愚者のロマンス

 1


 オータムホロウには魔女が住む。

 スモモの杖を携えて、夜より暗いドレスを纏い、黒薔薇染めの大きな帽子。

 死人しびと色のおもての奥から、紅玉髄カーネリアンの瞳を輝かせ、今宵も獲物を見定める。

 恐るべき神の敵、中世よりの怪物、星の叡智の蒐集者。

 

 オータムホロウには魔女が住む。

 眩いガス燈の明かりを逃れ、冥いイバラの森で血に飢えて。


 §


「――で、その魔女はどこにいるんだ」


 トーマス・ジェイがそう訊ねた時、活気あふれる休日午後の公共酒場パブは、凍り付いた。汚れた手で燻製ニシンブローターを頬張る鉄道整備員も、ビールの泡で口髭を飾った駅馬車御者も、阿片の匂いをぷんぷんさせた新聞記者も、一様に動作を止め、青ざめた顔でカウンターに両手をついた発言者の背中を見た。

 酒場の店主は、胡乱な目でトーマスを睨み、深く息を吐き、磨いていたグラスをカウンターに置いた。地酒のハーブリキュールを注ぎながら、言う。


「訊いてどうするんだい、坊主……」


 坊主――そう呼ばれて、トーマスは不服そうに眼を細めた。確かに成人こそしていないが、田舎の労働者に子供扱いされるのは屈辱だ、と。

「これを見てわからないのか」

 と、トーマスは袈裟懸けにしたベルトからそれを外し、半ばまで引き抜いて見せた。50インチ近い、長剣――刃が放つ鏡のような光沢は、鋼のそれではない。銀、だ。


「ふん、不死アンデッド狩りか」


 店主はあからさまに侮蔑を露わにすると、リキュールにミルクを注いで、差しだしてきた。トーマスはグラスを掴み、訝し気に匂いを嗅いだ。ふわりと甘い。試してみると、水っぽくてなんとも微妙な味だ。ミルクを水で希釈しているな、と覚った。


「それで、その時代錯誤な得物で何をしようってんだい。昔、このあたりにいた人狼の狼群パックはとうに狩り尽されちまってる。老いぼれた吸血鬼はいたが、今や帝都で女王陛下のお膝元さ。狩人の助けなんて、誰も必要としてねえぜ」

「話を聴いてたのか。俺の獲物は魔女だ。噂は本当なのか。このオータムホロウに、魔女はいるのか」


 トーマスの声音は、無邪気な好奇心を隠せていない――珍しい昆虫を見つけた少年のように。

 呆れ顔の店主が、客の視線が集まっているのを見て手を振り払うと、談笑する声とグラスを打ちつける音が蘇った。誰もが、あえてカウンターのやり取りを無視しようとしている。店主は、声を低く抑えた。


「坊主……魔女狩りウィッチハントの騎士サマごっこなら止めときな。これまで何人もの狩人が、そうやって〝イバラの賢者〟に挑んだが――帰ってきた奴は誰もいねえ」

「じゃあ本当なんだな。早く居場所を――」

「いいから聴きな」


 節くれ立った手で制されて、トーマスは口を噤んだ。不服を表情にして、カクテルを一口嚥下する。


「確かに魔女はいるらしい――俺は姿を見たことはねえがな。けど、〝イバラの賢者〟は悪さをするわけでもない。ずっと、自分の住処に引きこもって、街には姿を現さねえ。もう百年以上も生きてるらしいが、人間が傷つけられたことは一度もない。奴を狩ろうとしたよそ者は別としてな」


 店主は、少年のグラスにリキュールをつぎ足した。今度は、混ぜ物をしない。


「普通だったら、仕事にあぶれた狩人が生きようが死のうが知ったこっちゃねえ――が、あんたはまだ若い。だから、悪いことは言わねえ。ほっときな。それで、地元に帰ってまともな仕事を見つけるんだな」


 トーマスは苦くて甘いリキュールを一息で呷った。幼い赤みの残った顔が、ますます赤く染まっていく。


「わかった――」

 そう言って、グラスをカウンターに滑らせて返す。

「――で、その魔女はどこにいるんだ」


 トーマスは、俺は馬鹿に見えているだろうな、と思った。

 それくらいの事は、解っている。けれど、狩人として名を上げるためには、本物の不死を狩らなければならない。そうしなければ銀の剣は、パレードを賑やかす小道具のひとつでしかない。

 店主はもはや、苦笑いを浮かべるだけだった。そして間もなく、ひび割れた唇の間から、呪われた秘密を漏らした。


秋のイバラオータムブライア荘」


 2


 棘ある植物の標本館、腐った土の醸造所、雨と風の威力を明示する大邸宅の住宅展示場モデルハウス。貴族支配の凋落を喧伝する、無残な廃墟。

 時は既に夕刻に至り、熾火のように灼熱する空に向かってカラスの群れが飛んでいく。


 まさに魔女の館だな。

 トーマスは心の内で呟くと、錆に塗れた鉄柵の門を通り抜けた。

〝秋のイバラ荘〟は、オータムホロウの街の外れ――黒酢桃ブラックソーンの群生する林の奥にひっそりと佇む、かつての荘園の廃墟だった。その名の通り、棘のある灌木がひしめくように繁茂し、敷地中に蔓を這い巡らせている。

 トーマスはオーバーコートとフェルト帽を台無しにしないよう、気を使って歩かなければならなかった。ひび割れた石畳から突き出た木の根にブーツの拍車を捕らえられながら奥へ入り込んでいく。

 途中、風化とイバラの浸食によって無残に朽ちた厩舎が目に止まり、ぞっと悪寒を感じた。馬と、それから鹿らしき偶蹄動物の白骨が積みあげられ、羽虫の苗床と化している。捨てられてから、間もない。


 やはり、いる。伝説や噂話ではない。確かにここには、恐ろしいものが潜んでいる。

 恐怖が現実的な形を成して想像力を圧迫し、トーマスは暗鬼に囚われかけた。小屋の影に、灌木の茂みに、曇ったガラス戸の向こうに、それがいる――そんな疑念を、振りはらうことが出来ない。


 ……落ち着け。


 無謀とも言える若さゆえの勇敢さと家名の矜持が、竦みそうになる足を前に進ませた。――名高い狩人の家名に、泥を塗ることは出来ない、と。

 トーマスは剣の柄に手を掛けながら進んだ。結局、なにが現れるでもなく母屋までたどり着いが、本番はまだこれから。

 母屋は風化が進んでいるとは言え、騎士物語ロマンスに登場するような中世趣味の荘厳な館だ。石造りの二階建て、屋根からは槍の穂先じみた尖塔が空を貫き、細長い窓と柱には幾何学模様の装飾が施されている。だが、ここですらイバラの猛威からは逃れられず、あらゆる外壁に痛々しく蔓が絡みついている。

