マーメイド・ウェディング


 これが、人のいう愛なのでしょうか。

 はじめて姿を目にしたその時から、私が想うのは貴方の事ばかり。健やかに日焼けた肌、たくましい筋肉、透き通る瞳。脳裏に焼き付いて離れず、思いだすたびに血が熱くなるのを感じるのです。

 たとえ、海と地に隔てられた身であっても、ともに在ることは出来るのでしょうか。


 §


 あの夜。


 私は永遠に静寂な母の胎である海に身を預け、永く醒めない眠りにあり、祈りの最中さなかにいました。それは母のための夢であり、広く海を統べる彼女を讃える聖なる祭祀。たとえ遠く離れていても、私たちは夢のなか、いつも母の袂に在るのです。


 私を目覚めさせたのは、音でした。水を裂き、掻き混ぜ、泡立たせる、かつては存在しなかった、あの音。


 透明な月の光に晒されて、揺らめく海藻とくるくる回る魚群の影が水底へと影を投げる向こう。過ぎ去った嵐の気配も感じさせないほどに凪いだ水面を、機械仕掛けの浮島が過ぎて行きます。船と呼ばれる、人間が海を渡るために造り上げた歪な構造物。尾にある四枚の羽根を凄まじく回転させ、海流にさえに逆らい進んでいくのです――夜の静けさを乱しながら。海を冒涜する人間の行いに、私は強い怒りを感じました。母の眠りを妨げることなど、誰にも許されないのに。衝動に駆られた私は尾鰭おびれで海水を蹴り、海面へと向かいました。天の頂で青さを誇る北極星の閃きに向かって、疾く、速く。


 星々の光芒が、船の胴体に反射して閃いていました。船の上には、夜よりも黒い煙を吐き出す大きな筒が立っていて、前後にある柱には火を閉じ込めた容器が掲げられています。その明かりに照らされて、多くの影が――人間たちの姿が浮かびました。皆が白い衣と被り物を身に着け、何人かは鉛のつぶてを放つあの武器を背負っています。人間の兵士なのでしょう。彼らは誰も彼もが同じような姿をしていて、ほとんど見分けがつきませんでした。白い肌、短い髪、尾鰭おびれのない半身――とるに足らない、群れのなかの小魚のよう。私は侮蔑を覚えました。


 けれど――けれどその時にこそ、私は貴方を見つけたのです。人影を押しのけて船の縁へと現れた、ひときわ大きくてたくましい、その姿を。躍動的な肉体は海底に沈む太古の彫像のように完璧で、指先まで血色ちいろ良く健やかで。星空の映りこんだ瞳はまるで宝石、固く結んだ唇は珊瑚の色彩。それが、青い月の光によって神秘の輪郭を帯びて――ああ、これほど美しい命というものを、かつて見たことがあったでしょうか。たった一目で私の魂は囚われ、人への憎悪など名残さえなく去ってしまいました。ただ、貴方のもとへ行きたい――そんな想いだけが、私の思考を征服しました。


 どれほどの間、ただただ貴方を見つめ続けていたことでしょう。この狂おしい思いなど知る由もない貴方は、暗い海にポツリと浮かぶ私を、見つけることはありませんでした。やがて星々の世界が去り、水平線の彼方にまばゆい光耀の先触れが現れた頃、貴方は縁から去り、もう見えなくなりました。


 果てぬ大洋を休むことなく進み続ける船を、私は必死に追い続けました。昼には焼け付く陽光から逃れるため闇深くへと潜り、夜には貴方の姿を探すため黒い波間から目を覗かせて。幾度となく、私は貴方を見つけては、そのたびに沸き上がる血と想いの焦熱に悶えました。その日焼けた肌に触れたいという衝動は、日に日に増す一方で、耐え難くて。回遊するクジラの群れを越え、牙を剥くサメの狩場を潜り、神秘なるクラゲが創りだす深海の星空を貫いて、一刻も尾鰭を休ませることなく、決して失わないように。


 船が気まぐれのように速度を緩めた時、私はようやく追いつくことが出来ました。冷たい鉄の腹に指を添わせ船の縁を見上げると、人間たちが油断なく目を光らせて、周囲を見張っています。乗りこんで貴方を探すことなど叶わぬでしょう。もし人間に見つかれば、熱い鉛によって追い払われることは明らかです。遥か過去の時代から、そうだったように。


