『それでも恋するetc.』(『トーク・トゥ・ヒム_Ⅳ』)
最後の撮影日だ。今日もよく晴れて撮影日和である。
ただひとつ違うのは。
昨日まであんなに仲睦まじげだったのに、マルセラとアシスタントの若者がよそよそしいのだ。正確に言えば、なんとか話しかける機会を伺っているアシスンタント君を、マルセラがそっけなく遠ざけているように思われた。
本日のマルセラはきちんと玲とアンドレのそばに張り付き、通訳の仕事をこなしている。ありがたいものの、ものすごく気になる。そこで、移動中の車でずばり、
「マルセラさん、彼とどうなったんですか?」
と好奇心のままに隣の彼女へ尋ねてみた。アシスタント君は別の車にいる。
あけすけにマシンガントークで毒舌を述べるマルセラの話を要約すると、彼が"下手"だったそうだ。
「あはは、体の相性、だいじですもんね」
「相性とかじゃない、彼がだめだった」
その一刀両断っぷりに、アシスタント君が哀れに思われて、まあまあ、若いですし経験とか、お酒も飲んでたら色々コンディションが、なんてフォローまでしてしまった。
相性という点では、玲と私は最強である。昨夜だって……と思考が明後日の方向へ逸れそうになって前に座る玲の背中を見る。
気懸りなことといえば、マルセラ女史と若人の恋模様よりもよほど手を打つべきことが実はあった。
"玲の感じたスペインを"という宿題を与えてきたアンドレは、しかし今朝の撮影が始まっても特にそれらしいことは言わず、昨日の続きのようなかたちで撮影を進めていた。玲にとってプレッシャーにならないように、との配慮だと理解している。
玲なりに頑張っているのはわかる。だが、彼女自身も、思うような表現が十全には出来ていないと感じているのであろう、そこはかとなく焦りの感情が見えた。昨夜フラメンコのあと彼女が話した内容を思い返すと、私もなんだか歯がゆい気持ちになってしまう。
今彼女の隣に座っていないのは、彼女一人で集中できる時間を設けたかったからだが、それも潮時かもしれない。そこで、次の撮影ポイントで車を降りた際に声をかけた。
「玲」
照りつける太陽の下、日傘を差して黒のワンピースをすらりと纏った彼女がこちらを見返した。少し先の日陰へと彼女をいざなう。簡易椅子に座らせてメイクを軽く直しながら話した。
「なんかさ、今日の玲ちゃんカタいよー」
「……やっぱそうかあ」
彼女は目をつむって嘆息した。
「ほら、昨日フラメンコ見終わったあとに言ってたじゃん。毅然として、華やかで、でも昏さがある。鋭くてワイルドで、でも不思議と鷹揚な明るさもあって……みたいなイメージもらったって。焦らなくていいから、やってみたいこと、やろうかなってイメージ、ぼんやりとでもいいからアンドレにも共有してみたら? 玲なら、出来るでしょう?」
腰を屈めて、座る玲と目をしっかりと合わせながら問いかけると、
「――うん」
口角をきゅっと上げて彼女は微笑んだ。うん、きっと出来る。
にやりとして付け加える。
「今日はマルセラさんちゃんといるし」
「あ、それね。気になってた。ていうか、昨日もいるにはいたけど」
「やーあれは実質いなかったから。どうやらアシスタント君はフラれたようで」
「あらら」
「やることないから仕方なくマルセラさんも仕事してくれてるみたい」
「アシスタント君は気の毒だけど、よかった」
困ったように笑う玲の頬へ、仕上げとしてほんのわずかにブラシを滑らせた。彼女の両腕をがっしり掴む。
「よっしゃ、アシスタント君の屍を超えて、いい仕事してこい!」
プレッシャーだなあ、なんて言いながら立ち上がった玲から目を離して振り返ると、アンドレがそっとこちらへ視線を注いでいた。――なんとなく居心地の悪さを感じる。
昨日は、うっかり解放感に浸って玲と腕を組んでいたところを、彼に偶然見られてしまった。そのときには疑問や嫌悪感、無粋な興味を露ほども表に出すことのなかった彼だけれど、やはり不安ではあった。
たった半日の付き合いでも彼の人柄には一定の信頼を置いていたから、面倒な事態にはならないはず、と――期待半分――玲とも話していたが、今朝再会した折も、昨日の出来事への言及も妙な態度を取られることもなかったので、内心胸を撫で下ろしていた。
