私、3度目の人生では悪役令嬢やめます
いばら
第1話 3度目の人生
地に伏したまま、彼女は視線を動かした。
ウェーブのかかった長い黒髪が絨毯のように下に敷かれているおかげで床の冷たさは感じなかった。もう指先一つ、動かす力は残っていない。もう間もなく自分は死ぬのだろうと、確信した。
視線の先には、自分と同じく地面に倒れ込んだ美しいブロンドの髪の少女。
そして、その柔らかな体を必死に抱き起こす、同じくブロンドの髪の青年が居た。
「…ッサラ!目を、…ッ目を、開けてくれ!」
必死に呼びかける彼に、サラに代わって、黒髪の彼女が心の中で答える。
(…大丈夫よ)
彼女は、知っている。
彼の必死な叫び、そして、彼の涙を頬に受け、サラは目を覚ます。
(まるで、天使のような、微笑み…)
彼の腕の中で、サラの笑顔が綻ぶ。
―…これでいい。これで、”シナリオ通り”だ。
視界が霞む。彼らの姿を見る事が出来ず、彼女はゆっくりと瞼を閉じた。
(これでようやく、私は解放される)
頭の奥が、じんわりと痺れて来た。この瞬間の為だけに、今まで全部積み上げて来た。その努力が今、報われる。
(あぁ…幸せだわ)
死に逝く者のセリフではないだろう。
彼女は、最後にポツリと自嘲じみた苦笑を零した。
チュンチュンと、小さな小鳥の囀りが聞こえる。
どれぐらい時間が経ったのだろう。奪われた視界に、白んだ朝陽が差し込む。
「ん、…私、一体…」
ポツリと呟くと、微睡んだ思考が一気に覚醒した気がした。
「そうだ私ッ!きゃっ」
勢いよく寝ていた体を起こし、立ち上がろうとしたが、寝起きの体はついて行けず、弾みでベッドから転げ落ちた。
「いた…、…って、え、ココ…」
転がったまま、天井を見上げる。
天井には豪華なシャンデリア。自分が今まで寝ていたベッドは天蓋付きで、部屋全体を見渡せば一人の部屋にしては驚くべき広大さだ。
出窓からは朝陽が差し込み、出窓の横にはビッシリと本が敷き詰められた本棚がある。本棚の近くには、素人目にも分かる豪華なドレッサーがあった。そこかしこにダイヤが散りばめられている。その隣にある扉は勉強部屋へ続く扉で、反対側の扉は衣裳部屋だ。1年間使っても着回せないほどのドレスがある。―…知っている。この部屋を、自分はあまりにも知りすぎている。
「そ、んな…何で…!」
自身の手の平を見つめる。ぷにぷにとしたモミジのような手は、女性というよりは、幼女のソレだ。
その手が、小刻みに震える。
「…ッまた、…ッまた、”ココ”からなのー!!」
彼女の叫び声が、早朝に響き渡った。
彼女の名前は、アリシア・フォン・ウォールデン。
誇りある公爵家の娘で、今年で年は17…いや、今となっては、”今日で”7歳の誕生日を迎える。ウェーブのかかった黒髪は、今でも黒絹のように美しく腰まで伸び、7歳になった今も、大きな黒い瞳は、見る者がハッと息を呑むほどに美しい。
彼女が7歳の誕生日を迎えるのは、今回で3回目だ。
何故、こうなったのか。どうして、自分なのか。何度考えてみても答えは分からない。彼女はこの世界を、幾度となくループしている。
「私はただ、自分の世界に帰りたいだけなのに…」
寝転がったまま頬杖をつき、長い長い溜息を吐いた。
彼女も以前は、普通の人間だった。日本の、東京という小さな小さな場所に存在し、ごく普通の20代の女性として生きていた。起きて、仕事をして、帰って寝る。たまの休みは友達とランチ。そんな普通の生活を送っていた彼女にとっての楽しみと言えば、『Elysion』、通称”エル”という乙女ゲームアプリをプレイする事だった。
”エル”は魔物や精霊、そして魔法が存在する『フィルマメント』という国が舞台。
その世界に生まれた人のほとんどは、生まれる時に”力”を授かって生まれる。
その能力は炎や水などを操れるモノであったり、空間を自在に行き来出来るような能力であったりと、その人間によって様々だ。だがほとんどの国民は力が弱く、その力すら持っていない人間も少なくはない。だが王族や貴族ともなれば、平民に比べ、膨大な力を手にする。その力をコントロールする為に、彼らは15歳の時に全寮制の王立学院、『シュテルン・ガーデン』に2年間入学させられるのだ。
このゲームは、その王立学院にヒロインが入学する所から始まる。
ヒロインは王族でも、ましてや貴族でもない。王都の下町で靴屋を営む家系に生まれた、平民である。こういうゲームにありがちな、急に力に目覚めた、というやつだ。彼女の持つ能力は”光”。病気や怪我、万物を癒し、浄化する事が出来る。
本来であれば王族が持つ希少な能力で、ここ数十年、”光”の持ち主は現れなかった。何故平民の彼女にそんな力が宿ったのか。国はその原因を明確に出来ないまま、とりあえず彼女を王立学院に招待するという形で、2年間彼女を隔離することにした。そこでヒロインは、5人の素敵な男性と出会う―…といった流れである。
5人の攻略対象の中で、日本の彼女が課金という名の愛を注いだ人物がいた。
『はー…幸せ。ユリウスくん可愛すぎ』
ユリウス・フォン・ローエン。
竜に跨り空を駆け、王国を守る竜騎士団団長の一人息子で、炎の力を持っている。
赤い髪の毛は彼の活発さをよく表し、誰にでも優しく、明るいその性格は学園の男女問わず愛されている。そして、アラサー手前の女子の心をグッと掴んだ。
『あーあ、明日も仕事かぁ。ユリウスくんの居る世界に行きたいわぁ』
そんな、何気ない一言を呟きながら、今日のログインボーナスを受け取り、画面をトン、と叩いた。
瞬間。
『え、』
真っ白の光が手元からはじけ飛び、瞬く間に彼女の身を包みこんだ。
そうして彼女は、この広大で豪華な部屋のベッドの上で目を覚ましたのだった。
『こ、こは…』
ベッドを降り、ペタペタと歩く。
姿見の鏡があった。何気なくそちらに視線を向ける。
彼女は言葉を失い、その場に大きく崩れ落ちた。目の前の出来事が信じられない。
アラサー手前だった女性の姿は、7歳の愛くるしい少女の姿に変わっていた。
(わぁ、肌ツヤツヤ~、…って、そうじゃない!)