 私は緩やかに泳ぎながら、機会を待ちました。けれど太陽が水平線へと没し、空が紫色に染め上げられた宵闇が訪れても、人間たちの監視の目は緩まりません。ただ想いだけが募っては、執念の炎を燃え立たせるたきぎとなりました。

 私は――私と貴方を隔てる障壁を恨みました。これほど近くにいるのに、貴方のもとへたどり着くことが出来ない。触れることはおろか、まみえることすら出来ない。漏れ出そうになる悲壮な嗚咽を堪える為、私は奥歯を噛みしめました。ああ、海と陸とに分かたれた生命の距離とは、これほどに遠いものなのでしょうか。命を削るほど過酷な航海を経て、ようやく訪れた機会を掴むことが叶わない。それが、悔しくて、苦しくて。人の言葉を話すことが出来たなら、この愛を叫べるのに。


 せめて――せめて一瞬だけでいいのです。たとえ貴方が受け入れてくれなくとも、貴方のそばまで至ることが出来れば、私の思いは遂げられるのです。

 偉大なる母よ――海の主よ、どうか私の願いを聴き遂げてください。大いなる御力によって、兆しを賜らんことを。彼のもとへと至る、そのために。


 奇跡が、私の道を拓きました。


 立ち込める黒雲、狂乱する雷雨、逆巻く暴風――峻烈なる母の怒りたる巨大な嵐が、海域ごと船を飲みこんだのです。ああ、偉大なる母に永久の栄光あれ。

 凄まじい突風が船を激しく揺らし、雷霆が柱をへし折り、波濤が襲い掛かります。何人もの人間が船から投げ出され、荒れ狂う波間へと吸い込まれていきます。私は泡立つ海中に潜り、貴方を探しました。けれど、その姿はありません。健やかに日焼けた肌を、たくましい筋肉を、透き通る瞳を見紛うことなど、あるはずもないのです。私は再び浮上して、船を見上げました。この混沌の狂飆きょうひょうのなかで、船を守る兵士の姿はすでにありません。運命を、確信しました。

 私は大波の勢いに乗って飛び、ずっと高い位置から船の上へと乗りこみました。そこに、もはや人の姿はありません。ただひとりを、除いては。

 

 貴方を、見つけたのです。喪失した柱の根元に巻かれた縄にしがみついて、嵐に対し、ひとりで抗う貴方を。なんと強く、生命力にあふれているのでしょう。心の臓から熱い血潮を全身に巡らせて、しなやかな筋肉の力を存分に発揮しているその雄姿。生き抜くことへの意志を瞳に滾らせて、最後まで足掻こうとする勇気。貴方こそ、正に運命の人。私と、永遠にともにあるべき命。

 

 そして、私は貴方のもとへと至りました。どうか、私の想いを知ってください。人の言葉を話すことは出来ませんが、愛の絆を育むことは不可能ではないのです。だから今こそ、契りましょう。


 何故、逃げるのでしょうか。この凄まじい嵐にさえ、勇敢に立ち向かったあなたが。確かに姿に差異はあれど、私たちは太古に同じ種から分かたれたのです。偉大なる母の力によって。

 だから、どうか、怖がらないで――

 

 この醜く裂けた口を。


 幾重にも並んだ鋭い牙を。


 鱗に覆われた身体を。


 水掻きと鉤爪の生えた手を。


 瞼のない、真黒な目を。


 さあ、婚礼をあげましょう。異なる血の隔たりを越えて、ひとつの命となりましょう。永遠に、同じ肉として。


 ……ああ、美味しい。


 §


 私は海へと戻り、光の届かない深淵へと向かいました。蒼古よりこの星にある旧き神たる母の領域へと。彼女の眠る、石の神殿へと。最後の祈りを捧げるために。


 永遠に彼とひとつになった私は、確かな幸福に満たされていました。今やこの身体のなかに、新たな生命が育まれているのを感じます。母の袂たる暗い揺り籠で、私はこの子たち生み落とし、最初の食餌として命を終えるでしょう。遥かな過去から、そうして祖先たちが命を紡いできたのと、同じように。

 

 ああ、それにしても。

 この子たちは、私と貴方、どちらに似ているのでしょうか。

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