第58話 熊田登場

「おうっ、お前らもきちょったんか」

 その時、熊田が突然あかねに現れた。

「あ、先輩」

 たかしが、繭の歌にくらくらしながらも、嬉しそうに熊田を見る。

「ねえちゃん、芋焼酎、ロックで、グラスにでっかい氷を入れちょくれ」

 熊田は、カウンターの向こうのママに向かって大声で言う。店内には店を揺らすほどの、凄まじい繭の歌が鳴り響いているが、熊田は、全く動ずることなく平気な顔をしている。

「はい、どうぞ」

 すぐにママがカウンターに、芋焼酎の入ったグラスを置く。

「おっ、サンキュー」

 熊田はそれを、肉厚のあるその大きな手で握ると、立ったままグイっと一気に飲み干した。

「ねえちゃん、もう一杯頼む。あと、ニンニクもな」

 熊田が、グラスの中のでっかい氷の固まりまで、バリバリと噛み砕きながら言った。

「ニンニク?」

 ママが少し驚きながら熊田を見る。

「生のやつを固まりでくれ」

「は、はい」

 ママは、料理用にストックしてあったニンニクの固まりを取り出し、皮を剥き始めた。

「どうぞ」

 ママはこれをどうするのだろうと、熊田の前に剥き上がったつるつるのニンニクを差し出す。熊田は出て来た生のニンニクの固まりを、そのままスナック菓子でも食べるみたいに、ポイポイと口に放り込んでは、その強烈な顎でぼりぼりと噛み砕いていく。

「先輩その食べ方変わってませんね」

「当たり前じゃ。これがニンニクの一番うまい食い方なんじゃ」

「昔からなのね・・💧 」

 その豪快な食べ方を、唖然としてみていた信子さんが隣りで呟く。

「おしっ、わしも歌うぞ」

 二杯目の芋焼酎もあっという間に飲み干し、ニンニクを食い終わった熊田は、繭の方を見て叫んだ。熊田は繭にづんづん近づいて行くと、一人気持ちよさそうに歌う繭からマイクをひったくった。

