。女性と関わることが難しかった。ずっと悩んでいた。
中学のある時、僕はこのことを数少ない友達の一人に打ち明けた。これはコンプレックスであると同時に僕の恥でもあったから、打ち明けるのには相当の勇気が必要だった。
彼は僕の話を聞き終えると、髭のうっすら生え始めてきた自分の顎を撫でながら、どう説明したらいいのだろうかといったような難しい表情をして、こう言った。
「それ、ただ恥ずかしいだけなんじゃないかな。俺だって女の子と話すのって緊張するし」
気が付けば僕は羞恥でその場から逃げ出していた。
それを自覚した僕は、もうすっかり恥ずかしくなってしまって、それ以降女性と関われなくなってしまった。
そしてこの星陵高校。ここは生徒の八割超が女生徒という地獄だった。数年前まで女子高だったらしく、驚愕になった現在でもその名残で女生徒が多いらしい。
だけれども僕は入学するまでそんなこと知る由もなかったのだ。入学式、そして全校集会での異常な男女比に愕然とした。僕はただ、学力的に順当で近場だったという理由でこの星陵高校を選んだだけだったのだ。
いや――地獄は言い過ぎかもしれない。この学校の女生徒たちは何かをしたわけではない、なんの罪もないのだから。
でも、僕が彼女らの存在からこの学校での生活を苦しく思っているというのも事実だった。
「……はあ」
自然に口からため息がこぼれてしまう。これで今日何度目だろう、そんなことを考える意味もないほどにここ数日の僕はため息ばかりついていると自覚していた。
階段を上る足が重い。この足の重さは、今日の体育の持久走のせいかもしれないけれど。
端的に言うと、僕には友だちが居なかった。
こんな性格じゃあ女子と打ち解けられることは無い。女子を前にするとびくびくと挙動不審になってしまう僕に積極的に関わろうとする女子はいない。僕もかかわろうとはしない。この時点で女友達の道は絶たれている。
学校には少ないけれどもちゃんと男子生徒はいる。だけれど、女子とか抜きにしても純粋に人間関係か苦手な僕には彼らと打ち解けることが出来なかった。ただただ純粋に仲良くなることができなくて、僕はぼっちだった。
重い足を持ち上げて階段の一段上に乗せる。その動作を何度か繰り返して、僕はそこにたどり着いた。屋上へ続く分厚い扉の前だった。
この学校では珍しいことに屋上が一般生徒に解放されているのだった。いや――他の高校の事情を知らないから本当に珍しいかどうかは知らないのだけれど、安全上の理由から閉鎖されているのが普通だという話をどこかで聞いたことがある気がするのだ。
ここは最近のぼくのお気に入りスポットだった。放課後になるたびに毎日に用にここに入り浸っていた。今日も例に漏れず。
まず第一に景色がいい。この屋上から無限に続くような街並みを見ていると、人間関係に悩んでいる自分なんかがちっぽけな存在に思えてくる。
自分は自分にとっては唯一の存在で、それは「思えてくる」だけなのだということは知っているのだけれど――まあ、悩みなんか忘れてしまう程の素晴らしい景色と、そういうことだ。
そして第二にこの場所には人がいないのだった。そう、人がいない。
学校の屋上なんでうぇいうぇいしている女子高生なんかが好きそうな場所だと思うだろう。僕もこの屋上に訪れるまではそう思っていた――だけれど初めてこの重い扉を開いて、ああ、こりゃあ女子は寄り付かないなと納得した。
きっと掃除する人がいないのだろう。コンクリート製の床はびっしりと苔むしていて、苔が張り付いている所の方がそうでない所よりも面積が広いというほどにまでなっているのだ。少なくとも花の女子高生とは真逆の雰囲気を放っている。
これじゃあ女の子は立ち入ろうとは思わないだろう。
……こうして人のいない所に逃げてくるのが良くないというのは分かっている。知ってはいる。いるのだけれど。
「はあ……」
もう一度重たいため息をついてから、僕は屋上の扉のドア伸びを捻って、腕に力を込めて引いた。
ひゅおっという音と共に、微かに温かい空気が僕の頬を撫でた。ドアを完全に開放して緑のカーペットの上に一歩に踏み出すと、先程の風と同じ空気が僕の全身に纏わり突く。だんだんと夏の訪れを感じさせる、でもまだ季節は春、そんな優しい温かさ。
学校の昇降口から外に出るのとこの屋上で外気に触れるのでは感じているものは何ら変わらないはずなのに、不思議なことにこの屋上では空気の温度だとか臭いだとかを敏感に感じ取ることができる。
感覚が研ぎ澄まされるというか、研ぎ澄ましてしまうというか。この屋上では景色だとか音だとかの五感で感じ取れるものを僅かでも逃したくないのだ。
――だから、この屋上にいつもと違う「におい」が混ざっていることには直ぐに気付いた。
だけれどそれに気づいたのは遅かった。本当はにおいなんかじゃなくて、もっと直接的に、つまり視覚で見て分かるべきだった。それが出来なかったのは僕が常に斜め下を見て歩いているから。
「……やっぱり、ここじゃ無理かなあ」
そして僕は彼女の声を聞いた。
髪の毛をツーサイドアップにした女生徒だった。顔は、僕に背中を向けているから窺えない。
