颯爽と立ち去れるほどタフじゃない(みちのく末枯紀行_Ⅱ)


 旅館の朝ごはんも食べられぬほどの早朝、あるいは深夜と言えるかもしれない時間に、山へ出発した。


 太陽はまだ昇っておらず、山鳩も眠っていて静かな朝。気の早い何かの野鳥だけがチチチ、と時折鋭く鳴いている。息を吐くと当然のごとく白い。

 今日の撮影チームと山の麓で合流し、ロケバスへ乗り込んだ。


 バスでぐるぐると舗装の甘い山道を登っているうちに朝陽が射してきて、すでに視界の下となった低い山々は、橙色の朝もやに浮かんでいた。



 昨夜のうちに買っておいたおにぎりや飲み物をバスの車内で食べる。

 玲は表面上、普段と変わらぬ様子でしゃべり、食べ、笑っている。以前の仕事で一緒になったことのある若いアシスタントの女の子と会えて嬉しそうだ。


 ともすると、昨夜の眠りの合間の出来事は夢だったのかとも思えるが、しかしどうとも言えぬ違和感を感じていた。




 心配していた山の天気も優れて撮影は快調に進んだ。


 溢れる紅葉の緋色や黄色を背景に、和装の玲が佇んでいる。


 玲自身は隠しておきたかったようだが小学生の終わりまでバレエを習っていたらしく、最近はバレエのレッスンも入れて営業プロフィールにもその旨載せているので、撮影監督やカメラマンから要望があればポージングにもバレエの要素を取り入れている。才能がなくて習い事の最後のほうは苦痛だったと彼女は言っていたが、長い手足を指先まで神経を通わせてしなやかに伸ばしてみせる姿は、素人目には立派なそれの範疇に見えた。

 重力に従い重たげに垂れる着物の袖をものともせず、そこから伸びる腕は婉麗として気品に満ちている。


 観光客も踏み入らない私有地のこの山は一歩脇道に入れば、どこか妖しく、おどろおどろしい自然の気配を色濃く漂わせる。

 山深い自然に身を置くことも少なければ、着物に身を包む人も普段あまり見ることがないので、山中で着物姿の美貌の人を見る、という体験に、強烈な非日常を感じた。


 土の匂いがむっと香る森を抜けてたどり着いた湖は、木々に遮られて朝陽が届かず、薄暗く、白いもやが湖面を渡っている。

 そんな場所で、朱色の着物を装った玲がゆらりと立ち、あるいは水場の縁で鏡写しになっていると、山に住む人外の何かのように感じられてぞっとするほどだ。



 ロケーションと衣装も相まって、今日の彼女はいつも以上に迫力があった。

 切れ長に目尻のラインを強調させた目で流し目を送られると、誰もがたじろいだ。

 朝も明けきらぬ時間の着物の美女は一種異様な妖気を伴って、撮影クルーもどこか一線を引いている印象がある。

 ただ私は、山の何がしかがこの美しい人を気に入って連れ去ってしまうのではないか、とまともでない不安が脳裏に浮かんで気が気でなく、つかず離れず玲のそばにいた。



 暗くならないうちに、天気が崩れないうちに、と衣装替えもロケーションの変更も必要最低限、効率的に超特急で行われた。今日はあまりメイクは変えずに、和装の髪結いはその道のプロのお姉さま(72)に任せていて、髪型によってはかつらも使用する。慌ただしく時間は過ぎて、やっとひと息つけたのはお昼も少し過ぎた頃だった。



 まだ着物を脱げない彼女がバスの段差に苦労しないよう、ステップの上から手を差し伸べて引き上げる。

 ありがとう、と述べてこちらの手を取る彼女の表情が、普段よりもほんの少し、よそよそしく感じられた。


 配られたお弁当はそれなりに美味しかったが、彼女はちょっと口をつけただけでだいたい残してしまう。何でもぺろりと完食する彼女にしては珍しい。


「着物しんどい?」

「うん、慣れないから。やっぱり」


 小さく笑う彼女のお弁当を覗き込んで、向こう側の席に座っていたアシスタントの女の子が、


「あれ、玲ちゃん、もういいの?」


と驚いて声をかける。


「今日はちょっとね。帯もきつくなっちゃうし」

「そうなんだ。この前は私と競い合うぐらいパンのおかわりしてたのに」


 まだ十代だというアシスタントの彼女は意外そうに目を丸くしている。どうやら健啖家と認識されているらしいモデルの玲は苦笑して、


「食べ残しだけど、よかったらまこちゃん食べる?」

「いいの? 食べる食べる!」


 まこちゃん(本名:満美子ちゃん)は福々しい顔立ちを嬉々と輝かせてお弁当を受け取る。



 気持ちのいい食べっぷりを披露する満美子氏を玲は満足そうに眺めているが、やはり早朝からの着物、ときには重いかつらも着用しての撮影で疲れが見える。羽織っていたアウトドア用のマウンテンパーカーを丸めて、座席と彼女の腰の間に挟ませた。