 ここに至って、トーマスは銀の剣を抜いた。あの酒場の主人の助言に従って、逃げてしまえばいい――そう思わないでもなかった。だが、脳裏に浮かんだ父兄の残影がそれを許さない。緊張に乱れる呼吸を整えて、青銅の玄関扉を押し開き、静かな闇の広がりへと跳びこんだ。


 黄燐マッチルシファーを擦って角燈に火を灯すと、暗闇に隠された屋敷の内装が露わになった。

 時の蚕食で襤褸布と化した赤い絨毯、苔と黴が付着した大理石の階段、蜘蛛の楽園と化した窓枠と天井。あらゆる家具はリネンに覆われ、最後に使われたのはいつのことなのか。ひび割れた壁からはイバラの蔓が浸入し、内部さえ呑みこもうとしている。

 既に時刻は宵に至り、外からの明かりは殆どない。銀の剣が触媒となって角燈の黄色い光を増幅させ、影を駆逐する。潜む者の姿は、まだ見えない。だが、何処を探すべきか――


 トーマスは、気づいた。視覚と聴覚を研ぎ澄ませることに集中していたためか、今の今まで解らなかったもの。


 臭いだ。


 屋外に漂っていた獣の腐臭とはまた違う、熟成された甘やかな匂い。果実を煮詰めたジャムと香辛料、それと鉄のようななにか。

 臭いを辿る。とうにガラスを失った窓ばかりの屋内で、空気が澱むはずもない。二階ではなく、一階の何処かから漂ってくる。散在する錆びた燭台に明かりを灯していくと、僅かに不安が薄らぐ気がした。回廊に至ると、ホールでは霧のように濃密だった蜘蛛糸がない。何者か――心当たりはひとつしかないが――が、往来している証左だ。進む度、臭いは濃密さを増していった。が、回廊は途切れてしまった。二階の床が崩れ、行く先を塞いでしまっている。トーマスは角燈を掲げ、犬のように鼻を利かせた。


 見つけた。


 薄闇のなかで壁の一部だと思われたその場所は、地下へと下る狭い階段。胸が悪くなるほど、濃密な甘さが立ち上ってくる。臭いのみなもとだ。その入り口は黒々としたイバラの密生に覆われて、闖入者を防いでいる。だが、これならば“切り抜けられる”かもしれない。

 トーマスは刃を閃かせた。太い蔓を一撃で断ち切るのは大鉈でも難しそうだったが、意外な手応えが少年の目を見張らせた。銀の剣は容易に障害を斬り裂いたばかりか、イバラは焦熱に曝されたようにのたうちまわり、爛れ、瞬く間に灰と化して散った。銀の呪いが、効力を現している。


「ただのイバラじゃない。不死の血を……」


 トーマスは気づかぬうちにひとりごち、暗い階段の先――異民族的な意匠の施された鉄扉を睨んだ。予期する――あの先にいる者――この異形のイバラを創りだした者の姿を。蛇の目をした呪い師か、赤子の頭骨を首掛けした狂い人か、それとも竜に化ける怪物か。幼い日、父が語った不死狩りの物語を思いだす。


 大丈夫だ。ジェイ家の血を引く俺なら、成し遂げられるはずだ。


 掌に浮かんだ冷たい汗を何度も拭いながら、トーマスは階段を降りた。ゆっくり、ゆっくり、気配を殺して。その勇気の正体が、無知と無謀だと気づかずに。

 そして、鉄扉のハンドルに手を掛けた時、少年は自らの愚かさをはっきりと自覚した。


 3


 鉄扉が凄まじい力で、内側に開いた。ハンドルを掴んでいたトーマスは勢いのまま扉の向こうに引き込まれ、床を転がった。なにが起きたのかも自覚できぬまま、天地が反転した。

 床が上に、天井が下に――違う、ひっくり返ったのは自分だ。なにかに脚を捕らえられ、宙づりにされている。

 息を荒げながら視線を下に――否、上に向ける。棘のない蔓が両脚を絡めとっている。斬り裂こうと試みるが、上手くバランスが取れず刃は明後日の方向をすり抜ける。その勢いでますます体勢が崩れ、余計に狙いが定まらない。必死に剣を振り回しても、虚しく空を切るしかない。少年は錯乱に囚われていた。


「……久しぶりの訪問者が、ふん、こんな子供とは」


 冬のように冷たい声だった。

 トーマスの背筋は瞬時に凍りつき、呼吸も忘れ、思考も停止した。


 いる。そこにいる。

 恐るべき神の敵、中世よりの怪物、星の叡智の蒐集者――魔女が。


 トーマスはゆっくりと視線を巡らせ、声の方を見た。燭台に爛々と輝く、この世ならざる青い炎の光を背に、その輪郭が浮かびあがる。初めて目にする、本物の不死の姿が。

 スモモの杖を携えて、夜より暗いドレスを纏い、黒薔薇染めの大きな帽子。死人しびと色のおもての奥から、紅玉髄カーネリアンの瞳を輝かせ――


「……さあて、どうしてくれようか。その手足を切り落とし、串刺しにして火にかければ、さぞ美味いあぶり肉となるだろうな。残った臓物は、煮物の具材として都合がいい。プラムに、月桂樹の葉とシナモンを入れれば素晴らしいシチューの完成だ。血は樽詰めにして醸せば、最高のワインとして……いや待てよ。むしろ人狼流に、生のまま、生きたまま貪り喰うのも、時にはオツなものだと思わないか。礼儀作法には悖るが、な」


 トーマスは覚った。俺はこれから死ぬのだ、と。

 なんて俺は馬鹿なことをしたのだろう。不死狩りのいろはABCも知らずに家宝の剣を持ちだして、無謀にも本物の魔女に挑むなんて。

 お前は本当に魔女を殺せるとでも思っていたのか。父にも兄にも遥かに劣る、出来損ないのお前が。力も知識もなく、英雄になれるとでも。

 今更になって自分を責めるが、もはや現実は変わらない。“死”がその大鎌を振りあげて、いま正に振りおろさんとしている。運命は決した。逃れることは、出来ない。

 その確信が、恐怖の影に潜んでいた感情を呼び起こした。どうせ死ぬなら、怯え竦んで死ぬのではなく、勇気を以て臨むのだ。家名をこれ以上、穢さぬように。


「魔女め。こ、この、悪魔の売女め。お前など怖くないぞ」


 銀の剣を構える。


「来るなら来い。ジェイの名に懸けて、最期まで剣は手放さない。たとえ死ぬとして、俺の誇りまでは殺せないぞ」


 薄闇に浮かぶ魔女の口元から、嘲笑が消えた。紅玉髄カーネリアンの瞳が放つ紅い光が、じっと少年を見据えた。


「……まるで、騎士物語ロマンスの台詞だな。無様に吊されていなければ、様になっていたのに」


 トーマスは、かっ、と恥じ入り顔を赤くした。帽子は落とし、シャツはまくれてお腹が丸見え。とても格好良いとは言えない。


「侮辱するのか」

「……いいや、ただ可笑しかっただけだよ、坊や」


 魔女が、微かに冷笑した。

 すると、脚をきつく縛っていた黒い蔓が力を緩めた。急な変化を理解する間もなく、一瞬の後には拘束が解かれ、トーマスは落下した。怪我を負わずに済んだのは、真下のテーブルに横たわる血抜きされた鹿の死体がクッションとなったからだ。驚いて、剣を取り落としてしまったが。


