『それでも恋する私たち』(『トーク・トゥ・ヒム_Ⅴ』)

 移動車の中でサンドイッチを食べるなどしているうちに辿り着いたマルセラ女史の実家は、天国もかくやというような、色とりどりの種々様々な花が咲き乱れる見事な庭であった。活き活きとした鮮やかな緑たちのなかで出迎えてくれたマルセラのお母様は、少し腰が曲がっていて、ニコニコとして可愛らしい。アシスタント君を振り返って無言で頷けば、彼も緊張した面持ちで小さく頷いた。健闘を祈る。


 挨拶も早々に、マルセラが件の薔薇の壁の場所へ案内してくれた。真っ赤な薔薇と緑の葉が、やや古ぼけたレンガの高い壁を絢爛豪華に覆っている。


「わーー、イメージぴったりっすよマルセラさーん!」


 興奮して彼女の背中をばんばん叩くと、彼女は迷惑そうにしながらも得意げに片頬で笑った。


「じゃあ、まずはここで撮影を始めようか。他の場所もすごく綺麗だから、あとで色々行ってみよう。ホッター、メイクのイメージは大丈夫?」

「ばっちり! 任せて」


 勢いよくサムズアップして、玲のヘアメイクに取り掛かった。


 目の周りから額にかけて紅く塗る。あえて左右は非対称に、向かって右側を広くじんわりと。薔薇たちの赤よりも彩度の高い色を選んだ。眉毛も紅で塗りつぶし、マスカラものせず、唇はカラーレスなヌーディリップを施す。髪の毛はぴっしりと高い位置でひっつめて、結んだ先はふんわりくしゅくしゅとした動きをつけた。

 衣装はニュートラルな印象のものがいい、という要望を出したので、装飾性のない、シンプルなすとんとした白の細いワンピースだ。全てを、あくまで目元の紅が目立つように整えて。



 壁につたう薔薇たちの間に立ち、まっすぐこちらを見つめる玲をアンドレはまず撮った。くすんだピンクと灰色の混ざるレンガの壁、草の緑、赤い薔薇をバックに、顎を少し引いた玲が紅く縁取られた目でレンズを射抜く。

 咲き誇る薔薇たちを従える、まるで人ではない何かのように。


「レイ、横を向いて壁にもたれてみようか、ちょうどそこの、薔薇が咲いてない所。棘に気をつけて」


 気高さが強調される玲の美しい横顔から、ぞっとするような流し目がカメラへ送られる。触れれば傷付かずにはいられないような、しかし指先をそっと伸ばしてみたくなる、玲そのものが薔薇の棘のようでもある。


「薔薇の花びらを少し口に挟んでみて」


 横を向いた彼女の唇が真っ赤な薔薇の花弁を挟み、わずかに憂いを含んだ紅い目元が伏せられる。

 色のない艶めく唇の間で薔薇は毒々しいほど色づき、彼女の吐息が薔薇を赤く染め上げたか、はたまた、薔薇の色が呼吸を通じて彼女の目元へじわりと染み込んだか、そういった情景を思い起こさせる。

 そして、目を薄く開いた彼女の視線がカメラへ向けられ、花弁を挟んだままの口端が妖しく笑みの形を作ると、薔薇のつるで体を捕らわれた錯覚が起きた。


「……いやあ、すごいな」


 カメラを覗いていたアンドレが息を吐き出すようにしてつぶやいた。その言葉で現場の張り詰めていた空気が少し緩んだ。私も詰めるようにしていた呼吸を取り戻す。


「じゃあ、少しここの前を歩いてみようか」


 私のスケッチブックにあった光景を再現してみようということだ。

 薔薇の前を歩く玲の写真を何枚か撮っている彼の後ろで、あるイメージが私の中で確信のように固まっていく。


「あの、アンドレ、少しいいかな。試してみてほしいことがあるんだけど」


 おずおずと彼へ話しかけると、快く彼は振り向いて、マルセラも間髪入れずスペイン語で伝えてくれる。いやはやマルセラ女史、昨日とは別人のような働きぶり。


「シャッタースピードを遅くして、玲だけブレた写真を撮ってみてほしい。というのも、フラメンコを見て感じたのが、長い歴史で繋がったような、歌い継がれてきたいろんな人たちの人生――みたいなものだったから、たった一人の特定の誰かっていうより、その連続性を表したいのね。だから……ぼんやりとだぶった『印象』が歩いてるような写真を撮りたいの。わかるかな?」