「たぶん、これで少しは楽になるはず」

「ああ、確かに」


 ほっと息を吐く玲だが、なおも少し元気がないように思えた。

 言うタイミングを迷っていたが、いい報らせで活気づいてもらえれば、と考える。


「明日のインタビューね、明後日に延びたから、この撮影が今日中に終われば明日は丸一日オフだよ」

「そうなんだ」


 山の天気が崩れた場合を考えて、今日の撮影は念のため二日間として予定に組み込まれていたが、このまま順調に撮影が完了すれば一日で済む。そして、明日はその不確定な予定に左右されてもあまり影響のない短めの仕事が夜に一本入っているのみだった。


「だからこのまま晴れが続くことを祈って、無事ちゃっちゃと撮影終わらせよう。洋服に戻れるまであとちょっとの辛抱だよ」

「――うん」


 彼女の快活さに翳りがあるのはおそらく、自分の昨日の振る舞いに端を発している自覚があるので、お天気が続くことを一番願っているのは、この撮影クルーの誰より私だ、という自信がある。

 あと少しでいいことあるよ、と洗いざらい打ち明けてしまいたい。一瞬強く思う。


 ――しかしどうやら自分は、目先の安寧に飛びついてしまうほどの愚かさは持ち合わせていないようで、黙って玲へ微笑みかけるに留まれた。




 お昼休憩を挟んで、少し雪の積もった雰囲気たっぷりの場所が見つかったので、そこを利用することになった。山のガイド役を務める地元の方が、危険な場所でないか念入りに確認してくれた。しっかりした地盤に見えても、たまたま一時的に雪が積もっているだけの不安定な場所であったり、すぐ近くが崖だったりすることがあるそうだ。人里から少し離れただけの険しくない山であっても、改めて自然は恐ろしいな、と気を引き締める。


 午後になってだんだんと厚くなってきた空の雲を見上げる。山の神様は女性だというが、どうか神様が玲の美しさに嫉妬しませんように、と思う。



 人に踏み固められることも排気ガスに曝されることもなく、積もったままの白い雪の上へ、長い髪を解いた玲が横たわっている。

 深紫の着物、まっさらの白い雪、広がる黒い髪、背景を取り囲む常緑樹の深い緑、遠くに映る紅葉の赤。

 さぞやいい写真が撮れるに違いない、と期待が高まる一方、雪の上に身を投げ出している彼女にはどこか死の気配も漂っていて恐ろしい。



 天気も怪しくなってきたし、午前のうちにいい写真が十分に撮れたので、このカットで撮影は完了、ということになっていた。

 写真を確認したカメラマンからOKが出たらしく、おつかれさまでーす、というスタッフの声に安堵する。


 バスを停めていた場所まで、乾いた枝をぱきりぱきりと踏みしめながら、冬の訪れに備えて葉を落とし寒々しい見た目となった木々の中を歩いていると、知らずこちらの肩も縮こまっていく。鬱屈とした気分がひたひたと、灰色の視界からも迫ってくる。


 衣装はまだ着替えられていないが、足元だけはスニーカーに履き替えた玲が背筋を伸ばして歩いていて、どこか理解の及ばない遠くの人に感じた。


 足裏の柔らかい土の感触を、注意深く感じてみる。

 樹木から落ちた葉や枝が積み重なってできた土壌は、虫や植物、動物たちの命を繋ぐ大切な揺りかごだ。確かに地上の見た目はうら寂しいけれど、足元ではしっかりと生命が息づいている。遠くへ目を転じれば、燃え立つような赤、輝く黄金色の紅葉が山を鮮やかに飾っている。

 顔を上げ、地面を一歩一歩踏みしめていけば大丈夫、と自分に言い聞かせる。




===============


 "人生"には、様々な瞬間がある。


 自分個人の中であのときが決定的な分岐点だったと感じる瞬間や、他人との関係性において、その言葉、その態度、表情を、そのとき、その瞬間、世界に表出させてしまったがために、あるいはためらいからひた隠しにしたがために、どうしようもなく後戻りできなくなってしまった瞬間というもの。