とはいえ、玲と共にいるとき、アンドレから観察の視線をどことなく送られているような気もしている。攻撃的、あるいは好奇の目ではない。けれど、静かに見守るようなその気配には、むずがゆさを覚える。玲がそれに気付いているかは定かではないが、いや、彼女なら察しているかもしれない。
とにかく、私たちの関係をあえて否定するような振る舞いを演じるまではないものの、ほんの少しやりにくさを感じてもいた。
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玲は、改めてどんな表現をしたいと考えているか、マルセラも交えてアンドレに伝えている。
「――こんな感じで、色々やりたいイメージはあるんだけど、同時にたくさんやろうとして混乱しちゃってたから、まずはひとつずつやってみるね。何かアドバイスがあったらアンドレも遠慮なく言って」
「うん、考えをシェアしてくれてありがとう。時間はたっぷりあるから、気楽にやろう」
そうして撮影が再開されて少しの間は、まだわずかに強ばりの見えた玲だったが、徐々に自分のペースを掴み始めた。
燦々と注ぐ陽光の下、彼女は様々な表情を見せる。
薄く開かれ、こちらを見下ろすその瞳は、決してどんな存在にも媚を売らぬのだろうと思わせる、自らの足でしっかりと立ち、誰にももたれかかることがない女。その体が落とす影はくっきりと存在感を放つ。
かと思えば、かすかに眉をひそめ、茫と投げられる視線は、体の線の細さもあいまって、強い太陽の光に揺らいで存在ごと消えてしまわないかと、こちらの不安を掻き立てる。
自身をきつく抱きしめ、苦悶にまつげを伏せ、唇を噛みしめる様子は、思い通りにならない想い人に嗚咽し、崩折れる女を思わせた。
次いで、温度のない目をして、口の端を少し歪めたその顔は、昏い企てをする魔女のようだ。運命を狂わせられた女、狂わせられながら、周囲を狂わせていく女。孤独に苛まれ、鬱積していく悲しみは、太陽の熱すらも凍らせていく。
それから、長い指が口元に這わされ、その肉感的な唇の形をゆっくりと変えていった。蔑むように笑う目尻は明らかに誘っている。その身体は柔らかく、温かいだろう。だが、赤い唇の間から覗く歯は野性味に溢れていて、もしも誘いのままその身体に飛びついたならば、その瞬間に喉を噛み切られるのでは、という想像がよぎる。
また、瞬きのうちに今度は、眉尻を下げ、白い喉を反らせて無防備に大きく笑う。あるいは穏やかに、太陽の心地よい熱に抱かれて、充たされたように微笑む。その無邪気な様子は凪いだ海を連想させた。
……だが私たちはすでに知っている。彼女の胸のうちに渦巻く、峻烈な、切っ先鋭い感情を。
彼女から奔放に迸る情緒の波たちの、剥き出しで、ストレートなありかたに、驚き、呆れ、いっそ愛嬌すら感じてしまう。
誰にも飼い馴らされない、鮮烈で、野太い生命力。目を惹きつけて離さない。
――言葉はないのに、何人もの女の、何年にも渡る人生のあらゆるシーンを見せつけられているようだった。
撮影隊の者皆全て、玲の演じる『彼女たち』に魅せられて、息を詰めて見ている。
今や間違いなくこの場の主導権は玲が握っていて、アンドレは彼女の表現を最大限あますことなく写真へ残すことに徹している。
玲が実力を出せたことにほっとしつつ、それはそうだろう、と納得するような、誇らしい気持ちが湧き上がる。
だって、玲だ。彼女が出来ないわけがない。ひとたびカメラの前に立てば、その場を呑み込み、翻弄し、支配する。
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玲がある衣装へ着替えたとき、新しい靴は足先が見えるものだった。昨夜私が施した遊び心を落とし忘れて、彼女のつま先には様々な色たちがそのまま残っていた。玲とそっと視線を交わして、苦笑し合う。
着替えを終えてまもなく、アンドレがその爪たちに気付いた。
「かわいいね、足。自分でやったの?」
にこにこと無邪気に尋ねる彼へ対し、つかの間玲は言葉を詰まらせてから、
「……ううん、彼女がやってくれたの」
と、こちらを指差した。――そんな風に後ろめたい声で言うと、ますます怪しいぞ玲ちゃん!