「く、くそ。この魔女めっ」


 トーマスは慌ててテーブルから飛び降りると、床に転がる剣を拾い上げ、改めて“敵”と対峙した。

 寒気のする笑い声が聞こえた。邪悪で妖艶で、だがどこか楽し気な声。魔女は薄闇から一歩進み出た。少年のベルトにつり下がる携帯用角燈が、その姿をあばく。

 黒酢桃ブラックソーンの杖、喪服じみた黒いドレス、鍔広の帽子、紅玉髄カーネリアンの瞳、不死者アンデッド特有の青ざめた肌――噂に語られた通りに。だがこの魔女は、鷲鼻の老婆でも、鱗のある怪物でもない。手脚はすらりと長く、黒く長い髪は青みがかって艶やか。氷のように冷たくて繊細、空想めいて見事に整った美貌。髪と腕に纏わりつかせた黒いイバラとて異常ではあるが、むしろその神秘性を引き立てている。夢のように、あるいは悪夢のように美しい。

 これが、オータムホロウの魔女。〝イバラの賢者〟――

 トーマスは言葉も忘れて、その姿に見入るしかなかった。邪悪な竜が敵であったほうが、動揺も少なかっただろう。どうすべきか、なにを言うべきか、脳が痺れて定まらない。

 だから、奇妙な沈黙を破ったのは魔女のほうだった。


「まあ許せ、さっきのはほんの戯れだ。……それで、身の丈に合わない銀の剣を携えた若き狩人が、この〝イバラの賢者〟になんの用かな」


 皮肉にも魔女の言葉に助けられ、少年は正気を取りもどした。魅入られている場合か、こいつを斃すんだ――と、心に強いて、剣を構え直す。


「決まっているだろう。お前を殺し、世の邪悪の種を除くんだ。女王陛下のために、神の恩寵のために」

 そして、我がジェイ家の復興のために。


 トーマスは身構え、魔女の反応を待った。またイバラでこちらを捕らえようとするのか、それとも別な魔法を行使するのか――


 注意深く、周囲の様子を見定める。テーブルに置かれた解体前の動物、壁に掛けられた包丁や鋸、天井から伸びるイバラには肉や山菜が吊り下げられ、複数のかまどとオーブンがある。つまりここは、炊事場キッチン。火の入った竈には鍋が掛けられ、ぐつぐつと紫色のスープが煮えたぎっている。あの奇妙な臭いのみなもとはこれだった。

 トーマスはスープの具材を想像しかけて、止めた。考えなくても解る。吸血鬼、人狼、グール、それに魔女――不死者とはつまり人喰らいだ。考察の余地はない。

 怒りを新たに、若い狩人は魔女を睨んだ。美貌に騙されはしない。不死は邪悪な化け物だ。例外なく。

 だが、魔女が示した反応は、怒りの反撃でも冷たい嘲笑でもなく、どこか諦観を含んだような溜息だった。ドレスの裾を床に擦りながら、ゆっくりと少年に歩みよってくる。


「……若さゆえの無謀か、英雄志望の馬鹿かは解らないが、こんな狩人とはな。いや、狩人ですらない、夢見がちな坊やに、か。まあ、それも悪くない。愚か者には相応しい最期だ……」


 魔女は絞り出すように呟きながら、ふらふらと距離を縮めてくる。手にした黒酢桃ブラックソーンの杖を、床に捨てつつ。

 トーマスは息を飲んだ。素人目にも解る。魔女はあえて隙を晒している。この距離で、剣を突きだせば、瞬く間もなく冷たい心臓を貫くことが出来るだろう。これは罠か、それとも――


「なにをする気だ……」


 言いながら馬鹿な質問だと思ったが、それでも問うた。魔女もそう思ったのか、クスクスと笑った。


「なに、お前の願いを叶えてやろうと思ってな」

「……どういう意味だ」

「私を殺したいのだろう。いまどき、どれくらいの価値があるかは知らないが、欲しければ持って行け。この首を」


 魔女はそう言って、ぺたりと座り込んだ。少年の前に、跪くように。黒いレースの襟から、ほっそりとした青白い肌が覗いている。見上げる紅玉髄カーネリアンの瞳からは、なんの感情も読みとれない。不死の体温の冷たさを感じるほどの距離で、魔女の美貌はただ虚穴ホロウのようでしかない。


「……どうした、殺らないのか」


 奇妙そうに、魔女が言う。

 少年は剣を振り上げる。……だが、振り下ろす事が出来ない。

 これは罠か。否、違う。魔女は本気で言っている。ほんとうに、自分を殺せと言っている。何のために。追いつめられて諦めたのか。馬鹿な。この魔女は、あえて俺を解放した。今だって、その気ならば俺を簡単に殺せるだろう。何故そうしないんだ。


「なぜ、俺に殺されたがる」


 そんな事を質している場合か。理由なんかどうでもいい。剣を振れ。首を刎ねろ。相手は不死者だ。呪われた人喰らいだ。なにを躊躇う必要がある。禁じの血の根絶こそ、不死狩りの使命だ。父や兄なら、こんな好機を逃しはしない。


「……それを訊いてどうする。お前のような未熟者が名を上げる機会など、これを逃せばないかもしれないぞ。私の気が変わる前に、首を刎ねるなり、銀の毒で心臓を冒すなり、好きな方法で殺すことだ。それとも魔女らしく、火あぶりにするのが好みか。ならばそこのオーブンを――」

「なぜだと訊いてるんだっ」


 トーマスは怒鳴った。それを知らなければならない、と思った。不死狩りの流儀ではない。だが、このまま魔女を殺せば、幼い自尊心は永遠に癒えない傷を負うだろう。愚かさは自覚している。けれど、この剣を振り下ろす理由をくれ、と。