 それを言うのが、動くのが、一秒早かったなら、遅かったなら、あるいは、言わなかった言葉をきちんと伝えられたなら、もしくは、最後まで心を乱さずその言葉を吐かずにいられたなら。

 "今"とはまた違った未来になっていたのかもしれない、と時々振り返ってしまう、そういう類のやつ。




 撮影が完了し、山を再びぐるぐると下ったのち、街でロケバスを降ろしてもらった。

 なんとか今日はお天気が保ちそうだ、との見込みによりチェックアウト前提で、万一天気が崩れたら連泊、と伝えてすでに荷物をまとめてフロントに預けさせてもらってある。今日はもうタクシーで旅館へ行って荷物を受け取り、新幹線で帰るだけだ。結局、観光地でもない山がロケ地だったので、行きの列車内で玲と話していた滝は見られずじまいだった。


 タクシー乗り場へ向かう途中、玲がふと口にする。


「あ、明日一日ゆっくりできるんなら、さっと紅葉見て行かない? 滝も」


 確かに、今は夕方までにもまだ猶予のある時間帯で、ここからちょっとタクシーを飛ばせば、件の紅葉と滝の有名な場所へも辿り着けるはずだった。

 何気なく口にされた様子だったが、隣を見やると彼女の表情は幾分かかたいし、その言葉の真意は私にも伝わっている。


 なんだか少しぎくしゃくしてしまっている私たちの間の空気を、普段へ近付けるための、きっと歩み寄りの意味を込めてなされた提案。

 別に明確な原因があるわけでもない、何をどう言葉を交わせば気まずくなってしまった二人が元通りになるのかも判然としない、そういう事態を打開するための、優しさと勇気。


 だけれども。

 そうなんだけれども。


「あーうん……でもごめん、私、ちょっと用があって、できるなら早く帰りたいっていうか、」



 人の心が閉じる瞬間、"もういい"という裁定を受けてボーダーの外側にカテゴライズされた瞬間、という言い方で伝わるだろうか。

 明らさまにむっとされるのでも、激昂して糾弾されるのでも、口を歪めて軽蔑されるのでもなく、ただ静かに、何でもない表情のもと、ぷっつりとそれまでの縁を切られる瞬間。


 ああ、今がそれだ。見えた。彼女が、昨日から今日にかけてかろうじて渡しておいてくれた繋がりの糸を、鋏ですっぱりと断ち切る瞬間が。


「――わかった」


 落胆でも怒りでも取り繕いの笑みでもなく、一見何の感情も映していない、透明な表情で玲は返事をしてタクシー乗り場まで歩き出す。



 ………。

 うーわ。これ。どうすんの。めっちゃ気まずいがな。

 いくら何でも。今これパチーンいかれましたやん。もうええ、って玲さんはっきり顔に出してましたやん。

 もうあんたには何も期待せえへん、金輪際、顔も見とうないわって………そう、言うて……ました、やん……?


 正直泣きそうです。

 君のマネージャーは普段面の皮が厚いふりをしているけれど、その実とっても繊細なんです。

 喜ばせたい一心で企てているなんやかんやを全て投げ出したいです。



 ずんずんと歩いていく玲の後ろ姿を呆然と眺めながら、心に浮かぶ弱音。


 ……、

 それでも歩いていかねばならない。大人なので……。

 重たい足をなんとか踏み出しながら、大人だけど心で号泣。




 質量のある沈黙を経て、旅館と街のタクシーの往復を終えた。目の前にはっきりとあって、手を伸ばせば触れることもできて、きっとそれはひんやりと冷たくて、落とせばごとりと音がしそうな、文鎮みたいな沈黙の塊だと思った。

 モデルとそのマネージャーという関わりのなかで、単なるビジネスだけではない信頼関係がこれまでは確かにあったはずなのに、今や私たちを繋ぐものは一枚のぺらぺらの契約書だけで、それが飛んでいってしまわないように冷たい文鎮が契約書を押さえつけているに過ぎない、もはや個人的な縁は存在しない、といった風情。

 あと少し私が何かしでかしたら、その契約書も丸めてどこぞへ放り投げられるか、紙飛行機にされて飛ばされるか、その場で破り捨てられるかしそうだ。



 マネージャーという身分があるうちに、いつもと同じように駅でお土産を買っておく。

 事務所へのお土産のお菓子の個数は、もう改めて頭数を計算しなくてもすぐにわかるようになった。一人一つ、あと余裕を持ってプラス何個か、と思って買うと、甘いもの好きな社長が一人で食べ尽くして結局足りないことになるので、社長個人用に別箱で買っておく。しち面倒くさい。