美肌に喜んでいる場合では無い。何なのだ、一体何が起きているのだ。7歳の体に閉じ込められた彼女の心がパニックを起こす。
『なんで、…ッ何で、私、悪役お嬢様になっているのよー!』
改めて彼女を紹介しよう。彼女の名は、アリシア・フォン・ウォールデン。最高爵位・公爵家の、一人娘。
”闇”の力を持って生まれた彼女は、その力を示す、この国唯一の黒髪黒目の持ち主だ。元々闇の力は、伝承の中でのみ知られるほどのもので、国はその力の実態すら掴めていないのが実情である。その強大な力を国が放置する訳も無く、7歳の誕生日に、この国の王子と婚約発表を果たすのだ。
(まぁ、だから王子に依存して、王子に近づくヒロインに嫌がらせしちゃうのよねぇ)
座り込み、現実逃避として目を伏せる。夢なのでは無いかと何度か頬を抓ったおかげで、彼女の白い肌は赤く染まっていた。ちなみに、痛みの方はバッチリだ。今もヒリヒリと痛んでいる。そして、ハッと気が付いた。
『このままだと私、死んじゃう!』
悪役、アリシア嬢に与えられるエンディングは多岐に渡る。
ヒロインへの嫌がらせが露見してからの国外追放や、ヒロインのバッドエンドでは復讐で王子に刺され、誰にも知られずに路地で死んだり、はたまた絞首刑や、一家の爵位はく奪など。公式さん、何かアリシアに恨みでも?と聞きたくなるほど、凄惨たるバッドエンドの数である。
ゾッとした。―だが。…だが、考え直す。
もしかしたら、シナリオ通りに”トゥルーエンド”を迎えれば、元居た世界に帰れるのではないだろうか。これが恐ろしい程リアルな夢であったとしても、また然りだ。
だが、ヒロインと攻略対象キャラとのトゥルーエンド。つまりそれは、アリシアにとってのバッドエンドだ。
『…』
体中から血の気が引くのを感じた。
今ままでゲームの中の文字として見ていた全てが、現実となって自分の身にふりかかってくるのだ。体が、小刻みに震える。
(…ッ怯えていても、何も始まらない)
グッと、震える手に力を込めた。
元の世界に戻る可能性があるのであれば、試さない手は無い。
憧れの乙女ゲームの世界ではあるが、元の世界には家族が居る。一人暮らしを始めてからまだあまり会いに行けてはいなかったが。
今となっては、物凄く会いたい。…滲んだ涙を、指先で拭った。
『よしっ、立派な悪役になるわよ!』
―…そう意気込んで悪役としてシナリオ通りにヒロインに嫌がらせをした1度目の人生。
第一王子のルートに入ってくれたはいいものの、何故かアリシアよりも、アリシアの取り巻き達がヒロインへのいやがらせをエスカレートさせてしまい、バッドエンドに一直線。アリシアは誰にも知られず、路地裏で王子に刺されて死んだ。
また7歳の誕生日で目を覚ました彼女は、バッドエンドだから悪かったのだと思い直し、再挑戦し、冒頭に至る。完璧だった。シナリオ通りに事が運び、完璧にトゥルーエンドを迎えた。
ヒロインをイジメるのは心苦しかったし、王子から憎まれるのも辛かった。だがようやく、元の世界に戻れて報われると思った。
そう、思ったのに。
「なんでまたループしてるのよー!!」
時は戻ったのか進んだのか、ともかく、現在3回目の7歳の誕生日。
彼女は絶望に打ちひしがれ、ふかふかのベッドに倒れこんだ。ボイン、と体が弾んだだけで、ダメージは無い。
「なんで…、何が、悪かったの…っ、これ以上私にどうしろって言うのよ…!」
悔しさや怒りが胸の内でごちゃ混ぜになり、思わず、堪え切れなかった涙が零れ落ちた。ひょっとして一生、このループ世界から抜け出せないのではないだろうか。
そんな考えが脳裏によぎって、ゾッとした。
「…ッ、ぉ、か、あさん…っ」
一度涙が零れると、ポロポロと後から後から零れて落ちる。
せっかくメイドさん達に整えてもらったシーツが、涙で滲んだ。
姿が7歳児になると、心まで幼児化するのだろうか。心細くてたまらない。もし、あの世界で失踪したということになっていたらどうしよう。この世界が夢ならば、現実世界の自分はひょっとして、事故か病気で眠っているのではないか。考えないでいようと思っていた不安が、一気に押し寄せて来た。
「もう、無理だわ…誰か、助けてよ…ッ」
何度殺されれば。何度、苦しみと痛みを受け入れれば、解放されるのか。
もう何も分からない。途方に暮れ、絞り出すような小さな声は、顔をベッドに押し付けている為か周りに響く事無く、吸いこまれて消えた。
瞬間。
「失礼します」
小さなノック音と共に、扉が開かれる。
その声変わり前の男の子の声は、耳慣れたものだった。
慌てて涙を拭うも、彼がはっ、と息を呑むのが分かって、時すでに遅しなのだと分かった。
「あ、…ごめん、レオン」
口をポカンと開けて呆然とこちらを見つめてくる彼の名は、レオンハルト・ド・ヴェンクハイム。このウォールデン家に長年尽くしてくれている騎士団団長の一人息子で、自身も伯爵の肩書きを持っている。
ダークブラウンの髪は短く切られ、海と空を混ぜたような青い瞳は今は驚きに満ちていた。
彼はいわゆる幼馴染だ。物心ついた時からアリシア直属の騎士として傍にいてくれているが、同い年だからと言えど、彼は”騎士”としての姿勢を崩さない。
7歳でありながら剣を携え、必要最低限の会話のみで、護衛をしている。
2回アリシアの人生を体験したが、彼の笑顔を見た事は無い。それどころか、会話も数える程度だ。故に、驚いた。
(わぁ、鉄仮面がこんなに驚いているの見るの始めてだわ)
何を言っても何をしても感情を出さない。彼の事を心の中で”鉄仮面”と呼んでいた。
その鉄仮面が勢いよく走り寄って来る。
「どっ」
(…ど?)
彼がようやく口を開いたと思えば、意味の分からない濁音だった。
「どうッ、ど、どうっされたんですか」
(私は馬か)
あまりにも、どうどう言われすぎて思わずそう心の中で突っ込む。
「あ、ごめんね、レオン。ちょっと、怖い夢に魘されて…」
笑顔を浮かべて見せる。
本音を言うなら、今現在悪夢を見ている真っ最中のようなものなのだが、それは心の中にそっと置いておいた。
レオンは何度か目を瞬かせた後、少しだけ俯く。
「そ、そう、ですか…」
ホッとしたような、それでいて少し気恥ずかしそうな表情に、今度はアリシアが目を瞬かせた。トータルで何十年と彼と一緒に居たが、初めて見る表情ばかりだ。
もしかすると、いや、限りなく低い可能性だが。
「もしかして、心配、してくれたの?」
恐る恐るとアリシアが問いかけると、俯いていた彼が跳ねるように顔を上げた。
鉄仮面が更に強固さを見せ、グッと眉根に皺が寄っている。
「当然です。アリシア様の身を護るのは私の任務ですから」
淡々と紡がれる言葉に、アリシアは小さく溜息を吐いた。
「…レオン、私達幼馴染なんだから、もっと別の理由で心配してくれないの?」
「幼馴染など、恐れ多い言葉です。
正式な儀式はまだ出来ませんが、既に私はこのウォールデン家に忠誠を誓っています。故に、貴女様の身を案じました。別の理由とは、どういった事でしょうか?」
(この鉄仮面!)