 魔女の表情が、僅かに揺らいだかに見えた。あるいは、錯覚だったのかも知れないが。


「……どの道、私はもう長くない。人で言えば、寿命ライフ・オブ・スパンが尽きるんだ。今日か、それとも明日か。それだけの違いなのだよ、坊や」


 理解に苦しむ言葉だった。


「どういう意味だ。魔女ってのは不死なんだろう」

「もちろん、そうだ。殺された場合は別として、寿命で死ぬことはない。……だが、醒めない眠りならば、それは死んでいるのと同義ではないか」


 醒めない眠り。

 不死に関する研究書で、読んだ記憶がある。一定の条件下で、不死者は永遠に朽ちないまま、永い昏睡に陥ると。それは――


「お前は、もしかして――」

「ふん、栄養失調というやつさ。不死になって以来、一度も人の血肉を口にしたことがないからな……」


 そんなことが本当にあり得るのか、とトーマスは訝った。

 この魔女は、強い。あのイバラを操る魔術を用いれば、人間のひとり、ふたり、簡単に捕らえることができるだろう。いや、今この場で俺を殺し、血を啜ればいいじゃないか。なぜそうしない。……あえて、そうしないのか。

 絶句するトーマスを見て、魔女はつまらなそうに目を細め、凍えるような息を吐いた。


「それで、どうするんだ。私を殺すのか、それとも殺さないのか」

 問われずとも、答えは決まっている。けれど――これは、ちがう。

「殺す」


 と、言いながら、トーマスは掲げた銀の剣を下ろした。


「けど、こんなやり方でじゃない。正々堂々戦って、その結果殺す」


 そう言い切った。

 だが、この答えは魔女の気に障ったようだった。無機質な紅玉髄カーネリアンの瞳に、みるみる失望の色が満ちていく。部屋の周囲でひしめくイバラの音が大きくなり、薄闇が深まっていく。未熟な狩人は、この変化に気づかない。


「……馬鹿な子供だと思っていたけれど、ここまでとはな。正々堂々、だと。ほんとうにロマンスの英雄気取りか。救いようがないな」


 魔女はもう少年への興味を失ったように、立ち上がって背を向けた。そして、煮えたぎる大鍋へと向かい、巨大な木のスプーンで中身をかき混ぜ始めた。立ち上る香りは、果物とスパイスと獣の血だ。トーマスは気抜けして、佇むしかない。


「お、おい」


「……なんだ、まだいたのか。私を殺す気がないんだったら、帰るんだな。これでも霊薬の研究で忙しいんだ。

 正々堂々と戦ってくれる他の不死を見つけて、好きに喰われるがいい」

「だから、おれはお前と――」


 その言葉を最後まで言うことは、許されなかった。


「もういい、帰れっ」


 魔女が怒りの咆哮を叫んだ瞬間、燭台に揺れる青い妖火が燃えたぎった。刹那にして、魔女の氷の美貌が変わる。

 青白い肌は黒い鱗と化し、帽子を吹き飛ばして禍々しい角が伸び、惨たらしい牙が露わになる。あまりにおぞましい、竜の容貌――人の皮に隠れた、不死の真の姿。


 恐怖に心臓を鷲掴みされたトーマスは、怖気のあまり身じろぎすら出来なかった。襲い来たイバラの触手に四肢を拘束され、内蔵を攪拌されるほどに振り回される。逃れることは、出来ない。意識が遠くなり、わけもわからないまま身体が加速していく感覚だけを覚え、そして気づいた時には、全き黒に染まった空と冷たい月を見上げていた。

 

 ごろごろと地面を転がり、コートもズボンも泥まみれになった。全身の関節が、酷く痛む。方向感覚を失いながら、なんとか起き上がって視線を巡らせれば、館の外に投げ出されたことに気づいた。

 空からなにかが降ってきて、足下に転がった。フェルト帽と、銀の剣だった。見上げれば、屋敷の内から伸びた長大な触手が、落とし物を運んできたことが解った。空を這いずる黒い蛇のようだったそれは、やがて屋敷の内部に引っ込んで、後には静寂と暗闇だけが残った。


 トーマスは屋敷に入り口を見た。玄関扉は黒いイバラのバリケードによって塞がれ、無言の拒絶を伝えている。


「なんだよ、くそ……」


 汚れた捨て犬のように萎びた少年は、悪態を吐きながら地面を殴った。理解のできない敗北感と致命傷を負った自尊心――それと、自分の愚かさへの嫌悪。

 

 今日はもう、なにも考えられなかった。


 4


 トーマスがオータムホロウに戻ったのは、星がひとつ、またひとつと消えていき、空が白み始めた頃だった。安宿で着替えを済まし、小さなベッドでリスのように丸まって眠り、目覚めた頃にはもう、太陽が頂点と地平線の中間点に落ちかけていた。


「それにしても、よく生きて戻れたもんだ」


 公共酒場のカウンターでオートミールをかき込んでいると、店主が葉巻の煙を吸いながら言った。そんなはずはないと解っているのに、なぜか責められているような気分になり、酷く惨めだった。トーマスは混ぜ物入りの不味いコーヒーを一気に飲み干すと、居心地の悪い人目から逃れた。行く当ても、無いままに。


 鏡のような抜き身の銀の刃に、幼気さを残した顔が映りこんでいる。はたして、自分はこんなに子供っぽい顔だっただろうか、とトーマスは考えた。


 兄が死に、次いで父が没し、トーマスの双肩に家名が託された時、ジェイ家の没落が始まった。いや、正確に言うならば、父の代からその気配はあった。喪服の女王が帝位に就いて以来、この国の不死狩りは衰退しつつある。偉大な魔女狩りウィッチハンターであった父も、晩年はパレードの御輿に担がれながら銀の剣を掲げることだけが仕事だった。ジェイ家の名に、かつてほどの価値はない。だから、せめて後世に家名を伝えるだけの勇名を得ようと家を出た。だが、それはなにも後先を考えない愚行に過ぎなかった。


 自分はどうしようもなく弱かった。そして、魔女を殺すことも出来なかった。機会があったにも、関わらず。


 だが、それを後悔しているのかと自問すれば、イエスとも答えられない。無抵抗な相手を殺し、得た栄誉にどんな価値があるのだろう。それともこう考えること自体、とるに足らない自尊心を守ろうとしているに過ぎないのか。

 いっそ他の不死を探すべきか――そうも思ったが、自分の弱さを知った今、あえて殺されに行こうとは思わない。あの魔女が言ったとおり、喰われるのがオチだろう。

 巡り巡る自問自答に意味はなく、結局、なんの結論も得られなかった。


 広場のベンチに腰かけながら頭を抱えていたとき、それが聴こえた。目を上げると、まだ灯らない昼間のガス灯の下に、まばらな人だかりがある。いまどき珍しい、流しの歌い手によるバラッドだ。

 手回しバーレルオルガンの伴奏に合わせ歌うのは、かつて聴いた、あの騎士物語ロマンス。若き騎士と心優しい異端の魔女の恋、竜に化ける邪悪な魔女王のお伽話。父や兄が嫌っても、トーマス自身は密かに好きだった、愚かしい作り話。