 買うことはないが、ご当地キーホルダーのゾーンもさらりと見て回る。各地で名産物や名城と無理やりコラボするガメつい子猫ちゃんの生き様を見るのも旅行の醍醐味のひとつだと思っている。


 そして今回忘れてはならないものたちも当然買っておく。いいお酒とちょっとお高めの甘いもの、しょっぱいもの。

 センスありげなものを買えた。ふっふっふ。



 大事なミッションを無事終えて晴れやかな顔をして土産物屋を出ると、手持ち無沙汰な様子の玲が店の前のベンチで待っていた。


「あれ、君は買わないの」

「んー……今日はいいや」


 いつもは甘いものをあれこれ迷いながら買うというのに。内心の私と大差なくすっかりしょぼくれちゃって、不憫じゃのう……と心の中で同情していたところ、


「あなたは奮発したね。半分持ったげる」


と手を差し出してくれる。

 おお、縁は切ってもマネージャーを無下にはしない、なんてできた子……と心の中でむせび泣いてしまう。それを表に出すと、彼女は絶対に鬱陶しがるので感動は表情には出さず、なるべく軽そうな袋を選び出す。


「ありがと。じゃあこれお願い」


 ミッション成果物であるところの少なめ個数の菓子たちと、甘い果実酒の小瓶。

 手渡す際に袋の中身が見えたらしく、


「甘いお酒苦手じゃない? 珍しいね」


なんてツッコミまでくださる。遠出をしたら毎回自宅用にアルコールの土産を買う私の習慣を彼女は知っているのだ。確かに自分用だったら甘いものは選択しない。さすが、目の付けどころがシャープです。なお、今回はお土産がいっぱいなので自分用には買っておりません。


「ん、んーたまには、ね」


 ――この、アドリブの効かないどんくさ野郎め!

 内心焦る私をさして気にも留めず、


「ふーん。まだそっち重そうじゃん、持つって」


彼女は生来の親切心からさらにありがたい申し出をしてくださるが。


「いいって、いいって。行こ!」


 勘の鋭い玲にこれ以上不自然なミッション要素を嗅ぎとられたくなくて歩き出した。




 東京方面の新幹線へ乗り込む。

 復路の時間は未定だったので、佐々木さんに代わって先ほど自分で席の予約をした。玲と私は隣り合わせではなく前後で別々。彼女からも異論はなかった。

 正直、どこか息詰まるような今日の玲とようやく離れられて安心する。


 ほっとして棚の上へ土産物たちを上げている横で、前の席の玲も同じように荷物を上げ始めた。

 ややして、倒れないように横倒しにしておいた、お土産屋さんのビニール袋から透けて見える一升瓶の化粧箱へ、彼女が目を留めるのがわかった。

 あ。

 箱には大きく、この地の有名な焼酎の銘柄と、そして"芋焼酎"の文字。


 私が芋焼酎が苦手であるのは彼女も知るところである。

 玲がちらと私の顔を見る。

 ばちりと目が合う。


「なんか……芋好きの人に頼まれてさあ」


 何も訊かれていないのに後ろめたさが先行するあまり、視線を外して額をぽりぽりと掻きながら弁明をしてしまう。


「――へえ」


 額に触れていた右手に遮られて彼女の表情は見えなかったが、それでも身のすくむような冷たい声音の返事が聞こえて、一瞬体を強張らせているうちに、彼女は自分の席へ座ってしまった。



 嘘をついて、それが嘘だってことが相手へ即座にバレていて、そのバレていることもお互いに了解している場面ってあるじゃないですか。

 今がまさにそれ。

 やー今日は決定的瞬間をよく身に感じるわー。

 いっそこの苦手な芋焼酎も甘い果実酒も抱えて飲み干したいほどだわ。ほんと。自棄酒の酒盛りっつってな。新幹線で飲むお酒は格別だよなー。


 現実逃避の言葉を頭の中で連ねつつ、荷物を整理し終えた私はほとんど崩れ落ちるようにして自席へ座った。



 ――つらい! サプライズつらい! 嘘つけない! あたし、正直者だから! 助けておかあさん!