不安定な精神状態に全力投球される言葉の数々に思わずアリシアは心の中で地団太を踏んだ。分かってはいる。彼は幼い頃より親から従者が何たるかという訓練を受け、最早洗脳に近い状態なのだ。
それを分かってはいるが、アリシアは思わず頭を押さえた。溜息が自然に零れる。
(もしレオンが友達として傍に居てくれたら、もうちょっと気持ちが楽だったなぁ)
思い返すのは1度目2度目の人生だ。アリシアの強大な闇の力のせいか敵は多く、公爵家だからか表立って悪くは言われないものの、周りからの視線とプレッシャーは相当なものだった。特に王子がヒロインのサラに心を奪われた後など、悲惨なものだ。『捨てられた哀れな公爵令嬢』。そう後ろ指を刺されたのだ。
それら全てを一人で背負った。ゲームのアリシアがそうであったように。元の世界に帰る為だと思ったからこそ、ただひたすらに耐えた。だが、その耐えた結果が、3度目のループだ。
ふつふつと。
ふつふつと、溜まりに溜まった怒りが、胸の内から込み上げてくるのを感じた。
(もう、知るもんか)
唇を、強く強く噛み締める。
(これだけちゃんと悪役をやって、元の世界に戻れないって言うんなら、もういい)
その細い肩が小刻みに震える。
「アリシア様?」
急に黙り込んだアリシアの顔を、レオンが覗き込む。その目が、大きく見開かれた。
(これからは、私の好きにやるわ)
アリシアの漆黒の瞳に、光が宿る。まるで漆黒の海に浮かぶ月のようだ。
その瞳が、真っ直ぐにレオンに向けられる。
「…まぁ、そうよね。幼馴染って言っても、会話も数える程度しかしてないし。
というか、こんなに長く話したの初めてよね?」
「はい。…身の程を弁えず、申し訳ありません」
「ちょっと、何でそうなるのよ」
アリシアが小さく苦笑を零した。
「私、嬉しいのよ。貴方が例えどんな理由であっても、私を心配してくれて」
「嬉、しい、ですか?」
レオンが僅かに驚いたように目を見開いた。
2度の人生の中において、彼とここまで会話をし、彼の表情が僅かではあるが、変化した所を見た事は無い。
当然だ。自分がそうなるように行動していた。『アリシア』は、公爵令嬢としての誇りを何より大事にしている女性だ。だからこそ、騎士であり従者であるレオンとは一線を引いている。例えレオンがアリシアを身を挺して守ろうとも、アリシアはそれを『当然の事』だと受け止め、礼の1つも言わないだろう。良くも悪くも公爵家として、レオンの主として、覚悟と誇りを持った女性だ。
貴族としては、きっとそれが、正しい姿だ。
(でも、それももうやめるわ)
どれだけ『アリシア』を演じたとしても、元の世界には戻れなかった。
(私は、”私”として生きる)
これは、自分なりの覚悟だ。
自分の運命への宣戦布告が今、胸の内でひっそりと成されたのだった。
「えぇ、嬉しいわ。良ければ、これからもこうやって普通に話してくれないかしら?」
「恐れ多い事です」
「だめよ。貴方が話かけなくても、私から話しかけるわ」
アリシアがそう言うと、レオンが少しだけ困ったように眉を下げた。
(やだ、ちょっと楽しい)
その僅かな表情の変化が、妙に彼女の悪戯心を刺激する。
「しかし…」
「ねぇレオン、私今日誕生日よ? 少しくらい我儘聞いてくれてもいいじゃない」
アリシアがそう言うと、レオンは言葉に詰まった。
この年になって、年甲斐もなく我儘を言う事になるとは思わなかったが、だがいざやってみると意外に楽しい。
何しろ、表情には僅かにしか出ないものの、あの鉄仮面が困っているのだ。これほど面白い事は無い。
「…私は、何も面白い話など出来ませんが」
やがて、長い長い沈黙の後、絞り出すようにレオンが言った。
自分で言いだした事だが、アリシアは思わずポカンと口を開けた。
(てっきり、断られると思ったわ…)
アリシアがどれだけ我儘を言って好き勝手をしたとしても、ゲームの流れは変わらないと思っていた。
2度のアリシアの人生において、彼は背景と同化するようにアリシアの後ろに控えていた。このゲームの中で、それが”あるべき姿”なのだろう。
だが、変わるのだ。たった一言で、僅かかもしれないが、その”あるべき姿”が変わるのだ。
「えぇ、それで充分よ」
アリシアが、笑顔で手を差し出す。
レオンが戸惑うようにその手とアリシアを交互に見る。
そうしてようやく、おずおずとその小さな手に、レオンの手が重なった。
剣技の練習のせいか、彼の手は年に似つかわしくなく、ごつごつと硬い。
ここからが、本当の”スタート”だ。握りしめた手の平の硬さと温かさを、心に刻む。
どうせループする世界ならば、自分らしく生き抜こう。
「…今日のアリシア様は少し変ですね」
「あら、そう?」
今はただ、この鉄仮面が戸惑う姿が、ただただ楽しい。
****
眩しい。思わずアリシアは目を細めた。
「お嬢様、そんな険しい顔なさらないでください。可愛い顔が台無しですよ~」
そう言って困ったように笑うのは侍女のソフィアだ。
顔に浮かんだソバカスは、最早彼女のチャームポイントのようによく似あっていて、青色の瞳はいつだって好奇心旺盛にキラキラと輝いている。
オレンジがかった赤髪が夕陽のように綺麗で、何度も切ろうとするソフィアを必死に止めたのはアリシアだ。
「だって、眩しいんだもの、このドレッサー」
ダイヤがそこかしこに散りばめられているドレッサーは朝の陽ざしを浴びて、躊躇なくアリシアの瞳を攻撃してくる。
「あら、旦那様がお嬢様を愛している証拠ですわ」
そう、このドレッサーはアリシアが3歳の時に父親が購入したものだ。
7歳の誕生日に”戻ってくる”アリシアだが、その記憶もきちんと引き継がれている。
周りからは『黒姫』だの『闇の女王』だの恐れられているアリシアだが、両親はそんな彼女の事を心の底から愛していた。少なくとも何十年も、”家族”として暮らして来て、情などは、とっくに移っている。今では、本当の親と変わらないぐらいに感謝も尊敬も、愛情も持っているつもりだ。
(…今度は、幸せにしてあげたいなぁ)
元の世界に帰るという目標の為に、2度、両親を悲しませている。
どうせループする世界なのだ。今回は両親に幸せになってもらいたいと思った。
「お嬢様、今日は王子様もいらっしゃるんですってよ」
ドレッサーの前に座ったアリシアの黒髪を優しくセットしながら、ソフィアが言う。そのセリフを聞くのは、今回で3度目だ。
「私、そろそろじゃないかって思うんですよ」
「なにが?」
櫛を持って、手をきっちりと動かしながら、ソフィアの瞳がキラキラと輝く。
何度か見たその姿を鏡越しに見ながら、アリシアは小さく苦笑を零した。
「今日こそ、お嬢様と王子様の婚約発表があるんじゃないかって思うんです!」
(正解よソフィア)
そう、今日行われるアリシアの7歳の誕生パーティー。
公爵家の娘の誕生日パーティーだ。錚々たる面々が訪れる予定である。
勿論その中には、王族である王子と、国王も来賓される予定だ。
公爵家とは言え、王族がわざわざ足を運ぶなど例外中の例外だが、王族としてもアリシアの機嫌を損ねないように一層の注意を払っているのである。それだけの”力”が、アリシアにはある。そうして今日、王子との婚約発表が果たされるのだ。勿論この時点で知るのは、アリシア1人だろう。
「何でソフィアがそんなに嬉しそうなの?」
「だって、うちの可愛いお嬢様ですよ!王族ぐらい高貴なお方にしか、嫁いでほしくありませんもの」
鏡越しに、彼女の笑顔が花開くのが見えた。つられるように、アリシアも頬が緩む。彼女の愛情は本物だ。当然ソフィアにその記憶は無いが、前回アリシアを庇えば極刑になるだろう局面で、守ろうとしてくれたのだ。
「ふふ、私が王妃様だなんて似合わないよ」
「いいえ、そんな事ありません!お嬢様は天使のように可愛らしく、使用人にさえ気遣いを下さる優しいお方です」
熱弁を振るいながらも彼女のヘアセットの手は止まらない。
彼女のアリシアを誉め千切る言葉も同様に止まる事は無く、こうなるとどうしようもないことは分かっていたので、アリシアは苦笑交じりに聞き流した。
(婚約発表は今日。それって、もう変えることは出来ないのかしら…?)