「なるほど。うん、なんとなくわかるよ。じゃ、始めよう」


 幾度か玲も含んだ話し合いを挟みながら試行錯誤をした結果、納得いく写真が撮れた。後ろの薔薇たちははっきりと写っている一方で、前景の歩く玲は輪郭が融け、残像を右から左へ残していた。目元の紅で、動く人物の軌跡が繋がっている。

 止まった時間の中で個々の薔薇は鮮やかに咲き誇って固定され、女たちの時間は長い歴史においてゆるやかに紅で受け継がれていく。


「いいね、面白い写真になった。僕だけじゃ撮れなかった絵だ」


 快活に笑って、アンドレはハイタッチの手を掲げてきた。私、その次に玲と、パチンと乾いた音を響かせる。多大な貢献を称えて、私はマルセラにもハイタッチをせがんだ。彼女は片眉を大きく上げ、やや気怠げに、だがまんざらでもなさそうに手を合わせてくれた。



「じゃあ次は、あの黒いマスクのようなメイクを試してみない? どこで撮りたい?」


 ロケーションの選定まで任せてくれるのは、私に対する信頼の証でもあると感じるが、プレッシャーでもある。


「えーっと……じゃあ、あのアーチの所なんてどうかな。暗い色のメイクになるから、柔らかい色の場所がいいと思う」


 白やピンク、黄色の花がアーチ状に連なった通路を指差すと、アンドレは「いいねえ。ワクワクする!」と元気に同意してくれた。つくづく人をその気にさせる天才だと思う。彼のこと、モチベーション上げ郎と呼ぼうかな。


 眉毛をしっかりと描き、青みがかったメタリックなアイシャドウを広く、目頭にも少し入れる。こめかみから薄く黒のグラデーションを施し、下にかけて濃くした。すっと伸びた玲の鼻筋の真ん中でくっきりと真一文字に黒のラインが横切って、まるで舞踏会のマスクを身につけたようだ。彼女の肌の白さと黒が対照をなし、妖美さが匂い立つ。唇は黒みがかったきつめの赤でぽってりと。髪の毛はオールバックのウェットヘアで。

 そんなメイクを終えた玲に幽艶と微笑みかけられると、魔物に魅入られたようで恐ろしい心地すらする。

 上げ郎ことアンドレは「怖いね〜っいいよいいよ!」と満面の笑みだ。褒めてんのかそれ。上げ郎の呼び名を剥奪しようか。



 無垢な色の花でできたアーチの下、おおらかであっけらかんとしつつ、奥底を見透かすような目をして彼女は立つ。

 街で撮ったときの玲を『無数の多弁な女たち』と形容するならば、今の彼女は『言葉を用いない何か』といったところだろうか。情動を排した佇まいは、人間でも動物でもなく、底知れぬ、いわば観念そのものといった存在に見える。

 背中を見せて首だけ少し振り返った姿や、まぶたを静かに閉じて立つ姿のどれも、カメラへ目を向けてもいないのに、こちらの胸の内全てを知られている感覚を覚えた。


 頭上の花々の間からこぼれた光の線が、黒く覆われた玲の目元を斜めに横切っている。それを見たとき、ふっと思いつくことがあった。


「あの……アンドレ」

「おっ何、何、ホッター」


 彼は目をきらきらさせている。上げ郎。


「玲を……泣かせてみるのはどうかな。たぶんメイクが崩れると思うんだけど。涙の筋で、黒いマスクをほんのちょっと壊すの」


 私の言葉をマルセラが訳すのを聞くやいなや、アンドレはにやりとした。


「ははーん、ホッターはレイを泣かせたいのか。悪い女の子だねえ」


 撮影隊から笑い声が上がり、素の表情に戻った玲も、


「……意地悪だよねえ」


と目を細めてにやつく。

 くそ。なんだか非難されているが、諦めないぞ。


「でも……きっと綺麗だと思う」


 なおも食い下がる私を見て、アンドレはしごく真面目に「うん、そうだろうね」と頷いてから、


「でも……悪い女だねえ」


くっくっくと笑った。周囲の笑い声もまた大きくなる。アンドレ改め、私の評価下げ郎め。


 俳優だし自力で泣けますよ? とアピールしてきた玲を、


「いや、片目だけから流したいの」

「泣かせたいのね」

「……器用に片目からだけ泣けるならご自分で泣いてもらって結構です」

「出来ないから泣かせて?」

「……」


なんてやりとりで、目薬を使って泣いていただくことにした。



 上を向いてスタンバイする玲へ、目薬を手渡す。目薬を差したあとも仰向いたままの彼女から再び薬を受け取り、私はカメラの外へ。3、2、1……という掛け声に合わせて彼女は正面へ向き直り、何度か瞬く。