『ああ、騎士様。どうか私を引き留めないで。私は永久を生きるもの。貴方と共にあることは、決して許されぬ命なのです。だから、私を見送ってください。もし、そうでないならば――』


 曲が終わり、聴き入っていた子供たちから小さな拍手が起こった。大人たちの反応は、微妙だ。決して上手い歌ではなかった。飛ぶチップもあぶくほどだが、歌い手は笑顔で脱帽して、小銭を拾いあつめている。


 あれなら俺の方が上手く歌える――


 そんなことを思った時、トーマスは気持ちが軽くなっていることに気づいた。時の経過がそうさせたのか、それとも歌の内容が作用したのか。

 不意に、次にやるべき事が浮かんで、そうしようと定めた。あるいはこれも、無思慮な愚行なのかも知れないと思いつつ。


 もう一度、あの魔女を――〝イバラの賢者〟を訪うのだ。


 5


秋のイバラオータムブライア荘〟に再び到着したのは、昨日よりもいくらか早い夕刻だった。館の屋根で合唱するカラスの群れから視線を落とせば、玄関がある。昨夜は編み込みのようなイバラによって塞がれたはずの扉は、今、完全に開け放たれ、屋内の濃密な暗闇が夕日によって薄らいでいる。

 あの魔女は、昨日の部屋にいるのだろうか。それとも――


「なにを突っ立っているんだ」


 と、背後から凍える声が聞こえ、トーマスは心臓を吐きだしそうになった。剣の柄に手を掛けながら振り向けば、はたしてその姿がある。黒いドレス、氷の美貌、棘を纏った魔女――〝イバラの賢者〟。昨日との違いは、手にしているのが黒酢桃ブラックソーンの杖ではなく、フリルに縁取られた黒い日傘であることだ。不死者にとっては毒に等しい陽光を避けるためのもの。


「なんだ、誰かと思えば昨日の坊やか。ようやく私を殺す気になったのか」


 そんなことを、薄笑いを浮かべながら言う。トーマスは、その美しい人面の下に潜む、おぞましい竜の容貌を思い出し、怯んだ。すべきことがあったはずなのに、恐怖が思考を圧してしまった。


「まあ、なんでもいいがな。歓迎はしないが、鹿の血のワインだったいくらでも御馳走しよう。腐らせるのも勿体ないし」


 魔女は明らに冗談を言っている。思いだせば、自分を宙づりにしたときもそうだった。今更ながら、不死者にそんなユーモアがあることに驚いた。笑えるどうかは、別の話だが。


「……訊きたいことがあってきたんだ」

「私は訊かれたいことなどないがな」


 魔女の紅玉髄カーネリアンの瞳が怪しく光る。怒りを買えば、昨日のようにイバラに捕らわれ放りだされるか――もっと酷い目に遭うかもしれない。


「お前は人間を喰ったことがないって言ってたな。だから、もう永くないって――」


 ひとたびの、沈黙。


「――お前くらいの力があれば、人間なんていくらでも捕まえられるはずだ。今、この場で俺を殺してもいいはずなのに、そうしない。昨日だって、そう出来た。なぜなんだ」


 魔女は、じっと少年を睨んだ。その貌は永遠の若さを保っているはずなのに、どこか老いの影が差している。生きることに倦み疲れた、億劫と諦観が澱んだ闇が。


「……私に読心術マインドリーディングの力はないが、お前の考えている事はわかるぞ。私を殺しても後腐れしないだけの理由が欲しい――さしずめ、そんなところだろう」


 否定はしない。けれどそんなことは関係なく、好奇心がトーマスを導いていた。もっとこの魔女の事を知りたい――そんな欲求が。


「だがな、なにも躊躇うことはない。人を喰わぬからと言って、私が邪悪な魔女であることは間違いないのだからな」

「……質問に答えてくれ」

「まあ待て。私に付いてこい」


 魔女は日傘をくるくると回転させながら、館の裏手側に回り込んでいく。黒いスカートの裾から這いでたイバラの蠢きを目で追いながら、少年は後に続いていった。


 夕日が赤々と照らしだすのは、およそ三十を数える粗雑な墓石の連なり。銘はなく、手向けられる花もなく、ただ風雨に曝され、朽ちるのを待つばかり。ひとつひとつの墓の前には、それぞれ武器が立てかけられている。剣、手斧、鉈――どれも黒ずみ、黄色く変色しているが錆びつきはない。不死狩りの銀――これは、狩人の墓場だ。


「お前の同胞はらからたちだよ。皆、私が殺した」


 そう言った魔女の声はただ無慈悲で、一雫の弔意も悔恨も感じられない。ただ、そうであると言う事実を述べているだけに過ぎない。


「喪服の女王が不死の共同体サークルと協定を結ぶ以前、私も頻繁に狩人の訪問を受けたものだった。金目当ての無法者、神の盲信者、不死に夫を奪われた寡婦――死肉にたかる蠅のように煩わしい連中だった」


 不死の手は、冬の抱擁。黒革の手袋につつまれた細指が墓石を撫でると、白く霜が降りかかる。


「想像してみろ。私のイバラが奴らを八つ裂き、臓物を抉り取り、まさしく虫を潰すが如く蹂躙する光景を。跪いて慈悲を乞うたならば、手脚をもぎ、逃げられないようにしてから、霊薬の実験体として使ってやった。やがて、血と涙とあらゆる体液を垂れ流しながら、自ら殺してくれと懇願するまで、な」


 魔女の口角が露悪的に吊り上がる。まるで騎士物語ロマンスの敵役のように。


「誰もが自らの血だまりへと沈んでいった。絶望の表情を浮かべ、断末魔を絶叫しつつ。

 ……そうだ、思いだしたぞ。なかにはお前より幼い少女もいた。流行病で死にかけた母親の治療費のため、狩人となったと言っていたか。……だがそれも叶わず、この冬の手に心臓を掴まれた時、いったいなにを――」

「黙れっ」


 トーマスは怒りに任せて長剣を引き抜き、その切っ先を閃かせ――止めた。

 微かに触れた銀の刃が魔女の首筋に一筋の傷を負わせ、一滴の血が流れ、退魔の毒が白い皮膚をじわりと焦がしている。

 なぜ振り切らない。こいつを殺す理由なんて、もう十分だろう――

 トーマスは自問する。だが腕は石のように重く固まって、髪一本の幅ほども動かない。あと、ほんの少し刃を揺らすだけで、この邪悪を永遠に断てるというのに。


「……どういうつもりだ、なぜ斬らない」


 凍りついた魔女の瞳が、初めてなにかに乱れた。呆れと、それから惑い。およそ賢者などという仇名に相応しくない、理解の及ばないものを目にした窮状に。


「銀を振るう理由をわざわざ誂えてやったというのに、一体何なんだ、お前は。これで殺らなければ、お前は正真正銘の愚か者だ。ここに埋まる狩人たちの魂も怒り狂うだろうよ。だいたい、人として……ああ馬鹿馬鹿しいっ。なぜ魔女の私が人間性を説かなければならないんだ。

