『それでも恋するあかさたな』(『トーク・トゥ・ヒム_Ⅰ』)
太陽が眩しいです。
その太陽よりももっと眩しい人が隣にいます。
空気がカラリとしています。
サングラスをきらり光らせて、大きく笑う人が隣にいます――。
「スペインっ! 来たーーっ!」
空港を出てすぐ、ひゃっほーう、と玲とふたりで小さく跳ねて到着を祝う。長時間のフライトを経た肉体の節々は痛むが、昂揚した気持ちがそれを気にさせない。だが、はしゃぐ私たちを見た通りすがりの男性が笑いながらスペイン語で何ごとか言って過ぎ去っていったので、少し恥ずかしくなっておとなしく地上に体を留めた。
「『元気だね、お嬢さんたち』って」
私たちの大きなスーツケースの傍らに立っていた、恰幅のよい女性が日本語で教えてくれる。彼女とは出国ゲートを出てすぐに合流した。今回の旅で通訳を務めてくれるマルセラさんだ。
「あっちでタクシー待ってます。遊んでないで早く行く」
顔のメイク同様、しっかりと装飾の施されたマルセラの派手な指が差した先を見てから、
「はい」
悪戯を注意された子どものように玲と笑い合って、重いスーツケースを転がすことにした。
今回は、ある雑誌の特集でスペインの写真家に撮ってもらえることとなり、スペインへと飛んできた。
海外での撮影はすでに幾度も行っているものの、いつもは慌ただしく仕事をこなすだけでゆっくり外国旅行を楽しむことも叶わない。今回こうしてはしゃいでいるのは、時間をなんとかやりくりして前倒しで到着し、丸一日観光の日を設けられたからだ。私も玲もスペインに来るのは初めてだ。マルセラには、撮影中の通訳と、それ以外にも観光案内を依頼してあった。
巨大な荷物もタクシーのトランクに詰め込んで、空港から直接、今日は街をたっぷりと観光するのだ。
街の中心地へ向かうタクシーから街並みを楽しむ。石造りの重厚な建物が立ち並ぶ光景は、まさしく外国といった風情だ。
開放した窓の外へデジカメを向けている隣の玲を見る。長い髪が風を受けてそよいでいる。サングラスも外して夢中でシャッターを切っている姿が可愛らしい。と思って眺めていれば、ぱっと振り返ってにっこり笑いかけてきた。間違いなく可愛らしい。楽しいね!ときらきら輝く目が伝えてくる。
すると、助手席のマルセラが言う。
「ここはスリ多い。レイみたいな観光客、ほんとにカモ。気をつけて」
あはは、気をつけまーす、と笑ってまた彼女は車外へカメラを向ける。興味津々の顔をして車の窓から身を大きく乗り出している犬をたまに見るが、今の玲もそんな感じだろう。
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百年以上も建設を続けているものの、いまだ未完の、それゆえに有名な教会や、優美な曲線と青が可愛らしい邸宅、様々な形の煙突を屋上で近くから楽しめ、大きな吹き抜けの中庭が特徴の集合住宅、カラフルなタイルと白の響き合いや、どこか土着的な雰囲気の石柱が印象的な、テーマパークのごとき様相の公園など、この街で有名な建築家の作品を中心に見て回った。
懇切丁寧というわけではないが、独特の言い回しが味わい深いマルセラによる解説も交えて、大いに各地を楽しんだ。
また、旅先での楽しみといえば市場である。何百もの店が集まった巨大な市場も訪れた。
見たことのないフルーツ、馴染みのない野菜、吊るされた肉や読み方もおぼつかない料理が目に次々と飛び込んでくるのはわくわくする。色とりどりの果物や野菜がうず高く積み上げられている風景は、それだけで絵になる。
お店の人たちも気軽に英語で「どこから来たの」と聞いてきては、「食べてみて」と言って次々と食べ物を分けてくれるものだから、歩いているだけでお腹が満たされてしまう。