 左目から涙がこぼれた。透明な雫は大きな瞳から下まぶた、頬を伝ってあごへとゆっくり流れていく。パシャパシャ、というカメラのシャッター音だけが響く。

 涙が通った跡のマスク部分は、黒を洗い流して一筋、元の白い肌を露わにした。反対に、黒を吸い取った涙は、重力に任せて暗い線を肌に描いた。

 初めは感情らしきものを浮かべていなかった玲は、涙がマスクを壊すにつれて、かすかに、だがくっきりと、目の奥、口の端にそれを見せた。


 哀しみがくっきりと浮かび上がり、観念としての存在だった人が、たった一人の女性になった。たちまちに、私にとってのただ一人の『玲』として感じられた。

 甘えたがりで、しっかりしていて、強くて、格好良くて、だけど脆い、私の知る玲。

 駆け寄って、その涙を拭いてやりたいような気持ちが、強烈に、息苦しいほどに胸を衝いた。

 ――私は今、ただのマネージャーで、ただのメイク担当だから、駆け寄って彼女の涙を拭くことは叶わないけれど。


 ……なんて、彼女を泣かせた張本人が思うのも変な話だが。

 上げ郎は写真を撮り終えると大興奮して褒めちぎってくれた。



==============


 その後順調に全ての撮影を終え、マルセラ宅から引き上げる準備をしていれば、アシスタント君が慌てた様子で駆け込んできた。


「お母さんから、今夜マルセラと一緒に家でご飯を食べていけばって誘われました!」

「えーっよかったじゃん!」


 結局、撮影においてはマルセラのお母様の手を煩わせることはほとんどなかったものの、アシスタント君が彼女にお茶を勧めていたり、にこにこと撮影風景を眺める彼女のために椅子を持ってきたりと、ことあるごとに甲斐甲斐しく世話を焼いているのを見かけていた。あくせく必死に働く彼を、マルセラがじっと見つめているのも。


「どうしたらいいと思う? 今日はやめたほうがいいかな?」

「は? いや行けよ! 迷わず行けよ、行けばわかるさ! 危ぶむなかれ!」


 この期に及んで逡巡しているらしき若者に、顎を突き出しながら激励を送るが、通訳を担当する玲は顔をしかめて無言でこちらを見てきた。だから、マルセラの暴露話を思い出しながら順当なアドバイスをすることにした。


「とりあえず、絶対今夜行きなさい。ワイン飲み過ぎちゃだめだよ。それ以外は、どーんと大船に乗ったつもりで!」


 ため息をついた玲が、「ワインは飲みすぎないこと。あとは、礼儀正しく、きちんとマルセラさんへの気持ちを誠意と一緒に見せること」と、通訳としての有能ぶりを見せてくれた。


 マルセラ家へ残らせてもらえるよう、アンドレへ必死に頼み込んでいるアシスタント君の一方で、私たちはマルセラさんへ「なんかお母様が、アシスタント君と一緒に食事いかがっておっしゃってるみたいなんで、マルセラさん、ここでお別れしましょう、寂しいですけど、撮影も終わりましたし、まあそのほうがマルセラさんもご実家でゆっくりできていいでしょうし、ね?」とすっとぼけて根回しをしておいた。

 マルセラは大仰に息を吐いて、首をゆるゆる振っている。


「……やられたね」

「――彼、結構本気みたいですよ」


 へらへらして答えれば、彼女は肩をすくめて苦笑した。


「じゃあ、ここでバイバイね。元気でね、レイ、ホタカ」

「マルセラさんも。本当にお世話になりました、ありがとう」


 豊満な体つきのマルセラとハグを交わし、彼女とアシスタント君を残して街へ帰る車に乗った。



==============


 撮影隊のメンバーは各々都合のよい場所で降りていき、空港に近いホテルへ宿泊している玲と私、アンドレ、運転手さんだけが今や車内に残るのみだ。アンドレは、次の国外での仕事に向かうため、直接空港へ行くのだという。さすが売れっ子カメラマン。