アリシアのバッドエンドの種類は多岐に渡るが、どれもこれもきっかけは『王子』である。ヒロインが彼に近づく事によって、アリシアはバッドエンドに一直線になってしまうのだ。
もし、レオンとの関係が僅かばかり変わったように、その関係性を変えることが出来たのなら…。
「そろそろ時間です」
その時、小さなノック音と共に、扉の外から声が響く。レオンだ。
護衛として、扉の外に控えてくれていたのだ。
「あっはーい!」
ソフィアは慌ててそう言うと、手早くヘアセットを終えた。
***
いつもより豪華なドレスに最初は歩くのも苦労したものだが、今は慣れたものである。赤色のドレスは彼女の黒髪によく映えた。腰に巻き付けられた真珠が美しい。
7歳にしてヒールを履くとは、貴族の娘には毎度ながら同情である。
「既に来賓の方々はホール内に入られています」
ホールに続く扉を前に、レオンがそう言ってドアノブに手を掛ける。
ここで頷けば扉が開く。先ほど僅かながらに頭に浮かんだ”可能性”。それを模索してみるのも良いかもしれない。
そう考えると、3度目のパーティーであるのに少し緊張した。
この扉を通れば、一人だ。レオンは会場の警護に回る予定である。
「…レオン、1回だけ、手を握ってくれる?」
あのごつごつと硬い、努力をした手を握れば、少し心が落ち着く気がした。
レオンは一瞬、目を見開いた。それもそうだ、こんなお願いを今まで一度たりともした事は無い。
少し間が空いて、レオンは躊躇うようにゆっくりと、手を差し出した。
「…私の手で、宜しければ…」
そう言うレオンの表情は動かない。きっと盛大に驚いているだろうに。
先ほど一瞬見せた驚きは鉄仮面の奥に引っ込んでしまった。
「ありがとう」
そっと手を握る。やっぱり、ごつごつとした感触だ。肉刺が出来て、潰れて、また出来て、その繰り返しで出来上がった皮膚である。それだけ真っ直ぐに努力を重ねている手を握っていると、少しばかり緊張していた心が解れていくのを感じた。冷えていた手に、彼の温かさを分けてもらい、ゆっくりと手を離す。
「よし、いきますか!」
揺らいでいた漆黒の瞳に、しっかりとした意志が灯る。
レオンはその表情を見た後、小さく頷いて、ドアノブに手を掛けた。
『アリシア・フォン・ウォールデン嬢のご入場!』
執事の1人が声を張り上げた。
扉を開けた時に耳に入ってきた人の話し声がピタリと止まり、真っ直ぐに、様々な視線がアリシアに突き刺さる。
アリシアはスカートを広げ、会場全体にお辞儀をした。瞬間、拍手が鳴り響く。
彼らは皆笑顔を浮かべ祝福してくれてはいるが、その眼の奥は皆それぞれ一様に怯えていた。
アリシアはその拍手を受けながら、レッドカーペットを歩く。
レッドカーペットの周りには大きな丸いテーブルがいくつか置かれ、立食パーティーになっていた。
少し歩くと、少しだけ段差になり、立食スペースより頭一個分高い場所につく。
そこには両親と、中央の豪華な椅子には国王が腰かけていた。
金の髪にエメラルドグリーンの瞳。顎鬚を蓄えた国王の名は、ルドルフ・ヴィ・フィルマメント。確か30代の若い王だ。椅子に堂々と座るその姿はまさに王者。さながら、ライオンのようである。
「久しぶりだな、アリシア!」
目が合った瞬間、豪華な椅子から腰を上げ、満面の笑みでアリシアの手を両手でギュっと握りしめる。
「見ない間に随分大きくなったな~!何歳になるんだっけ?」
「え、えっと、な、7歳、です」
「そうかそうか~!子どもの成長ってあっという間だなぁ~」
顎鬚を触りながら、うんうん、と納得したように頷く。
これだ。この人懐っこいライオンこそ、この国の王である。
竹を割ったような性格で、時に豪快に、治世に関しては冷静沈着に行う、賢帝だ。
お陰でフィルマメント国は他国に脅かされず、何年も平和を築ぎあげている。アリシアには親戚のおじさんのような対応をしてくれるので、毎度面食らってしまうのだ。
「陛下、娘が驚いていますよ」
くすくす笑いながら、父が助け舟を出す。
「おっと、悪い悪い。アリシア、誕生日おめでとう」
ぽんぽん、と頭を撫でられる。その大きな手で、どれだけの人を守っているのだろう。アリシアは頬を緩め、小さくお辞儀をした。
「アリシア・フォン・ウォールデンが陛下にご挨拶申し上げます。
本日はお忙しい中お越し頂き、ありがとうございます。ヴァスティナ神のご加護がありますように」
ヴァスティナはこの国で信じられている唯一神。
それぞれが握って生まれてくる魔力の源だと言われている。
「…ッおい、ジルベール」
片手で顔を押さえ、小刻みに震えながらルドルフが言う。
ジルベールは父の名だ。
「いつの間にこんなに立派に育てたんだよ…!俺泣きそう」
エメラルドグリーンの瞳にみるみる涙が溜まっていく。南の島の海のようで、綺麗だ。賢帝と名高いルドルフだが、アリシアにとってはやはり優しい叔父さんといったイメージが強い。
「リズも、もう7歳ですからね」
父がそう言って、そっとアリシアの頭を撫でる。
リズは、アリシアの愛称だ。とは言え、他の人間は一線を引いてくるので、両親しか呼ばない愛称ではあるが。
「リズ、誕生日おめでとう」
ジルベールがそう言って微笑む。黒曜のような瞳で、じっとジルベールの顔を見た。3度目の人生。3度目の誕生日。だがそれでも、両親の顔をこうやってちゃんと見たのは、初めてのような気がする。
(そっか、私、”ちゃんと”生きようとするのは、初めてだから…)
2度の人生は、アリシアとして徹底していた。
必死だった。だからこそ、大事なモノを見落としてきたのかもしれない。
満面の笑みで、心から祝福をしてくれる両親の顔を、しっかりと、心に刻む。
「ありがとうございます、お父様」
アリシアの表情に、自然と満面の笑みが花開いた。
「皆様も、お忙しい中足を運んで頂き、ありがとうございます」
先ほど歩いて来たレッドカーペットの方に向き直り、スカートを広げてお辞儀をする。ほんの少し、彼らの動揺が会場の空気を伝って感じ取れた。
それもそうだ、多分”コレ”は、ゲームの設定上有り得ない。過去2回の誕生パーティーでは、アリシアはただ黙って立っていただけだった。
だが、元来の彼女の性格上、わざわざ来てくれた人たちに礼の1つも言わないなど、有り得ないのだ。
(社会人として、挨拶は基本中の基本よ)
社畜根性が染みついている事を悲しむべきか否か、それは分からない。
「ご用意させて頂いた料理は全て、コック長が腕によりをかけて作った一品です。
美味しい料理を食べて、心を緩めて、ゆっくりと、お寛ぎ下さい」
そう言って、アリシアはもう一度深くお辞儀をした。
一度、戸惑ったように静まり返った会場だが、程なくして、小さな拍手が波紋を呼び、割れんばかりの拍手に代わる。
「おい、ジルベール…ッ、俺、ホント涙出て来た…」
「えぇ、私もです陛下」
背後で2人がそう言い合っているのを聞きながら、アリシアは小さく苦笑を零した。
「ねぇ、お母様、私皆様に挨拶周りをしたいんだけど」
親馬鹿二人に話したら、また話が長くなる。
そう判断したアリシアは、母親のマリーにそう問いかけた。
マリーはふわふわとウェーブを描いたブロンド色の髪の毛が美しい女性だ。
性格もその髪の毛同様にふわふわとしている。
「えぇ、いいわよ、リズ。私も一緒に行くわ」
「ううん、私一人で大丈夫」
「あらあら、でも、心配だわ…、迷子にならないかしら?」
「いや、お母様、こんな室内で迷子にならないから」
しかもこの場所は頭一つ分高い場所にある。どうやって迷子になるというのだろうか。それでも母は心配そうに頬に手を当てている。
どうやって言いくるめようか考えていると、復活したルドルフが口を開いた。
「あぁ、アリシア、ちょっと待ってくれ。もうすぐ俺の息子が、」
そう言った瞬間、
『ルーカス・ヴィ・フィルマメント殿下のご入場!』
執事の1人がそう声をあげた。
何度も見た光景ではあるが、アリシアはゆっくりと扉に目を向ける。
扉が開かれた先には、礼装に身を包んだブロンドの髪の少年が立っていた。
まるで絵本から抜け出してきた”王子様”のようだ。ルドルフと同じく、エメラルドグリーンの瞳が遠目から見ても綺麗だと思う。
(相変わらず、綺麗な男の子だわ)
純粋にそう思う。彼が美術館に飾られれば、きっと毎日満員御礼だ。
「父上、ウォールデン公爵、遅くなり申し訳ありません」
拍手を受けながら、レッドカーペットを慣れた様子で歩いて来たルーカスは、2人に向かってお辞儀をした。
「後学の為、同盟国に昨日まで滞在していたのですが、戻りが遅くなりました」
「いいえ、殿下。わざわざお越し頂いてありがとうございます」
ジルベールがそう言って、深くお辞儀をする。
「そんな、顔を上げてください。こちらこそ、御招き頂きありがとうございます」
そう言ってニッコリと微笑む姿は、まさしく完璧な王子様だ。
「アリシア嬢も、遅れて申し訳ありません。それと、お誕生日おめでとうございます」
完璧だ。完璧なまでの、―…愛想笑い。
(さすが腹黒王子)
”腹黒王子””は、ゲームのファンがつけた彼のあだ名だ。表面上はニコニコと愛想を振りまき完璧な王子様だが、好感度を上げると彼の本性が明らかになる。穏やかな声と笑顔で覆いつつ毒を吐くのが、この腹黒王子だ。彼は執着心が強く、負けず嫌いで、時には冷酷な判断も躊躇わずに出来る人間である。
(でもそれって、次期国王としては、良い事なんじゃないかしら)
目の前で微笑む少年を、じっと見る。彼に二度命を奪われた自分が言うのもなんだが、あの時の彼の判断は正しかった。きっと彼は、良い王になるだろう。
(だからって、アンタのルート攻略した私に、愛想笑いは通用しないわよ)
ユリウス推しの彼女だが、ストーリーを全て知る為に、ほぼほぼのキャラは攻略し終えている。
「いいえ、殿下。お忙しいのにわざわざお越し頂いて、ありがとうございます」
(愛想笑いなら私の方が経験年数上よ…!)