「へえ、アメイジングだね! 撮らせて」
いささか挙動不審な玲を気にする様子もなく、彼はレンズを彼女の足元へ向けてパシャパシャやっている。
どこの部分も神様が丁寧にデザインした玲の身体は、足指に至ってもほっそりと慎ましく愛らしいから写真に納めたくなる気持ちはわかるけれど、その爪には私たちの過ごした時間が私の手により塗り込められていたりするわけで、その戯れの痕跡を立派なカメラでプロのカメラマンに撮られていると、妙に恥ずかしく、いたたまれない。
そう感じながら二人を見つめていれば、アンドレが出し抜けに振り向いてこちらへ話しかけてきた。
「昨日は君たち二人で街を回ったんでしょ。ホッターも、ホッターのスペインを表現してみたらどうかな」
「え、私が?」
「うん。君のやりたいメイクを試してみなよ」
温和な彼の瞳へ灯る、かすかに挑むような気配。
――お前は、こんなに才気溢れる玲の隣に並び立つ資格があるのか、と問われているような気がした。
ぶるり、と震えが走る。それは恐れからではなく、やってやろうではないか、という武者震いだ。
私だって表現者の端くれである。国際的に確かな実績を持つカメラマンの彼からそんな機会を与えられ、かつ、玲の恋人たる資質を見極めんとされるならば……その挑戦状、受けて立たないわけにはいかぬ。
逸る気持ちを抑えながら、
「ちょっと待ってて、昨日メイクのアイディアを描き留めたの。スケッチブック、取ってきていい? 絵のほうがイメージを共有しやすいから」
早口の、もちろん日本語で言ってマルセラに視線を投げると、彼女も素早くスペイン語で通訳してくれて、アンドレは朗らかに「もちろん」と笑った。
フラメンコからホテルへ帰ってなだれ込むようにして玲と絡まり合ったのち、すやすやと眠る彼女の横で、その日得たインスピレーションを眠気と戦いながらも朝方に描きつけておいた甲斐があった。こうしたほんの少しの努力が、不意に飛び込むチャンスの糸を繋げてくれる。
車に置いていた荷物から手のひらほどのスケッチブックをひっつかんでアンドレの元へと戻り、ぱらぱらとページをめくりつつ、イメージの全体像をざっくりと述べてみる。
「基本的には、はっきりした色使いを想定してる。ナチュラルなものではなく、しっかり存在感のあるメイク。私にとってスペインは、太陽の強さと影の濃さが印象的だったから、黒ははっきりと打ち出したい。あとは、鮮やかな赤色もやっぱり主軸に据えたいと思ってる」
逐次マルセラによって訳されるスペイン語に耳を傾けて頷きながら、アンドレはスケッチブックのページを行きつ戻りつしている。そして、
「うん、面白い。特にこの、額から鼻筋にかけて目元を大胆に覆ったメイクのシリーズがいいね」
と言って、目の周りから眉毛を超えて額まで無定形に紅く塗ったメイクと、仮面舞踏会のマスクのように目元を黒のグラデーションで長方形に切り取ったメイクの絵を指差した。
「このあたりは、フラメンコを観て思いついたものだよ。目の……強さが印象的だったから。見透かされるような、底知れなさ、そういうのを強調したくて」
「この、背景も含めて描いてあるのは?」
宙を赤い丸がいくつも散らばった場所を横切る女性のドローイングだった。
「ああ、これは本当にただのイメージだけど……フラメンコの踊り手さんがくるくる回って踊ってると、赤い衣装が散る花のようだったから。それを覚えていたくて」
「ふーん、なるほど」
するとマルセラ自ら、「これは薔薇?」と私へ訊いてきた。
「うん、たぶん……そんなイメージ、かな」
なんとなく浮かんだ像を走り書きしたものだから、自分で描いたものでも覚束ない返答になる。
数瞬黙って、マルセラは口を開いた。
「……私のお母さん、花が好き。薔薇も家で育てていて、ちょうどこんな風に薔薇の壁みたいな場所もある。行く?」
「え……それはありがたい! ……ですけど」
思わぬ幸運に高揚しかけて、だがここまでのやりとりが日本語だったので、アンドレには話の経緯は伝わっていないはず、と思い至って彼のほうへ視線をよこすと、マルセラがスペイン語でアンドレに説明する。
にっこりと彼は笑って、
「じゃあ、マルセラさんの家へお邪魔しようか」
大きく頷いた。
自分の思い描いたメイクをやらせてもらえる。高まる鼓動を感じながら、傍らの玲を見る。ずっと黙ってやりとりを聴いていた玲が、握り拳を向けてきた。