 すでに車内のメイク台で撮影用の化粧を落とした玲はリラックスしきって、窓から入る風に気持ち良さそうにしている。

 日は暮れ始めて、風は少し冷たい。海沿いの道は、潮風の匂いが届く。今日の深夜には私たちもスペインを発つ。楽しかったが、あっという間で、寂しい気持ちが胸をくすぐる。


 あ、と小さく声を上げたアンドレは、ドライバーに車を止めるよう頼んだ。


「夕方の光が今すごく綺麗だから、海辺で写真を少し撮り足したいんだけど、どうかな?」


 振り向いた彼は期待に目を光らせている。玲と顔を見合わせて笑う。


「もちろん大丈夫」


 アンドレはこのあと直接タクシーで空港へ向かうと言うし、私たちはゆっくりビーチを散歩しながら帰る予定に変更して、運転手さんには帰ってもらうことにした。私たちの大きな荷物はホテルへ届けておいてくれるということで、強面ながらもいい人だ。



 三人で車を降りた。車内の薄暗さから一転、西陽が眩しくて刹那の間、目が眩む。

 柔らかい砂を踏みしめ、ざざん、ざざんと穏やかに打ち寄せる波のそばへ向かった。落日の強く輝く光を反射して、海は一面煌めいていた。


「じゃあ、レイ。そうだな……だいじなパートナーと、街をゆっくり歩いてる自分を想像してみて」


 なんだかそのリクエストは、こそばゆい。絶対わかっててやっているアンドレ氏。

 玲はほんの一瞬こちらへ視線をやって、それから俯き、降参とでも言うみたいに小さく苦笑いした。


 ゆっくり砂浜を歩き出した彼女は、なんの鎧もまとうことなく、ゆったりと笑う。

 夕陽が彼女の横顔を甘く、黄金色に照らした。

 飾り気のないその微笑みは、この世に不安なことなんてないようで。一瞬が永遠に引き延ばされて、ずっと続くかのようで。

 それが、なんと脆く、儚く見えることか。愛しさのあまり、胸が絞られるように痛む。


 私の隣で、彼女はこんな表情をしているのか。

 どんなに高い衣装も手の込んだヘアメイクも必要ない。この今の彼女が、私にとっていちばん美しく、愛おしい。



 シャッター以外の音を発さないままアンドレは写真を撮り終えて、


「……とっても素敵だったよ。ありがとう」


と玲へ声をかけた。彼女は少しはにかんで頷き、こちらを一瞥すると、にかりと白い歯を見せてピースサインを伸ばしてきた。なんだろう、単に「アンドレに褒められて嬉しいよ、マネージャー」的な行動なのか、それとも私たちの仲を隠す気がもはやないのか。よくわからないものの……可愛い。



 それから、三人でビーチを少し散歩した。


「あ、そういえば、うちの若者、なんだか世話になったみたいだね。感謝します」


 アシスタント君のことだろう。茶目っ気を混ぜた目で礼を言われた。


「あー、ま、どうせなら、世の中にある幸せの総量は多いほうがいいじゃん、と思って。この先二人がどうなるかわかんないけど」

「もう、また訳しづらい言い方する。彼女は……幸せが多いほどいいでしょって言ってる」


 そう玲が言うと、アンドレは虚を衝かれたようにちょっと黙って、


「それは……本当にそうだね」


微笑んだ。


「私はちょっと余計なお世話だと思ったけど」


 肩をすくめた玲の言葉に彼がくすくす笑う。そして立ち止まった。


「レイ、ホッター、改めてありがとう。二人のおかげでいい仕事ができたよ。お礼に、君たちの写真を撮らせて」


 そう言って彼がポラロイドカメラを取り出したので、海を背景に私たちは並んだ。レンズを覗きながら彼は「もう少し右に、そうその位置、スマイルスマイル」とシャッターを切った。