ある果物屋さんでは、とてつもなく大きな、果物とも野菜とも知れない何かがディスプレイされているのを見つけ、撮っていいか、と尋ねて小さな玲の顔と並べて撮ろうとしたところ、店先に立っていた従業員が皆わらわら、にこにこと集まってきて、結局大勢で肩を組んだ、ただのピースフルな可愛い集合写真が撮れてしまった。
マルセラも、各観光地で「撮ってあげる」と言っては細かく立ち位置を指定して、玲と私の並んだ写真を撮影してくれた。いつもは私が撮るばかりで、自撮りでもしない限りはふたりで風景と共に収まることはないので新鮮だ。
日が傾き始め、そろそろホテルへ向かおうかという頃、タクシーに乗りかけた私たちをマルセラが突然呼び止めた。
「もうあなたたち帰れるね?」
「え? えっと――」
「ここからホテルまでは安全だし、レイは英語わかるから大丈夫」
「あー……」
「ホセにもホテルの場所言ってあるよ」
「あ、はい」
まともに言葉を挟む余地も与えず、マルセラは、「じゃあまた明日、さよなら、アディオス」と言ってさっさと歩き去ってしまった。ホセとは本日お世話になっているタクシーの運転手さんである。立派なひげのおじさん。
「ホテルまで行っていただけますか? えっと、XXって名前のホテルだと思うんですけど」
タクシーの後部座席へ並んですぐ、玲がホセに英語で話しかけた。彼も鷹揚に笑って返答する。
「大丈夫。そのホテルはよくお客さん連れてくから。マルセラさん、いつもあの調子だし」
「ありがとう。彼女、素敵ですよね」
「本当?」
笑い混じりにホセが確認してくる。
「ええ、本当に」
彼女も笑って答えた。
簡単なやりとりならば、玲は何の問題もなく英語でコミュニケーションがとれるが、私の場合はだいたいのニュアンスを聞き取れても、しゃべるほうとなるとからっきしだめなので、国外における旅先でのプライベートな意思疎通は彼女に任せている。マネージャーの存在意義とは。
予定していた観光スケジュールを無事終えて、心地いい疲労感が体全体に広がった。走り出したタクシーの席へ深く沈み、充足感とため息をないまぜにして言う。
「はー今日はたくさん歩いたね」
「よく眠れそう」
「なんか……悪夢見そうだな」
そうぼやくと、隣の玲が不思議そうに聞き返す。
「悪夢?」
「私、高熱出して寝てると、あのグエル公園っぽい夢見るんだよね。カラフルで、ごちゃごちゃっとした。……あの公園の夢見ちゃったらやだなー」
「公園回ってる途中で、なんか酔いそうって言ってたもんね」
「うん、なんか途中でお腹いっぱいになったわー」
どの建築も楽しんだが、連続して見ているうち、その不可思議な世界観に飽和感を覚えたのも事実だ。玲は口を小さく尖らせて、
「えーあの茶色の壁と白の屋根なんか、まさにクッキーとアイシングのクリスマスのお菓子の家、っって感じで可愛かったけどな」
「ま、ね。ドラゴンといいつつ、あのもったりとして動きの遅そうなトカゲの彫刻は可愛かった」
「なんか動物系全体、ゆるくて可愛かったよね」
彼女はくすくすと笑う。ゆるい雰囲気の動物モチーフを見つけるたびに、その表情やポーズを真似した玲と一緒に写真へ納めた。あとでそれらを見るのも楽しみだ。
しばらく車に揺られながら、今日一日を振り返ってみた。
「……私は、カサ・ミラがいちばん好きだったかな」
「ええと、あの白いどっしりしたマンション?」
「うん、なんかあのゆったりした曲線と、屋上にやられたなー」
「煙突、いろんな形してて面白かったよね。吹き抜けもよかった」
その着眼点に嬉しくなる。
「あーっそうなの! あの吹き抜け、下から見上げると、窓がずらーっと並んだ先に青い空が切り取られてて、すごくよかった!」