見た目は7歳だが、その中身は実質の所…いや、悲しくなるのでやめておこう。
兎にも角にも、愛想笑いをした経験であれば負けない自信がある。
アリシアはニッコリと見事に微笑んで見せた。ルーカスが少し驚いたように目を見開く。
(…?なんか、様子変ね)
確かに元のアリシアの性格を考えれば、これほどフレンドリーに話し掛けるタイプではない。もしかしたら笑顔を見せたのは今回が初めてなのかもしれない。
「殿下、どうかされました?」
「あ、い、いえ」
ルーカスがハッとしたように視線逸らした。アリシアは益々怪訝そうな表情で首を傾げる。ルーカスの頬がほんの少し赤く染まっていたが、アリシアがそれに気づく前に彼は慌てて表情を正した。
「何だ何だ、しばらく会わない内に、仲良くなったのか2人とも」
そう言ってカラカラと笑うのはルドルフだ。
(いや、それは無いでしょ)
今まで、ルーカスと仲良くなれた事は一度も無い。7歳で政略的に好きでもない相手と婚約させられたのだから、当然と言えば当然だ。公の場以外で、彼と言葉を交わしたのは数える程度である。
(というか、多分私って、彼に嫌われていたんだよね)
彼は笑顔でいるものの、言葉の端々に苛立ちや怒りが込められていて、ヒリヒリと痛かった。
(アリシアって本当に可哀想)
”闇”の力を持ち、唯一好意を抱いた男性に嫌われ、最後はバッドエンドなんて、公式は本当に鬼畜の権化か何かだと思う。
(今回の人生では、私が幸せにしてあげるからね!)
今では自分がアリシアではあるが、自分の胸の内にそう語りかけた。
結果がどうであれ、またループするとしても、そう決めたのだ。
「あぁ、そうだ、ルーカス。アリシアが挨拶周りに行きたいらしい。
お前、エスコートしてやってくれ」
「えっ」
驚愕の反応を示したのはアリシアだ。『げっ』と言わなかっただけ、まだマシだろう。挨拶周りを申し出たのは今回が初めてだったので、まさかエスコート役を押し付けられるとは思わなかった。
「へ、陛下、私は一人で大丈夫ですから…」
「いいからいいから、遠慮するな」
(いやアンタが長旅を終えた息子に遠慮しなさいよ!)
飛び出そうになったその言葉をグッと呑み込む。
あわよくば、婚約をぶち壊そうと考えているアリシアにとって、王子との接触は極力控えたい所だ。
「俺達は大人の話があるから、子どもは仲良く料理でも食べて来なさい」
そう言われると、強くは言えない。公爵と国王にしかわからない仕事の話もあるだろう。だが、アリシアは知っている。過去2回中2回とも、その”大人の話”が終わったら、婚約発表に繋がったのだ。
だからこそ、どう答えようか考えあぐねていると、スッとルーカスが手を出した。
「アリシア嬢、私のことでしたら気にしないでください」
キラキラと、目を直接指で突いて来るような、眩しい笑顔だ。
思わずアリシアの頬が、ピクリと引きつる。
得意の愛想笑いを浮かべようと頑張るが、その出来栄えはあまり自信が無い。
「そ、そう、です、ね…」
渋々、その手を取る。手袋をした彼の手は、温かかった。
(珍しい…)
今まで、こうやって手を取ってエスコートをしてくれたことは何度かあるが、どれも全て、彼の手は氷のように冷たかった。
「行きましょう」
嬉しそうに微笑みかけられて、思わずアリシアは虚を突かれた。
「え、えぇ、宜しくお願い致します」
するりと、彼の腕に手を回す。
次期王として剣技に励んでいるせいか、彼の身体は年の割にガッシリとしていた。
こんなに上機嫌のルーカスを見るのは初めてだ。
不思議に思いながらも、不機嫌でいられるよりはまぁいいか、と納得して彼と一緒にゆっくり歩きだした。
****
挨拶周りが終わり、アリシアは会場の外に出た。
会場の大きなガラス張りのドアが開かれた先は小さな庭園になっている。
噴水が真ん中に堂々と置かれ、その周りには花壇や、ベンチなどが置かれ、会場に訪れた人々の憩の場となっていた。そのベンチに腰掛け、アリシアは一息つく。
(つ、疲れた…、挨拶だけで、こんなに大変な思いをするとは思わなかったわ…)
何しろ王子のエスコート付だ。
他の貴族達は微笑まし気に2人を見ていたが、話し好きの貴婦人達は事あるごとに質問攻めにしてきた。
『ご婚約なさるの?』『素敵、挙式はいつですの?』等々。女性がコイバナが好きなのは、どこでも同じなようだ。
(でも、ルーカスが居て助かったかも)
勢いに呑まれて言葉に詰まるアリシアとは対照的に、ルーカスは笑顔で受け流してくれた。さすがは王子だ。こういう事は慣れているのだろう。
「アリシア嬢、大丈夫ですか?」
その時、王子が飲み物のグラスを持って、そっと隣に座った。
「もしかしたら好みでは無いかもしれませんが、飲み物を飲むと落ち着きますよ」
「あっ、ありがとうございます」
まさかアリシアの飲み物を取りに行ってくれているとは思わなかった。
アリシアはありがたくグラスを頂戴する。緊張と、動き回ったせいか、酷く喉が渇いていたようで、一気に飲み干した。レモン水だ。口の中がさっぱりする。
「ありがとうございます、少し落ち着きました」
「それは良かったです」
隣に座ったルーカスが、そう言って、ホッとしたように笑う。
(本当に良い子だわ…)
今までの記憶の中のルーカス像とはあまりにも違っていて、アリシアは思わず戸惑う。将来あの腹黒王子になるのだとしても、今はまさに完璧な美少年である。
だが、何だろう、この違和感は。彼は、完璧なのだ。だが、掛け違ったボタンのような違和感を感じてしまう。
「それにしても今日は良い天気ですね」
考え込んでいたアリシアは、その言葉にハッとする。慌てて笑顔を浮かべる。
「えぇ、本当に。殿下は、長旅で疲れていませんか?」
「えぇ、心配してくれてありがとうございます。
私は立場上、色々な国に赴く事が多いので、長旅には慣れているんですよ」
そう言って微笑む彼の笑顔に嘘は無い。だが言いようのない違和感が、どうしても拭い去れなかった。
その瞬間。
「おや、話し声がすると思えば、このような所にいらっしゃったんですね」
丁寧な言葉に”嫌味”というスパイスを振りかけたような声が、辺りに響く。
そちらを見れば、少年が数人、会場内からこちらに歩いて来ていた。
彼らは『貴族』という大きな傘に入って、ふんぞり返るような連中なので、アリシアはあまり好きではない。
「ご機嫌麗しいようで何よりです、アリシア嬢」
そう言って、口の端だけを吊り上げ笑う少年は、エリック・ヴェン・モブリット。
ブラウンの髪を、まるでキノコのようにカットした髪型が特徴的で、ゲーム内にも登場する。ヒロインに想いを寄せて当て馬になったり、ただただ悪役だったりと、ルートによって彼の立ち位置は変わってくる。『良い仕事をするモブ』だとファンに密かに愛されていた。
「…モブリット卿、殿下の御前ですよ。挨拶も無しとは、あまりにも無礼ですわ」
通常であれば王族には頭を下げ、挨拶をした後、許しを得てからようやく王族の顔を見る事が許される。
「いいんですよ、アリシア嬢」
そう言ったのは意外な事に、ルーカス本人だった。
その口元には笑顔が貼りつけられている。先ほどよりもずっと下手な愛想笑いだった。
「彼は私の友人なんです。幼い頃から一緒に遊んだ仲なので」
(そんな裏設定があったのね…!)