 さあ、斬れっ。私の手間を無駄にしてくれるなっ」

「まだ……質問の答えを聞いてない」


 トーマスは剣を細首に添わせたまま、絞り出すように言った。


「お前は大勢の――俺の同胞を殺した。この上なく、残虐に。……それを許すことは、ない」


 ならば、なぜ――


「だが、お前は殺した相手の血肉を喰わなかったんだろう。そう出来たのに、しなかった。それで今、飢え死にしかけてる。

 教えろ。なぜ人間を喰わないんだ。昨日だって、今だって、俺を殺して煮るなり焼くなりすればいいのに。なぜ、どうして死にたがる」

「……なんだ、血を啜らせてくれるのか」

「だから、そうしたいなら、すればいいだろっ」

 

 沈黙が、あった。


 どれくらいの永い時間をふたりは向かいあっていたのだろう。いったいどれほどの間、互いの瞳に映る自分の姿を見つめていたのだろう。館の上空を旋回するカラスの群れが森へ帰っていく。太陽は去り、月と星がやってくる。きらきら、きらきら――淡い星の光がふたりに降り注ぐ。


 やがて魔女は、ふっ、と笑った。嘲笑ではなく、冷笑でもない、仄かな笑顔で。


「……冷えるだろう。屋敷のなかに来るといい」


 §


 きっと数十年――もしかしたらもっと長い年月を、塵埃と蜘蛛の支配に預けていた部屋だった。薪のかわりに干からびたイバラがくべられて、朽ちかけた暖炉に火が熾った。けれど窓のガラスはとうに失われてしまっていて、熱が行きわたることはない。夜闇を照らす、古のランプだ。

 不死は炎を厭うと言うが――


「……エルムレスのブランデーだ。この屋敷が廃墟になる以前に父が買った物だが――まあ、明日があるとも知れないから、開けてしまおう」


 魔女は鋭い爪で瓶の口を切断すると、清潔なグラスに芳しく香る葡萄の粋を注いだ。自分と、それから少年のために。


「毒など入ってないぞ。まあ、坊やには早すぎる味わいかも知れないがな」

「……魔女も、まともな酒を飲むんだな」

「ふん、静かに眠りに落ちることが出来ると思っていたのに、わけの解らない子供の戯れに付き合わされているんだ。これが素面でいられるか」


 魔女は濃厚に熟成した古酒を一息に呷った。それを見てトーマスも、舌先でちろりと舐めた。確かにまだ自分には早いな、と思った。


「……私が人を喰わない理由、だったな」


 暖炉で爆ぜた火花の行く先を紅玉髄カーネリアンの瞳で追いながら、魔女は語りを始めた。若い美貌に潜んだ老いの影が、より強くなったように見えた。


「……私が人から魔女へと変わったのは、もう九十年以上も昔になるか。以来、不死にとって不可欠の食餌である人の血肉を、私は一度として口にしなかった。それは――」


 魔女の感情と連なっているのか、艶やかな黒髪に纏わりついたイバラが、不安気に蠢いた。


「――それは、たぶん、わずかにでも残った人間性の残滓を失うことを、私が恐れていたからだ。望んでこの身体になったわけではなかったからな」


 そうして吐いた魔女の溜息は、冬の風。口元のグラスが氷結する。


「不死になったものは、それまでの自分とはまったくの別人となる。かおと記憶とが、以前と同じであったとしても、もう人とはまったく乖離した存在に変わるんだ。言っていることが、わかるか」

「いや……」


 聞いたことは、ある。けれどそれが、ほんとうはどういうものであるかなど、不死者にしか解らないのだろう。


「吸血鬼どもは、蒙が啓けるエンライトメント――などというが、そんな単純なものではない。理性や倫理といった人なればこそ培うことが出来る感覚の一切が抜け落ち、飽くことない欲求と獣性が魂の支配者となる。殺戮への抵抗は失せ、人の血肉の魅惑に抗えず、愛を理解することも出来なくなる。脳髄の構造、それ自体が変わってしまうんだ」


 故に、例外なくすべての不死者は邪悪なのだ――と魔女の瞳が昏む。


「不本意に魔女と化した直後は――私にはまだ、心が残っていた。人でなくなった事への嘆きと悲しみ、それに、家族を愛しく思う気持ち。その記憶も、今や朧となってしまったが――」


 魔女は夜風が吹きこむ窓から、広漠たる暗黒の宇宙を見上げた。月の光が蒼白な面に射しこんで――魔性の美しさはいや増していく。その奥に隠れたおぞましい本性など、忘れ去ってしまうほどに。


「だがその時、私は抑え難い衝動にも気づいた。

 食欲だ。

 人の血を啜り、肉を食みたいという、不死の本能の欲求。まるで私のなかに、獣の魂が宿ったかのような。

 ……私は思った。この獣が命じるまま、一度でも人を喰らったなら、身も心もほんとうの化け物へと変わってしまう、と。だから私は、せめて人であった名残の一片だけでも失うまいと、狂おしい飢えに耐える道を選んだのだ」


 魔女が笑った。自嘲なのか、本能の疼きへの抵抗なのか。

 トーマスは、それを聴いて、見て、ようやく気づいた。なにが自分の剣を止めたのかを。


「もっとも、ほんとうにそれが意味があったかはわからない。時の運航は私を着実に蝕み、人間性を奪っていった。私の首を狙ってやってくる狩人を返り討ちに殺していくたび、最初は感じていた嫌悪と震えは消え、愉悦と享楽とが湧きあがるようになった。

 奴らが流した血の臭いを嗅いだとき、目覚めそうになる本能を押さえ込むのがどれほど困難だったか、お前には想像することも出来まい」


 終わりのない飢え――それは確かに、死すべき人間には決して理解出来ないものだ。そしておそらく、普通の不死すら知らない苦しみなのだろう。食人の衝動に身を委ねてしまえば、それだけで解放されるのに。


「お前を殺さないのも、これが理由だ。飢え死にを前にした今の私が誰かを殺めれば、もう耐えられない、と思う。本能のままに血肉を喰らい、完全な化け物になるだろう。……なにせ、百年近く、飢えているのだからな」


 魔女は窓から身を翻し、少年を見つめた。とうに人ではなくなってしまった紅い瞳に湛えられた光からは、だが確かに息づく人の残骸が見えた。無残に老い、朽ち、疲れ果てた心の破片が。


「だから、私はもう、終わりにしたいのだよ。一時でも早くこの欲求から逃れ、解放されたい。だからお前が、まだ私を討ちたいと思うならば、な――」


 イバラの棘が床を擦る音を立てながら、ゆっくりと魔女はトーマスに詰め寄り、震える指先で少年の頬を撫でた。氷より遥かに冷たい、死の抱擁。けれど、トーマスは冷たいのに、厭わしいとは思わなかった。