よく晴れて真っ青な空が、白い壁と窓たちに囲まれてぽっかりと見えていたのが印象深かった。
「――長いこと、ぼーっと見上げてたもんね」
興奮して声を大きくした私を見ながら、玲がくすりと笑った。幼い子どもを見守るような、その母性溢れた表情にどきりとする。今日見たどのマリア像よりもマリアみがあった。私が思わず拝みかけた先で、彼女は思い出すようにして言った。
「見上げると言えば、サグラダ・ファミリアの屋内も意外とよかったなあ」
「あーすごい高かったね。ウワーッってなった。ならんかった?」
「なったなった。……あれだけ天井高い場所ってなかなか日本にはないから、外国の教会とか観光するたびに、なんか……しんとした気持ちになる。宗教なんてよくわかんないけど、でも、なんか、ああいう場所でお祈りする気持ちはわかるっていうか……。わかる?」
植物の茎のような、細胞を拡大したような、はたまた骨のような白い柱がずっと先まで伸びていた光景を思い描きながら、大きく頷いてみせる。
「うんうん。なんか、あれだけ大勢の観光客でざわざわしてても、心の中が静かになるっていうか。自分と、それよりもっと大きな存在に対面する感じっていうか……神様を仰ぎ見るって感覚が、わかるような気持ちになる」
「外側の建築、なんていうか、結構おどろおどろしく感じてたから、中に入って、素直に、あ、いいじゃんって」
「うん、ステンドグラス綺麗だったよねー」
色鮮やかな窓を通して太い線状になって差し込む光のもと、天井を見上げる玲の姿を遠くから写した、最高に映える写真が撮れた。あれは某写真共有SNSに載せたい。いいね数、絶対めっちゃ稼げる……といやらしい算段をつけてほくそ笑んでいるマネージャーの横で、しかししみじみと彼女はつぶやいた。
「ほんと、楽しかったなー……」
リラックスした様子で微笑む彼女に、こちらも気持ちがほぐされる。
仕事以外の時間を過ごせるのは本当に久しぶりで、無理にでも今日の観光日を作ってよかったと感じた。
そうこう話していれば、ホテルの車寄せへ滑るようにタクシーが止まった。トランクからスーツケースを降ろしてもらって、さあ別れの挨拶をという段階で、ホセは、アー……と口ごもったのち、
「ありがと。毎度」
と日本語をしゃべって頭を下げてきた。
異国の地で片言の日本語をしゃべってもらうと、妙に嬉しく、親近感が一気に湧く。玲と声を上げて笑いながら、こちらも「ありがとー! グラシアス!」と手を振って別れた。
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いったん荷物をホテルに置き、散歩がてらに街へ出ることにした。市場で次々に分け与えられた物によってお腹の中は未だ占拠されていて、夕食を摂るほどの空きスペースはない。
西陽が石造りの建物たちをオレンジ色に染めている。東京ならば、定時に上がれたお勤め人たちが通りに溢れていようかという時間帯だが、ここではスーツ姿の人間を見ること自体が稀だ。街のざわめきはゆったりとしていて、こちらの歩調も自然と緩む。
隣を見上げると、サングラスで目元の表情は伺えないものの、今にも鼻歌でも歌いそうな様子の玲がいる。
この風景のなかにあって、手足の長い玲が特別目立つ存在かというと、そうではない。日本にいれば、そのシルエットだけで只者ではないことを周囲に知らしめてしまうが、ここでは良い意味で群衆に紛れられる。
そのうえ、サングラスをかけている人がそこらじゅうにいるので、それをかけて歩くのも不自然ではない。ただ強い陽射しから目を守るためにかけている場合でさえ、日本では悪目立ちすることがなくもないが、ここでは、単に陽光が眩しいからであって身元を隠すための道具とは捉えられていない。