ゲーム内では、接点が一つも無かった両者だったので、寝耳に水である。
「…ですが、親しき仲にも礼儀ありです。公の場で、殿下に挨拶をしないなど、反逆罪に問われても文句を言えません」
「殿下が良いと言われているのだから、良いではありませんか、アリシア嬢」
悠々とモブリットがそう言うと、取り巻きの連中が小馬鹿にしたようなクスクスとした笑い声を零した。…物凄く、嫌な空気だ。思わずアリシアの眉間に皺が寄る。
「そうだ、そんな事より、私達と一緒に遊びませんか?」
「…はぁ?」
さも”良い事”を思いついたような口ぶりに、思わずアリシアが素のトーンで苛立ちをぶつける。
王族への礼節は、”そんな事”と切り捨てて良いものではない。
だが、ルーカスは口元に笑顔を貼りつけて何も言わなかった。
「丁度隠れられるところも沢山あるし、かくれんぼでもしませんか?」
「…かくれんぼ?」
「えぇ、昔から王子と一緒に遊んだゲームです。
これだけの人数がいるからきっと楽しいですよ」
そう言って嬉しそうに笑う彼の表情は、子どもらしいものではなく、獲物を罠に嵌めようとする狡賢い大人のソレだ。
「もし負けた方は、勝った相手の言う事を何でも聞くって言うのはどうですか?」
「…そんな下らない条件で、参加する訳が無いでしょう」
「構いませんよ」
穏やかにそう言ったのは、ルーカスだった。
「殿下!」
「いいんですよ、アリシア嬢」
ルーカスが微笑む。モブリットが罠を用意しているのは明白だ。
なのに何故、勝負を受けるのかアリシアには理解出来なかった。
「さすが殿下!御心が広い!」
モブリットが嬉しそうに叫ぶと、取り巻き連中がクスクスと笑い声を零した。
「そうであれば鬼は、殿下にお願い出来ますか?」
「えぇ」
これも快諾だ。笑顔を崩さない彼に、アリシアは頭が痛くなるのを感じた。
「ありがとうございます殿下。
それでは、15時の鐘がなるまでに、我々全員を見つければ殿下の勝ち、一人でも見つけられなければ殿下の負け、ということでどうでしょう?」
「構いませんよ」
「ありがとうございます。それでは、後ろを向いて10秒数えてください」
「分かりました」
ルーカスは笑顔で頷き、指示通りくるりと背を向けて数を数える。
その間に、彼らはバラバラと散って行った。
呆然としていたアリシアだが、段々と怒りが湧いて来て、ルーカスに詰め寄った。
「…どういうおつもりですか、殿下」
「どういう、って?」
笑顔のまま、ルーカスは小さく首を傾げる。
どこまでも白を切る気だ。彼が、知ら無い筈は無いのに。
「あのモブリット卿は、”影”の力を持っています。
影のある場所であれば、その影で全身を覆い、姿を消せる事を、殿下はご存知な筈です!」
建物や光がある限り、影は生まれる。故に、かくれんぼともなれば、モブリットは最強なのだ。
「えぇ、知っていますよ」
「…ッでは、何故!」
「言ったでしょう、彼と私は幼馴染なんです」
貼りついた笑顔は消えず、どこか淡々とした声音で、ルーカスが言う。
「彼の事はよく知っています。
もし私が先ほど断れば、彼はある事無い事騒ぎ立てていた事でしょう」
確かに、元来、モブリットというキャラクターはそういう所がある。
「貴女の大事な誕生パーティーで、そんな騒ぎを起こしたくありませんから」
ルーカスはそう言って、微笑む。
「良いんです、彼からゲームを持ちかけられるのは初めてではありませんし。
彼の願い事を一つ叶えてあげれば、彼も満足するので」
彼の笑顔はまるで、天使のようだ。
だがアリシアにはその笑顔が貼りつけられたモノにしか見えない。
…あぁ、ようやく先ほどからの違和感を理解した。
(”完璧”すぎるんだわ、この人)
7歳で国と親の期待を一身に背負い、弱音も吐かず、その口元には笑顔を浮かべ、当たり前のように”我慢”をする。
乙女ゲームのキャラクターとしては、素晴らしい王子として映るのだろう。だが、血の通った人間としては、あまりにも完璧すぎて気味の悪ささえ覚えるのだ。
「…本当にそれで良いんですか?