「お前にそのつもりがあるなら、終わらせてくれ。もし、そうでないならば――」

 

 そうでないならば――


 その続きを、魔女はいつになっても口にしなかった。


 ブランデーのもたらす酩酊がそうさせたのか、月の輝きに宿る魔力のためなのか、それとも邪な呪いだったのか――確かなことはなにも解らない。

 

 魔女は青ざめた死者の唇で、少年にそっと口づけた。

 

 それは凍てつくほどに冷たくて、スモモのように甘かった。


 6


 トーマスが目覚めたとき、薄汚れたリネンにくるまれて、埃っぽい椅子の上でただひとりだった。


 頭痛を堪えて、目を窓に向ける。中空には太陽が輝いて、秋風に晒されて黄色く染まった森が、今は凪いでただ静かだった。

 立ち上がった瞬間、空になったスロー・ジンの瓶を蹴ってしまった。床をころころと転がったそれを見つめていると、次第に昨晩の記憶が蘇った。


 大失態だ。


 と、トーマスは恥じ入って頭を抱えた。魔女と酒を酌み交わして酩酊し、あまつさえその住処で寝入ってしまうなど。不死狩りとしてあり得べきでない事であるばかりか、他者に知られれば不死者の使い魔サーヴァントに墜ちたのか、と解されても言い訳できない。トーマスは部屋中を見回したが、埃にまみれた家具が捨て置かれているばかりで、魔女の姿はなかった。

 銀の剣をベルトに掛けなおすと、魔女の姿を探そうとして部屋を――


 探す……探してどうする。


 ――部屋を後にしながら、思った。

 もうきっと、自分にあの魔女を斬ることはできない。ならばこれから、どうするのだ、と。


 魔女は呆気なく見つかった。屋敷を二階に上がった閑散とした大寝室に、ひとり佇んでいた。蒼白なおもてが透きとおるほどに色を失って見えるのは、気のせいではないだろう。


「……坊やか」


 氷の如きその声は、倦み疲れて眠たげだった。


「ようやく、その時が来たようだよ。ふん、お前が意気地なしでなければ、二日も早く終わっていたものを」


 そう言いながら、魔女は天蓋付きベッドの脇にあるチェストに置かれた額縁を弄っている。


「……それは」

「ああ、私の家族たちだ。あの頃、まだ写真機なんてものはなかったから、画家を呼んで家族の集合絵を描かせたんだ」


 絵のなかには、それぞれ別な表情を浮かべた一家がいた。厳めしく口髭を蓄えた父親、微笑みを見せるほっそりとした姿は母親、真面目顔の美しい娘はかつての魔女だろう。あとひとり、満面の笑みで椅子に座る小さな少女は――


「妹だよ」


 和らいだ声で魔女は言う。


「小さな小さな、私のメアリー。哀れな子だった。この時もう、流行病で余命幾ばくも無かったのに、こんなに楽しそうに笑って」


 だがその深奥に、愛情や慈しみはない。不死となり心は摩耗し、そんな感情はとうに何処かへ去ってしまったのか。


「私が魔女となったのも、元はと言えばそれが原因だった。

 妹の命を永らえさせる霊薬を手に入れるため、私はかつて存在した魔女のサークルを訪れたんだ。だが、そこで素質を見込まれた私は奴らに囚われ、そして――

 今思えば、馬鹿な行いだった。私は救いようのない愚者だった。終わるべき命を永らえさせる、その代償について、なにも思い至らなかったのだから」


 魔女の手に在る額縁が、青い炎に包まれて燃えあがった。それは瞬く間に灰となり、風にさらわれて窓の向こうに消えていった。


「だが、ようやく終わることが出来る。もう、飢えを感じないで済む」


 魔女はゆっくりとベッドに腰を下ろした。鍔広の真っ黒な帽子を脱いで枕元に置くと、いよいよ疲れ果てて冷たい息を吐いた。


「……なあ坊や、わたしはもう眠るが、気が変わったならば、いつこの首を取っても構わないからな」

「俺は――」

「ああ、そうだったな。お前は正々堂々の勝負じゃなきゃ、不死を殺すことも出来ない誇り高い騎士様だったな」


 そう言った魔女の表情に、軽蔑や嘲笑はない。ただ目の前の少年の可笑しさを、楽しんでいるだけ。魔女は笑った。小さく、だが確かに。かつてその頬に暖かな血の朱が差していた時と、きっと同じように。


「……さて、坊や。そろそろお別れだ」


 時が至った。


 永遠を生きるはずの不死の時間に、眠りが追い着いた。

 魔女の紅玉髄カーネリアンの瞳が虚らに濁る。喪服じみたドレスを纏った身体を柔らかいベッドに横たえて、祈るように手のひらを組む。冬の呼吸が、少しずつ穏やかに、小さくなっていく。


「この館にイバラを張りめぐらせて、だあれも入ることが出来ないようにする。いつか、どこかの誰かが、私の眠りを覚ますことがないように。

 ……だから、坊や、さよならだ。もう、帰るんだ」

「……坊やじゃない」


 もう閉じかけている魔女の目が、ほんの僅かに見開かれた。


「トーマス……俺は、トーマス・ジェイだ。〝イバラの賢者〟――お前の名前は」


 そして、ゆっくりと目を閉ざす最中さなか、美しい唇はひっそりとそれを口にした。


秋のイバラオータムブライア荘〟は、地より這い出でた無数の黒いイバラによって、閉ざされた。それは周囲の森さえ巻き込み、棘の牢獄として、魔女の冥い臥所となった。その眠りを、永遠に守るように。


 7


「――で、その魔女はどこにいるんだ」


 若い男がそう訊ねた時、活気あふれる休日午後の公共酒場パブは、凍り付いた。店主はグラスを磨きながら、胡乱な目を向ける。若い男の腰元には、磨き上げられた銀の手斧があった。


「兄ちゃん、不死アンデッド狩りだな。残念だが――」

「――残念だが、もうここに魔女はいないよ」


 と、店主の言葉をカウンターに座るトーマスが継いだ。まだ日は沈みきっていないのに、ブランデーの臭いをぷんぷんさせている。


「俺が来たときには、既にもぬけの殻だった。帝都のほうのサークルへ合流したのか、もっと深い森の奥に隠れたのか――ともかく、来るのが遅かったな」


 長剣を背負った同業者を見て、若い狩人は舌打ちした。そして、悪態を吐きながら店を出て行く。あいつはこれから何処へ向かうのだろうか、とトーマスはぼんやりした頭で考えた。