「フェンスは……盲点だったなあ。でもそうか、当たり前ですよねー」
彼女は一人だけだった。友達とこの屋上がどんなものか様子を窺いに来た、という訳ではないらしい。だからといって景色を楽しみに来た、という訳でもないようだった。
彼女はぶつぶつとよく分からないことを呟きながら、屋上を覆っているフェンスの前にぼんやりと立っていた。
どおんと、何か固いもの同士がぶつかるような音が僕の後ろで聞こえた。「うわぁ!」僕は自分の口からひどく情けない声が出るのを感じながら、そのまま前のめりに膝を付いてしまった。
その音と僕の声どちらに驚いたのかは分からないけれど、彼女もフェンスに伸ばしかけた手はそのままに反射的に僕の方を振り返ったのが見えた。
僕は苔むしたコンクリートをじっと見つめながら、ひどい羞恥心、そしてそれに伴う恐怖心を感じて、今すぐこの場所から逃げ出したくなった。逃げ出そうとした。ちらりと後ろの様子を窺うと、開いたままにしていた屋上の扉が閉まっていた。
そこで僕は、あの音の正体が扉が自然にしまったことによるものだと気が付いた。
「あの……」
僕が逃げ出すより先に、彼女がおずおずといった風に口を開いた。その声色には困惑が現れていた。というか困惑しかなかった。
「…………はい」
逃げ出すよりも先に声を掛けられてしまった僕は、観念して返事を返した。いや、今からでも逃げるのは遅くなかったかもしれない。
だけれど、よく考えれば僕が逃げ出す理由は何一つ無いことに気付いたのだ。ただ屋上に訪れて、そして扉のちょっと驚いてしまっただけ。それだけなのだ。
それに、この姿勢は楽だった。膝が苔によって汚れてしまうとは思ったものの、でも彼女の顔を見なくていいからまだ気持ち的に楽だった。
「ええと……いつからそこに?」
「……今さっきです」
「……。そっか」
彼女はどこか安心したようにそう言った。なぜ安心するのか。あまり知られたくないことをしていたのか。いろいろ推測はできるけれど、僕には興味はなかったので推測する思考をそこで打ち止めた。
「立ち上がらないの?」
そう言いながら彼女はゆっくりと僕の下へと歩み寄ると、右手をすっと差し出した。細くて、長くて、白い指だった。僕はそれをじいっと眺めながら、どうして彼女は僕の前に手を出したんだろうと考えていた。
「……あの」
困ったように、彼女。やや間があって、僕が立ち上がるために手を貸してくれようとしているんだと気付いた。
……。僕はややためらいがちに、その手を取った。迷ったのは一瞬だったけれど、「手を取るのは恥ずかしい」「立ち上がったら対面せざるを得ない」「それは怖い」「でも断るのは失礼だ」「それが一番しちゃいけないことだ」と僕の思考はぐるぐるとまわっていた。
形だけは手を取って、でもほとんど自分の足で立ち上がる。そして立ち上がっても尚下を向いたままだった首を恐る恐る正面に向けた。
醜態を晒した僕に対して親切に手を差し伸べてくれた彼女を、僕は見覚えはあった。だけれど名前は知らない。それでも顔は見覚えがある。だから……クラスメイトだろうか?
「あれ……野渡くん…………で合ってるよね?」
彼女が僕の名字を自信なさげに呼ぶ。「うん、そ、そうだよ」と僕は小さく頷いた。そして声がえらくどもってしまって、自分の意思通りに言葉を発せていないことに気が付いた。
「だよね。……どうしたの?」
「ど、どうしたって………それは……いや、えっと」
どうしたもなにも、理由は無い。ただこの場所に来るのが好きだから。ここでぼおっとするのが好きだと言うだけで、これといった理由は無いのだ。
「この場所が好きだから……」
「へえ、そうなんだ」彼女は頷くと、後ろを振り返ってフェンスの向こうの景色を一瞥した。「へえ……」
「う、うん。景色がいいし……音も、聞こえるから」
「音?」
「……校内で騒いでる声とか、校庭の運動部の声とか、吹奏楽部の音とか、色々な音が聞こえるのが、最近は好きかな…………」
この学校の敷地内の音のほとんどが、僕のパーソナルスペースに侵入しない程度の心地よい音量で僕の鼓膜を震わせる。うるさくなく、僕の思考を邪魔することも無く、あくまでBGM。それが、この屋上の居心地の良さを担っている要因の一つだ。
僕の言葉に彼女は不思議そうに眉を動かしたけれど、「……ちょっと聞いてみるね」と言って目を瞑た。
「……うん、ちょっとだけ分かったかも。野渡くんは詩人だなあ」
数秒立って目を開いた彼女は、ニコッと柔らかく微笑んだ。
よく分からない表現に、思わず首を捻る。「……し、詩人?」
「そう。いろんなものをよく見て、よく感じてる。詩人ですよ」
説明を聞いても、その言葉の意味はよく分からなかった。詩人とかよりも風景画家と化の方がよっぽど適しているように思えた。
だけれど「ちょっとだけ分かったかも」という彼女の言葉に――僕に合わせてそう言ってくれただけかも知れなかったけれど――自分の趣向に同意を示してくれたのが嬉しかった。少しだけ。
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