「あっ」

 繭が叫ぶ。

「助かった」

 地響きのような歌声が消え、全員が安堵の声を漏らす。

「あ、熊田コーチ」

 志穂が驚く。そこで、初めて選手たちは熊田の存在に気付いた。

「権蔵ナイス」

 思わず野田が叫んだ。

「やっぱ毒には毒だな」

 仲田が言った。

「コラァ~、何すんだ」

 しかし、繭はマイクを奪い返そうと熊田に飛びかかった。

「返せぇ~」

 しかし、小柄な繭が飛びかかっても、熊田は蚊ほどにも感じていない様子で、カラオケマシーンをいじっている。

「ええ~と、北の酒場通り、北の酒場通りはと・・」

「こらぁ~、返せぇ~」

 それでも繭は執拗に熊田に飛びかかる。しかし、やはり熊田は全く相手にしていない。

「こらぁ~」

 それでも繭は懲りずに飛びかかる。

「おっ」

 その時、カラオケマシーンの下のボタンに目が行き、熊田が腰を曲げた。 ボヨ~ン

 それと同時に、繭が飛びかかったため、偶然ヒップアタックのような形になり、繭は熊田のお尻に吹っ飛ばされた。

「うわぁ~」

 小柄な繭は、熊田のお尻に吹っ飛ばされ、ゴロゴロとあかねの床を転がった。

「ううっ」

 やっと止まって、繭が呻く。だが、繭は再び飛びかかろうと、すぐに顔を上げ熊田を見た。

「それっ、今だ」

 だが、そこへ宮間の掛け声と共に、選手全員が覆いかぶさるようにして繭を取り囲み、羽交い絞めにした。

「コラ~、はなせぇ~」

「絶対離すなよ」 

 宮間が選手たちに言う。

「はなせぇ~」

「まあまあ、おちつけ、な」

 繭が暴れるのをみんなでなだめて、羽交い絞めにしたまま、繭の席へと引きずっていった。

「まだ歌うんだぁ~」

「まあ、まあ」

 暴れる繭を全員が必死でなだめすかして、なんとか自分の席に座らせた。

「ふぅ~、一時はどうなるかと思った」

 繭を席に座らせると、宮間が右腕で額の汗を拭う。

「こいつの歌は、核兵器レベルだな。世界が滅びるぞ」

 宮間が真剣な表情で言った。

「こいつにはこれから絶対マイク待たせないようにしよう。ヤクザに拳銃持たせるみたいなもんだからな」

 宮間が自分を戒めるように言った。

「もともと、あなたが悪いんでしょう」

 そこに麗子が突っかかった。

「なんでだよ」

「お酒を飲ましたのはあなたでしょ。私は見てたのよ」

「そういうところはしっかり見てんだな。お前らしいわ」

「なんですって」

 ほっとしたのも束の間、今度は再び麗子と宮間が険悪な空気を醸し出す。

「まあまあ、宮間さん、麗子さん」

 野田たちが間に入る。しかし、当然そんなことで収まる二人ではない。

「もう我慢できない」

 麗子がヒステリックに叫ぶ。

「おおそうか、そうか、だったら、今日こそ決着つけてやろうじゃないか」

「いいですわよ。こっちも受けて立つわ」

 二人の怒りは頂点に達した。

「ぐぐぐっ」

 二人は歯ぎしりをきしませながら睨み合う。緊張状態は沸点に達した。その時だった。

「きた~の~、酒場通りには~♪」

 熊田の大音声が店内に響き渡った。

「うをぉっ」

 熊田は、繭など比べ物にならない程の、更なる強烈な音痴だった。

「うをぉ~、やめろぉ~」

 宮間が耳を抑え叫ぶ。しかも、さらなる大音声だった。

「うをぉ~、、どんな声だよ」

 野田が叫ぶ。

「やめろ~」

 仲田も叫ぶ。

「気が狂う~」

「このままじゃマジで気が狂うぞ」

 宮間のその言葉に野田と仲田が頷いた。 

 野田、仲田、宮間が決死隊となって、熊田の歌をやめさせようと熊田に近づいていく。熊田の凄まじい音声がビリビリと体にぶつかって来るのを、暴風雨に耐えるがごとく進み、何とか熊田のすぐ隣りまで三人は辿り着いた。そして、マイクを奪おうと、熊田に飛びかかろうとした。その時だった。

 ぶおっ

 熊田が豪快に屁をぶっこいた。

「うをっ」

 それを間近で、もろに直撃された宮間たちは全員が、のけぞりぶっ倒れた。

「くっさぁ~」

 全員が、鼻と喉を押さえる。

「意識が、意識が・・」

 志穂はくらくらしながら、席にもたれ倒れそうになっている。

「目が目が・・」

 仲田が目に涙を溜めしょぼしょぼさせながら叫ぶ。熊田のおならは、目に来る臭さだった。熊田から若干離れていた他の選手たちは、一斉にあかねの出口に向かって走った。そして、すぐに開き戸を開け、競うように思いっきり外の新鮮な空気を吸い込んだ。

「死ぬかと思った」

 全員、息も絶え絶えだった。

「よしっ、調子が出て来たぞぉ。次は河島英五じゃ」

 熊田は今度は酒と泪と男と女を歌い出した。

「飲んでぇ~、飲まれてぇ~、飲んでぇ~」

 おならをして気分すっきり、調子の出て来た熊田は更に気合を入れて、河島英五の酒と泪と男と女を歌い上げる。熊田の歌が地響きのように、店内に響く。

「きゃあ~」

 選手たちの悲鳴に似た叫び声が上がる。

「おっ、みんなよろこんじゅうな」

 それを、熊田は歓声と解釈し、さらに気合を入れて歌い上げる。

「飲んでぇ~、飲まれてぇ~、飲んでぇ~」

「きゃあああ~」

 選手たちの地獄の底からの亡者の叫びのような悲痛な叫び声が、店内に響き渡った。しかし、それも熊田の歌にかき消されていった。

「変わってないなぁ~」

 くらくらしながら、カウンターに座るたかしが一人呟く。

「あれも昔からなんですね」

 信子さんも、くらくらしながら返す。

「学生時代、寮のお風呂の鼻歌で、何人か失神したからね」

「・・・」

 信子さんは返す言葉もなかった。

 至近距離でもろに熊田の屁を食らった宮間たちは、熊田の足元ですでに伸びていた。

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