 トーマスはグラスの水を飲み干すとコートのポケットから硬貨を手繰り、カウンターに叩きつけると、ふらつく脚を強いて立たせようとした。


「おい坊主、待ちな」


 店主の太腕が肩を押さえつけ座り直させると、少年の前に乱暴にトレイが差し出された。湯気を立てるオートミールと、酷い臭いの燻製ニシンブローターが乗せられている。


「朝からずっと酒ばっかり飲みやがって、食い物を口に入れてねえじゃねえか。食っていきな」

「……もう、金がないよ」


 トーマスは情けない声で言った。


「奢りだよ。なにがあったかはしらねえがな、若い時分からそんな顔をするもんじゃねえ。今度こそ故郷に帰って、まともな仕事を見つけるんだな。その齢なら、まだいくらでもやり直しがきく」


 やり直し……出来るものかよ。


 トーマスは内心で自分を嘲笑いながら、店主の好意に甘えた。飢えのあまり、胃が悲鳴をあげていた。

 たった数日食わなかっただけでもこうなのに、百年の飢餓とはどれほど苦しかったのだろう――そう考えると、あの魔女の姿が脳裏に浮かび、また少年の心を苛むのだ。

 殺すことが出来なかった無念と、また会いたいという情念。背反するふたつの想いが、強く、強く引き合って、魂を引き裂いていく。いつまでも、いつまでも、あの口づけの味が、心をあの瞬間に縫いつけるのだ。

 食事をすべて平らげると、トーマスは今度こそ店を後にした。店主はもう、なにも言わなかった。


 これから、どうしよう。


 考えなければならないに、思考は明日を思い描かない。ただ、過去へと繋ぎ止められている。この想いを振りはらわない限り、少年はどこへも向かえなかった。


 その時、あの音色を再び聴いた。

 夕闇に灯されたガス灯の下、流しの歌い手が歌う、バラッドが。

 手回しバーレルオルガンの伴奏に乗せて、甘く切ない物語が始まる。かつて聴いた、あの騎士物語ロマンス。若き騎士と心優しい異端の魔女の恋、竜に化ける邪悪な魔女王のお伽話。父や兄が嫌っても、トーマス自身は密かに好きだった、愚かしい作り話。

 その結末を、トーマスは思いだした。

 心優しい異端の魔女は、魔女であるが故に騎士に想いを伝えられず、夜の国へと去ろうとする。


『ああ、騎士様。どうか私を引き留めないで。私は永久を生きるもの。貴方と共にあることは、決して許されぬ命なのです。だから、私を見送ってください。もし、そうでないならば――』


 そうでないならば――


 魔女は本心を語れなかった。善き魔女は、騎士が許すならばずっと傍にいたかった。ただその許しを、騎士に乞うたのだ。

 そうでないならば、行くなと私を引き留めて、と。


 そうでないならば――

 もし、そうでないならば――


 その時、ようやくトーマスは気づき、そして知ることが出来た。

 あの夜、あの魔女が、なにを言おうとしていたのか。

『お前にそのつもりがあるなら、終わらせてくれ。もし、そうでないならば――』


 なにが賢者だ、愚か者はお前だ。


 トーマスは走った。息する事も忘れて、ただ走った。

 イバラの森の奥――眠れる魔女の元へと。


 8


 銀の剣が、呪われたイバラを斬り裂いて塵に還していく。

 飛沫する棘が突きささり、全身から止めどなく血が溢れる。

 それでも少年は止まらない。走ることを、止めない。

 騎士物語ロマンスのように勇敢に、自分と彼女とを隔てる障害を切り捨てていく。たとえどれほど傷ついても。


 異形の植物が蠢く魔殿と化した〝秋のイバラオータムブライア荘〟。

 空を宵闇が染めあげ、まもなく全き闇が訪れる。

 すべての敵を斃した騎士は、銀の長剣を杖として、満身創痍の身体を奮わせる。

 一歩一歩を踏みしめて、ただ前を真っ直ぐ見つめ、彼女の眠る霊殿へと向かう。

 やがて、最後の黒き守護者を斬り倒し、ついにその場所にたどり着く。

 

 そして、まみえる。

 イバラに咲く青き毒花に囲まれて、永き眠りに沈んだ彼女の姿に。彼の魔女に。


 騎士は血の軌跡をあとに残しながら、魔女の眠る傍らへと至る。剣を投げ捨て、跪拝し、人のぬくもりを宿した指先で、凍え切った頬を撫ぜる。


 そうでないならば――


 今ならばわかる。彼女は許しが欲しかったのだ。人の血を啜り、果てない飢えを満たす、その許しが。


『なんだ、血を啜らせてくれるのか』


『奴らが流した血の臭いを嗅いだとき、目覚めそうになる本能を押さえ込むのがどれほど困難だったか、お前には想像することも出来まい』


 彼女は、ずっと暗にそう言っていた。俺に許しを乞うていたんだ。


 そうでないならば――お前の血を、私にくれるか。


 今から自分が行おうとしていることを考えて、トーマスは自嘲のあまり吹き出した。

 不死を殺しに来たはずの自分が、不死を生かそうとするなんて。

 酒の魔力に狂ったのか、それともこれが魔女の呪いなのか――


 いや、どちらでもいい。これでいいんだ。帰る場所なんて、とうにない。


 ざっくりと裂けた手首に口を押し当て、血を啜る。高まった心臓の鼓動を感じ、この命が彼女を呼び醒ますのだ、と思った。


 もう不死狩りはいい。

 家のこともどうでもいい。


 この命と血は、彼女の為に捧げよう。そうやってふたりで、ひっそりと生きていくことだって出来るかもしれない。

 

 手脚はすらりと長く、黒く長い髪は青みがかって艶やか。氷のように冷たくて繊細で、空想めいて整った美貌。髪と腕に纏わりつかせた黒いイバラ。夢のように、あるいは悪夢のように美しい、彼の魔女。〝イバラの賢者〟。その真の名は――


 騎士は静かに、魔女の唇へと口づけた。あたたかな鮮血が流れこみ、虚となった器を満たしていく。死の床に沈んだ身体に、再び冷たい命が満ちていく。


 ゆっくり、ゆっくりと瞼が開いていく。


 そして、紅玉髄カーネリアンの瞳に光が灯った時、トーマスはこの愚かしい恋物語ロマンスの結末を知ったのだった。


 §


 オータムホロウには魔女が住む。

 闇の臥所より起き上がり、奈落の叫びを轟かせ、影の翼で夜を舞う。

 青き炎で街を焼き、イバラの鞭で鏖殺し、人の血肉を貪り喰らう。

 恐るべき神の敵、中世よりの怪物、満たされぬ飢餓を抱えた竜。


 真の名を、エリザベス・オータムブライア。


 オータムホロウには魔女が住む。

 眩いガス燈の明かりを逃れ、冥いイバラの森で血に飢えて。


 いまもずっと、そこにいる。

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