貴方は王族です。その御身を軽視されているんですよ」
「えぇ、良いんです。いつもの事ですから」
「………では、聞き方を変えます」
一拍間を置き、ルーカスの瞳を見る。
視線が交差した瞬間、彼の瞳は動揺を見せた。
「”貴方”は、それで良いんですか?」
ようやく、不気味な愛想笑いが彼の口元から去った。
彼はポカンと口を開けている。アリシアはそれを、じっと見ていた。
アリシアの黒曜の瞳が、怒りに燃えている。
「わ、私、は…」
標的を”王子”から”ルーカス本人”に切り替えられ、ルーカスが言い淀む。
それでもなぜか、ルーカスは瞳を逸らす事が出来なかった。
「幼馴染に、見つかる筈のない隠れんぼを強要されて、馬鹿にされて、悔しくないんですか?」
「それ、は…」
ルーカスは言葉を失い、僅かに俯いた。
(…イライラしちゃ駄目。私は大人よ、落ち着いて。私は待てる)
煮え切らない反応に思わず手が出そうになって、ぐっと拳を落ち着かせる。
白黒ハッキリした性格の彼女にとって、彼の反応には苛立ちが募る。
やがて。長い長い沈黙の後、彼は俯いたまま、小さく笑みを零した。
「…………良いんです、それで円滑に事が進めば。私の事は、」
その言葉を聞いた瞬間、アリシアの頭の中でプツンと何かが切れる音が聞こえた気がした。
「殿下、失礼をお許しください」
ニッコリと微笑み、彼の前で一礼をして見せる。
「ぇ、うわぁっ!」
ルーカスが首を傾げる間もなく、アリシアの右拳が彼の胸ぐらを掴む。
苛立ちと怒りが込められた手は力強く、小刻みに震えていた。
「いい加減にしなさいよ、それで全てが丸く収まるとでも思っているの?」
どうにも、今のルーカスの姿は少し前の自分と重なる。
言いたい事も我慢して、それでシナリオ通りに事が進めば良いと思っていた。
「我慢したって、良い方向に転がるとは限らないわ」
我慢をした結果、アリシアは死を迎え、そしてこの世界をループした。
そんな先人の知恵を伝えた所で信じてはもらえないだろう。
アリシアは一度、小さく唇を噛み締めた。
「…確かに貴方は王族だし、我慢をしなきゃいけない事は沢山あると思う。
貴方の言動や行動一つで、戦争に繋がる事だってあるだろうから」
それだけ責任の重い立場なのだと、アリシアなりに理解しているつもりだ。
「だけど貴方が自分自身を大切にしないと、”貴方”が可哀想だわ」
矛盾した言葉だろうか。
だが結局の所、自分自身を一番愛せるのは自分でしか無いのだ。
「それに、貴方自身と、貴方の地位とプライドを守ろうと、毎日忠義を尽くしてくれている人達が大勢いるんだから。
その人達の為にも、貴方だけは、貴方自身を軽視しちゃいけないと思うわ」
王族にはその責任があると思うのだ。
民衆の上に立つ人間としての責任。それは、アリシアが思うよりずっと複雑で厄介なものである。腹黒王子と呼ばれる彼も、元は心優しい少年なのだ。
疲れたアリシアに、飲み物を取ってきてくれるような、優しい少年だ。だが王族の責任を背負い、我慢を重ねる事できっとどこかで歪んでしまったのだろう。
「ぼ、僕、は…」
一人称が変わった。ようやく貼りつけられた笑顔の奥から、本音が顔を覗かせた。
「”貴方”は、どうしたいの?こんな事をされて、本当はどう思っているの?」
その本音を、引きずり出す。ルーカスの瞳が、動揺したように揺れた。
「………本当は、こんな事、嫌だ」
長い長い沈黙を破って、ぽつりと、蚊の羽音のような小さな声が早口で紡がれた。
「昔はエリックと普通に遊んでいたんだ。
でもいつからか、態度がよそよそしくなって、僕以外の友達と遊んで、僕に意地悪をするようになった」
一度本音を引きずり出すと、芋づる式に次々に本音が出て来た。
アリシアは、掴んでいた胸ぐらをそっと離す。
「理由が分からなかったし、とても悲しかった。
これ以上嫌われたくなくて、エリックから提案されるゲームは全部受けたんだ」
彼の身体が、小刻みに震える。エメラルドグリーンの瞳に、徐々に涙が溜まっていった。
(見つけられる筈のない、かくれんぼ…、どんな気持ちで、探していたのかしら)
そう思うと、胸が痛い。
きっとモブリットのことだ。会う度に、このゲームを持ちかけていたのだろう。
「その度に僕は負けて、モブリットの言う事を一つ聞いた。
だから、気にしなくていいんだよアリシア。僕は、慣れているから」
そう言って、ルーカスは下手くそな愛想笑いを浮かべた。
「もう無理に笑わなくていいわ」
その愛想笑いを、アリシアは止めた。
代わりに、口の端を吊り上げ、ニッと笑ってみせる。
「この下らないかくれんぼ、私が終わりにしてあげるから」
「…え?」
ルーカスがきょとんとした表情で首を傾げる。
アリシアは、両手を頭上高くに挙げた。そうして、何かを掴むようにギュっと拳を握る。瞬間。
「うっうわぁああ!!」
数人の少年の叫び声が辺りに響き渡った。
会場内にもその声は響き、ようやく気が付いた大人達が何だ何だと顔を出してきた。
「なっ、何だよこれ!!!」
怯えたような声で叫ぶのはモブリットだ。
彼らはすぐ近くの木の陰に隠れていた。だが今は、地面から伸びる黒い大きな両手が彼らを一網打尽で捕まえていた。
「あら失礼、そんな所に居るとは思わなかったものだから」
アリシアはそう言って、中世の貴族よろしく、「オホホ」と笑ってみせた。
この大きな黒い両手は、アリシアの能力の1つ。影などの闇を具現化し、操る事が出来るのだ。
「なっ、何で俺らの場所が分かったんだよ…!」
モブリットがジタバタともがきながら叫ぶ。
「あら、ご存知ないのかしら?私の能力は闇。影も闇の姿の1つ。
その影に隠れた貴方達を引っ張り出すのは、私にとって引き出しから物を取り出すのと同じぐらい簡単なのよ」
「…!!」
愕然、という言葉を表情で表すなら、彼を指すだろう。
彼らはじたばたとした抵抗をやめ、大きな手の中でぐったりと項垂れた。
「ルーカス」
呆然としていたルーカスに声を掛ける。
アリシアの真っ直ぐな視線が、ルーカスに注がれた。
「理由が分からないのなら、直接聞くしかないわ」
「…ッ」
ルーカスの表情が、強張る。
気持ちはわかる。自分を嫌っているだろう相手と直接向き合うのは、勇気がいる。
2回ほど悪役を経験したアリシアは心の中で、何度も頷いた。
だが気持ちが分かるからこそ、その背中を押す事が出来るのだ。
「何かあったら私がこのまま握り潰してあげるから」
「物騒な発言やめろ!!」
モブリットがじたばたともがいた。アリシアは半ば本気だったのだが、ルーカスは冗談と取ったようで、クスリと頬を緩ませた。
「何だ、ちゃんと笑えるじゃない」
愛想笑いじゃない、本物の笑顔だ。
当然と言えば当然なのだが、そんな風に笑える事に、驚いてしまった。
ルーカス自身も驚いたように目を丸めた後、やがてゆっくりと、照れくさそうに笑った。
「ありがとう、アリシア」
そう言って、ルーカスは一歩、また一歩と歩み寄る。
そうして、捕らえられたモブリットの前まで辿り着いた。
彼は少し高い位置にいたので、ルーカスは意を決して見上げた。
対してモブリットは囚われの身でありながら、頬杖をついて、面倒そうに溜息を零している。
「…ッエリック、もうこんな事はやめてくれ」
「ッ何だよ…!王子だからって命令すんなよ!」
「命令じゃない、お願いだ…!
僕は、ずっと、悲しかった。僕達、良い友達だっただろ?なのに、何で…」
ルーカスが悲痛な表情でそう言うと、頬杖をついていたモブリットは、バン!と黒い手を叩いた。
「お前が!勉強だとか、剣技の練習だとかで、遊んでくれないからだろ!」
「え…、」
ルーカスがぽかんと口を開けると、モブリットは口を尖らせて、苛立ったように何度も黒い手を叩いた。
「何度も遊び行ったのに、全然遊んでくれなくなって…!