「うーん、なんだかよそよそしいな。もっと自然に。近寄って」


 カメラの前で指示を出されるうちにモデルのスイッチが入ったか、玲がごく当然のように私の腰へ腕を回し、引き寄せてくる。二人きりであれば今さら驚くことのない近さだが、他人の目のある場所では違う。

 本職のカメラマンの前でこうして撮られることにも、人前においてこんな距離で彼女といることにも慣れない私は、恥ずかしくなって間近の玲を見上げてしまう。するとカメラのシャッター音がしたので、嫌な瞬間を撮られたな、と顔をしかめてアンドレを振り返った。


「ホッター、ほんとかわいいね」


 彼が笑って野次ったのに対し、


「でしょ?」


と玲も自慢げに返す。おい。



「じゃあ今度はお互い見つめ合って」

「え、えー……?」


 私が戸惑っている間に、玲はさっさとこちらに体を向けて、両腕に触れてきた。

 まったく何をやらされているんだろうか、とアンドレに反発心も覚えるのだが、玲が柔らかく笑みながら見下ろしてきたので、こちらも負けるものか、と覚悟を決めてその目を見返す。真剣な顔で見つめ返すこと、1秒、2秒……、どちらからともなく、ぷっと吹き出してもたれ合った。

 ジジー、とポラロイドから写真が出てくる音がして、


「うん、いい感じ」


とアンドレも笑っている。


 写真へ浮き上がってくる像を黙って見つめていた彼は、「ペンか何か書くもの持ってる?」と聞いてきた。油性ペンを鞄から取り出して渡すと、彼は写真の裏にさらさらと何か書く。


「はい」


 今さっき撮った写真たちを手渡された。玲とふたりして出来上がりを確認する。

 一枚めは二人横に並んだ普通の記念写真、二枚めは玲に腰を抱かれて困ったように彼女を見上げる私と、余裕綽々で微笑むモデル玲。


 そして最後の写真は、何の気負いもなく、お互いの腕を取って破顔している私たち。

 その写真を裏返すと、そこには、“君たちの未来の幸せを願っています”と書かれていた。


 それはきっと、思い違いでなければ、私たちの仕事の成功を単に願っているわけではなくて。


「……あの、ありがとう」


 そっと言った玲にアンドレは首を振った。


「僕のほうこそお礼を言わないとね。君たちからはたくさんいいパワーをもらった、ありがとう。それから……」


 一度言葉を切って、彼はあたたかに微笑み言った。


「レイとホッターを応援してくれる人は、きっと世界中にたくさんいるよ。僕以外にも」


 今度こそ思い違いなんかではない。玲と私のふたりがお互いにたった一人のパートナーであることを、彼は心の底から応援してくれている。

 胸がいっぱいになって、なんだか涙がせり上がってきそうだったので、隣の玲を見た。玲がふわりと笑いかけてくれる。


「あーっレイ! なんていい表情をするんだ、君は!」


 突如上げられたアンドレの大声にびくっとして振り返った途端、彼は腕を広げて、


「ホッター、君は常にレイのそばにいるべきだよ! ほら、あんなに素晴らしい顔を引き出すんだよ。君もモデルになっていつもレイの横にいたらどう?」

「えーむりむり!」


 全力で手を振って否定すれば、彼は顔を綻ばせた。


「ははは。うん、君はヘアメイクで、いい作品を作り続けてよ。……ちなみに、僕はふだんこんなにお節介じゃないんだ。でも……幸せは多いほうがいい、でしょ?」


 そう言って、片目をつむる。


「あはは! 確かに、本当にありがとう」

「レイの言う通り、余計なお世話だったかもしれないけどね」


 ――ううん、私たちを認めてくれる人がこうして居る、という事実を、こんなにも幸せに感じるなんて。

 そう伝えたいが、とっさに英語にできないもどかしさが襲う。玲に伝えてもらおうかと思ったけれど、彼は手を上げて別れの言葉を述べ始めた。


「そろそろ空港へ行かなきゃ。今度スペインへ遊びに来たら教えてね。また二人を撮らせてよ」

「うん、撮ってね、必ずだよ」


 玲が彼と握手を交わす横で、よし、と思う。これだけは自分の言葉で、きちんと伝えたかった。


「あなたに会えてよかった。本当に」


 私の簡潔な英語にアンドレはにっこりとして、


「バイ、またね」


手を振って夕陽の中を歩いていった。


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