私が玲と揃ってサングラスをかけているとより注目を集めてしまうので、日本では太陽が眩しくても、それの使用を諦めていた。
二人してサングラスをかけて、何も気にせず、心配せず、ゆっくりと街を歩ける、それだけで途方もなく嬉しかった。
国外では”何者でもない人”になれて、彼女は羽を伸ばせる。
「ね、あのジェラート屋さん、すごい列」
大きな広場を歩いていたとき、玲が指を差した。少し先で、フードトラックに連なる長い行列があった。
「ほんとだ。食べる?」
「食べてみたい、けど。一個食べきれる自信ないかも」
玲はお腹をさすって眉を八の字に下げている。
「じゃあ分けっこしよ」
私が提案すると、彼女はにわかに顔を明るくして「うん!」と大きく頷いた。この子には、何個でも何でも買い与えたくなってしまうな。どんどん食べ物を差し出してきた市場のおじさんたちの気持ちがわかる。
無秩序に近いぐねぐねと折れ曲がった列の最後尾へ並びつつ、今日撮ったスマートフォンの写真を確認していたところ、ある共通項を見つけてしまった。思わずくつくつと笑っていれば、「何?」と玲が画面を覗き込んできた。
「見て、マルセラさんが撮ってくれたやつ、ほとんど指入ってる。めっちゃ歪んでたりするし」
彼女が率先して撮ってくれた写真は、画面隅に指が入っていたり、水平でなかったり、ぶれていたりと、完璧とは言い難いものたちばかりだった。ご愛嬌だ。
二人で笑っていると、カップルが話しかけてきた。スペイン語だったので、わからない、という顔をしてみせるや、すぐに英語で「この列はアイスのための列?」と言い直してきた。そうだよ、と玲が返答すると爽やかに感謝を述べて後ろに続いた。
相手がアジア人の見た目でも屈託なくスペイン語で話しかけ、次いで英語に切り替える、その気軽なコミュニケーションのありようへ、憧憬にも似た気持ちが沸き起こる。公用語が英語ではないここでも、たいていは英語が通じる。
「みんな若い子も英語が使えてすごいねえ」
「第二言語が普通に生活レベルで使えるんだもんね」
「玲が英語しゃべれてほんっとよかった」
海外でタレント本人に頼りきりのマネージャーは、感謝しかできない。
「しゃべれてないよう。もっと英語できたら、カメラマンさんの指示とかもちゃんと細かいニュアンスがわかって、仕事の完成度も上がるんだろうなあ」
「さすがの向上心だねえ。がんばれがんばれ」
完全に他人事で適当な私の応援に、彼女はほんの少し黙ってから、
「……もっとちゃんとしゃべれたら、通訳もいらなくなる?」
と聞いてくる。
「うーん。いざという時の保険のために一応つけてもらうのかな、玲がペラッペラにならない限りは。契約のこととかカタいお話だと不安だし」
「ふーん」
「どうせ経費で落ちるんだから。通訳さんいてくれたほうが玲も安心でしょ」
「そう、だけど。あなたと写真撮ってもらえるのは嬉しいし……」
どんなデメリットがありえるというのか、と目だけで質問を投げかけると、彼女は視線を外しながら小さく答えた。
「通訳さんいなかったら、あなたともっと二人っきりでいられるかなーと思って……」
「ッかわいいかよ! お前は本当に、かわいいかよ!」
もじもじしている玲に対して、叫ぶしかできない。だが、マネージャーとしては釘を刺しておく。
「でも最近はまじで忙しいんだから、英語の勉強する暇あったら寝て。マネージャーからのお願い」
玲もやや苦笑して、「はーい」と返答する。
加速度的に忙しくなる日々のなかで、こうして、「カップ? コーン?」「コーン一択」「だよね」などと言いながらひとつのアイスをつつくのは、貴重なひとときだった。
明日は撮影だ。
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