お前、王子だし、もう俺なんかと遊びたくないんだろ!」
「そっ、そんな訳ないだろ!エリックの方が僕と遊びたくないんだろ!」
「そんな訳ないだろ!人のせいにするなよ!」
ギャーギャーと、まるで子どもの喧嘩、いや、そう言えば2人共立派な7歳児だ。
アリシアは思わず頭を押さえた。中身はすっかり大人の耳には、彼らの騒音は頭が痛い。小さく溜息を零し、彼らが喧嘩に熱中している間に、他の取り巻き連中を解放する。
「あーもう、煩い!」
空いた黒い手で、ルーカスの体を掴み、そのまま二人の額と額を、ゴツンッと合わせる。
「~~!!」
二人が手の中で悶絶した。
勿論、かなり力加減をしているので、軽く額にたんこぶが出来る程度の衝撃だ。
だが、人の頭蓋骨は固いのだ。痛みは相当だろう。
「喧嘩両成敗!」
ビシッ!と2人を指さし、アリシアが怒鳴る。
まさに鶴の一声だ。シン、とその場一帯が凍りついた。
「アンタ達、仲直りするまでそこに居なさい!」
お構いなしに、アリシアは叫ぶ。
ルーカスとモブリットはお互いに気まずそうに視線を合わせ、言葉を失った。
闇を具現化したこの黒い手は、一度固定してしまえばアリシアが再度動かすまで、オブジェのように動かない。
アリシアは、まったく、と小さく言葉を零し、大きく溜息を吐いた。
「はっはっはっ!!!」
その時、笑い声が辺りに響き渡る。
「いや~英断だなぁアリシア。天晴な裁きだ」
ざわざわとした人込みの中かから、ルドルフが現れる。
息子がたんこぶを作っているのに、父親は涙を流すほど笑っている。
「アリシアの言う通りだぞ2人共。
女性の誕生パーティーで言い争うなど見苦しい。そこで反省しなさ、ははは!!」
厳しい顔で叱りつけていたルドルフだが、2人の姿を改めて見た後、盛大に笑った。
「いや~駄目だわ俺、あの姿見たら笑っちゃう」
(私が言う事じゃないけど、父親のセリフかしら)
ルーカスが不憫だ。二人ともようやく注目を浴びていることに気が付いたのか、バツが悪そうな表情である。
「まぁ何にせよだ。愚息がすまなかった、アリシア。
君の誕生日を台無しにしてしまった」
本当に申し訳なさそうに眉根を寄せ、ルドルフがアリシアの頭を撫でる。
「いえ、私も色々と失礼な事をしてしまったので…」
「アリシアは優しいな。先ほどから見ていたが、実に冷静だ」
頭を撫でてはいるものの、ルドルフの目には尊敬にも似た温かい光が宿っていた。
「それに比べて、うちの息子は…」
はあ、と長い溜息を吐き、大げさに首を横に振る。
そうして、ギャラリーの方を振り返り、”国王”の表情で口を開く。
「皆の間で噂になっている通り、
本来であれば、国の最高魔力、”闇”の持ち主であるアリシアと、我が息子、ルーカスの婚約をここで発表するつもりだった」
辺りに響き渡るように、大きな声で言う。
”婚約”。そのフレーズに、周りのギャラリーのざわめきが増した。
だが、アリシアはその言葉の真意に気が付いていた。
「するつもりだった、ということは…」
アリシアが期待を押し殺しながらルドルフを見ると、
「本当にお前は賢いな」
ルドルフは感心したようにそう呟いた。
「残念な事に我が息子は王族としての自覚も、紳士としての振る舞いもまだまだのようだ。よって、婚約については保留とする!」
人々の驚愕の声が混ざり合い、反響する。
(保留…)
そのざわめきの中で、アリシアは少しだけホッとしていた。
婚約の話を破棄するのではなく、”保留”。
少しだけ物足りない所はあるものの、ここで結ばれる筈の婚約を、引き伸ばすことが出来た。
(…やっぱり、変えられるんだ)
じんわりと、諦めきっていた心に熱が灯る。
レオンと言葉を交わしたように、この世界でちゃんと根を張り、生きていけば、運命を変える事だって出来るのだ。
何度も死を乗り越えたアリシアに、一筋の希望が射したように感じた。
「…アリシア、本当にすまなかったな」
「い、いいえ、そんな…!陛下が謝る事ではありません」
頭を下げられ、思わずアリシアが首を横に振る。
「ありがとう、アリシア。
だが、すっかり場の空気も壊してしまったことだし、俺とルーカスは、このまま帰るよ。解放してやってくれるか?」
「は、はい」
アリシアは小さく頷き、二人を捉えている黒く大きな手にそっと触れた。
すると、サラサラと落ちる砂のように分解され、空気中に霧散していった。
急に支えを失った2人は、どすん、と思い切り腰を打ち付けている。
「帰るぞ、ルーカス」
「は、はい…」
先頭を歩くルドルフの周りを、急いで護衛兵が固めていく。
その後姿を、ルーカスが慌てて追う。
「…」
その足が、ピタリと止まった。
「…っアリシア」
意を決したように、アリシアに駆け寄って来る。
「…すみませんでした、貴女の誕生日を台無しにしてしまって」
ルーカスが頭を下げる姿を、アリシアは少し驚いた様子で見ていた。
彼が自分に向かって頭を下げる事なんて、今まであっただろうか。
例えどんなに冷たい態度を取ろうとも、気にかけて、謝る事など無かった。
…心に刻む。これが、運命を変えるということなのだ。
「…いえ、それは気にしないでください」
笑顔を浮かべ、小さく首を横に振る。
「私も、色々と失礼な言葉遣いで、申し訳ありませんでした」
「ッいいえ!」
顔を跳ねるように上げて、ルーカスは首を振った。
アリシアと目が合うと、ハッとしたように、再度俯く。
「…僕は、先ほどの言葉遣いの方が、嬉しいです」
「…え?」
「もし、…もし、貴女さえ良ければ、これからも堅苦しい言葉遣いは抜きにして頂けませんか?」
不安そうな表情で、アリシアをそっと見る。
思わずアリシアは、うっ、と言葉に詰まった。
さすがは「エル」のメイン攻略対象。幼少期においても、その美貌は健在だ。
アリシアは一度小さく溜息を零した。その口元には緩やかな笑みが広がっている。
「…そういう貴方が、堅苦しい言葉使ってるじゃない」
「あっ、そ、そうですね、あ、いえ、えーっと」
丁寧な言葉が、癖になっているのだろう。ルーカスが慌てていると、
「ルーカス、行くぞ」
と、ルドルフが遠くから声を掛けて来る。その言葉により一層慌てたルーカスは、それでも尚、言葉が見つからない様子だった。
何か伝えなくては、と思っているのだろう。
だがその必死な様子を、アリシアは小さく笑った。
「別に、無理に何か言う必要ないわ。
これで一生のお別れって訳じゃないんだから」
「…え?」
「もし言葉が見つからないんなら、次会った時聞かせてくれたらいいから」
「…また、会ってくれるんですか…?」
信じられないとでも言うかのように、恐る恐ると、ルーカスが言葉を絞り出す。
アリシアは、ニッと口の端を上げて笑った。
「当然。貴方が良い子でいるのに疲れたら、いつでもうちに遊びに来れば良いわ。
何にも無いけど、料理と飲み物は最高に美味しいから」
「…ッ」
ルーカスの口が、への字に曲がり、そのエメラルドグリーンの瞳から、涙が零れ落ちそうになる。それを、必死に堪えているようだった。
「えっ、私、何か悪い事言った…?」
アリシアがオロオロとした様子で言う。
さすがに、許可されたとはいえ、王族相手に不躾だっただろうか。
そんな考えが過った時、ルーカスは零れ落ちそうな涙を、ぐいっと袖口で拭って、笑った。大輪の花が花開いたような、満面の笑みだった。
「ありがとう、アリシア」
その言葉に押し込められた感謝の気持ちが、アリシアに伝わってくる。
彼から手が差し伸べられる。今度はエスコートでは無く、握手だ。
感謝、親愛、友情。すべての感情を込めた手を、アリシアは笑顔で握り返した。
「またね、アリシア」
ぎゅ、と一度小さく力を込め、ルーカスは笑顔で離れて行った。
パタパタと父親の後を追う。その足取りは何だか軽いように見えた。
(またね、か…)
溜息と苦笑を同時に零す。
握手をされた手を、じっと見つめた。
本来であれば、バッドエンドに繋がるであろうルーカスとは、交流を控えた方が良いのかもしれない。
だが、もう知ってしまった。
あの小さな体で背負っている重責と、哀しいまでの自己犠牲精神。
それらを目の当たりにして、真正面から握手を求められて、その手を振り払う事など出来ない。
彼とは、良い友人関係を築いていきたいと思う。
(まぁ、色々とやること山積みなんだけどね)
彼女のバッドエンドは多岐に渡る。
今回の人生では幸せを掴む為に、すべき事を考えると頭が痛くなる程だ。
アリシアはうんざりしそうになった心を立て直し、表情を整え、静かにパーティー会場へと足を進めた。
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