「やったね」
こつんと拳を合わせた。
「勝負はこれからだからね。頼んだぜ、相棒」
「おうよ、しっかりメイクしてくれよ、相棒」
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ちょうどお昼どきに差し掛かろうとしていたので、マルセラの家へ車で向かう前に軽食を調達することになった。休憩時間中に撮影クルー全員分のサンドイッチを買うよう申しつけられたアシスタント君を見て、咄嗟にあることを思いついた。
「玲、アシスタント君と一緒に買い物付き合ってもいいか、アンドレへ訊いてみて」
「え? わかった、けど」
腑に落ちない様子ながらも玲は早速アンドレへ確認してくれて、当然のごとくあっさりOKが出た。
「玲も通訳係として同行してください」
「いいけど、何を話すの?」
出発しかけているアシスタント君へ足早に近づきながら、
「落ち込んでる若者見てたら、ちょっと老婆心うずいちゃって。若人の恋、応援しよ?」
「……お人好しというか、お節介というか」
呆れたように脱力する玲を伴って、追いついた青年の肩を叩く。振り向いて目を少し大きくした彼に向かって、「買い物、付き合ってもいい?」と訊いて、その日本語を玲が英語に直してくれる。
アシスタント君は疑問符を浮かべながらも黙って頷く。そして、前方を指差して一言「こっち」と言った。もしかしたら彼も英語はそんなに得意ではないのかもしれない。
広々とした明るい道路を三人並んで歩きながら切り出す。
「突然じゃが。青年よ、お前はマルセラと懇ろになりたいか?」
泰然として私が言うと、隣の玲が「何、その口調。ていうか直訳しづらいこと言わないでよ」とぶつくさ言ってから、
「えーと、あなたはマルセラさんともっと仲良くなりたい?」
と彼に向かって聞く。彼は、ふう、と息を吐き、
「うん。……でも、もう彼女は僕のこと嫌いみたいだ」
陰気な顔つきで、ひょろりとした背中をぐんにゃりと曲げた。
「案ずるな、青年。日本には、"外堀を埋める"という言い方があってのう……」
玲は「もう変なことごちゃごちゃ言わないで!」と睨んでくる。
「とにかく、これからマルセラさんちを訪問するじゃろ。そこで、家族に取り入るのじゃ。さすれば道は開けよう。たぶん」
眉を寄せた玲が通訳係を放棄して、「たとえば?」とこちらへ尋ねてくる。
「たとえば。すごくよく働く。勤勉な姿をあちらの家族へアピール。撮影で、マルセラさんのお母さんの手を借りることもあるかもしれないから、そのときにはお母様をめちゃくちゃ手伝う。そんでもって、手伝いながらさりげなくマルセラさんのことを褒めちぎる。マルセラさんもすごく魅力的ですけど、お母様もさすがお綺麗ですね、みたいな感じでお世辞も取り混ぜつつ。でも、マルセラさんは綺麗すぎて、僕には近づきがたくって……と、母からの援護射撃をちらりと暗に求めてみる。……外堀、SO-TO-BO-RIを埋めるのじゃ、青年。押してだめなら埋めてみせようSOTOBORIを」
そう滔々と語った私へ玲は冷たい目線をくれてから、いっさいのニュアンスを削ぎ落とし、
「このあと、私たちマルセラさんのお家へ行くでしょう? そこで一生懸命働いて、ついでに彼女のお母さんと仲良くなれば……お母さんも、マルセラさんとあなたの仲を応援してくれるかも」
とだけ、彼を元気付けるように言った。
「うん……確かに……」
少し目に力を取り戻した彼が小さく同意する。すかさず、こちらも力強く後押しする。
「お母さんを落とす勢いで、仲良くなあれ!」
何言ってんの、と鋭くつっこんできた玲は、「んー……」と目を上向けてやや黙ったのち、青年の目をまっすぐ見上げて、
「頑張れ!」
と声援を送った。
両拳を握って真摯に応援する彼女はとてつもなく可愛かった。そんな彼女から詰め寄られたアシスタント君もどぎまぎしているのがわかった。
おい、お前の意中の人はマルセラだろうが! この子は私の彼女なんだぞ! と威嚇したくなったが、なんとか抑えた私は偉い。
代わりに玲の姿を遮るように彼との間へ割って入って、「グッドラック」と重々しく伝えれば、彼もゆっくりと頷き返した。
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