 案の定、というか予想外の事態が起こることすら願わずにはいられなかったのだけれど、案の定、本日の玲さんは後ろの席の私にちょっかいを出されることなく静かに、それはもう静かに着席していらしたので、私も平穏無事に新幹線の時間を過ごした。



 東京駅のひとつ手前の駅に着く直前、前の席へ回って玲へ声をかけておく。


「起きて。今日は次で降りるから」

「――え? なに、なんで?」


 うたた寝から起こされた彼女はおぼつかない口調で当然の疑問を投げかけた。


「ちょっと寄りたいとこあるから。悪いけど付き合って」

「うん……」




===============


 そうして途中下車した駅で、レンタカーの店へ向かった。

 なんらかの言い訳も用意すべきかと思っていたが、私にとっては都合がいいことに、彼女はもう黙って連れ回されるだけだ。はい。


 車を用意してもらっている間にお手洗いを借りて、山歩きのアウトドア仕様だった格好からパンツースーツとヒールに着替え、髪と化粧も手早くキリリめに整えた。

 トイレから出てきた正装チックな私に玲は一瞬目をみはるも、もはや彼女がその意味を問うてくることはない。


 ……うん、もうどうでもいいよね! こんなやつがボロッきれを纏おうが、少しおめかししようが! オッケーオッケー!

 行き先を見られたら驚きも半減ってことで、目的地の周辺まではナビなしで辿り着けるよう、新幹線を降りてからの地図だって頭に叩き込んできたけど、もう彼女は助手席よりこちら、カーナビにも一切の興味を示していないよ! オッケーオッケー!



 窓に頬杖をついて流れる風景を飽きることなく楽しむ玲さん。

 小粋なトークでもかまして雰囲気を和らげたいけれど、頭の中の地図を追うことに必死でそんな余裕のない私。

 二つを掛け合わせると、濃密な沈黙が生まれます。


 ――空気が重たいです。ラジオだけが空気をほんの少しかき混ぜてくれる。


 私はドライブも楽しみたくて、なんなら東京駅で降りて自車で向かうほうが近いし楽ちんなところを、わざわざひと駅前で降りてレンタカーという選択をしたんですけど、こんなことなら素直に東京駅で降りるべきでした……想定外の事態へ臨機応変に対応できないマネージャーって……何……私の存在意義とは……何……と精神の内奥へ思考の行方が向かい始めていたところ、高速道路を降りてしばらくしたのち、無事に道を見失いました。



 もうカーナビに頼ろうか、いやいやもう少し頑張ろう、と路肩に停めた車の中、スマートフォンで現在地と目的地までの道のりを確認していると、ふと、隣の彼女が小さく身じろぎをする。


「あ、れ。ここって……」


 もう、ね。本当嬉しい。祈るような気持ちで彼女を見つめちゃう。


 数万年ぶりにこちらへ振り返った彼女の目は戸惑いと驚きに丸く見開かれている。


 ありがとう、ありがとう。

 万感の思いを込めて歌います。本当のところ、彼女が気付いていようがいまいが、私が限界なのでもうネタバレしちゃいます。


「♪カントリーロ〜ド ♪この道〜ずぅっと〜 ♪ゆけばぁ〜…… ♪あーの街〜に〜続いてーる〜 ♪気がすーる〜、」


 ここまで熱唱している間に、どんどん驚愕の表情へ染まっていく玲へ、透明なマイクを向けて、


「気がする?」


とインタビューすれば、


「気がする! 断然そんな気がする!」


 イエスっ。


「♪カントリーロ〜ド」


 やりきった感動を胸に、開いた手を握ると同時、歌を締めくくる。自分の歌にたぶん今自分が一番感動している。


「えっでも、え、なんでっ!?」


 事態を把握しきれない彼女は慌てふためいている。


「さて、今日は何月何日でしょう!」

「10月じゅう……えっなんで!?」


 玲さんより〜、さらにここ一番の驚きの表情、いただきました〜。ホントに綺麗だいいオンナ!


「毎年盛大にお祝いしてるんでしょ、行けるタイミングで行こうよ。私も一度ご家族に直接会って挨拶したかったし」


 そう言って笑った瞬間、彼女は顔を覆ってうな垂れた。


「あ〜〜そっか〜〜……なるほど……。あーーごめんなさい……。もうほんっと、私って……」



 ほんの数日前の雑誌インタビューで、彼女は家族に関する質問を受けていて、その中で毎年両親の結婚記念日には必ず、弟さんを含む家族四人全員で手巻き寿司を作り、ケーキと共にお祝いをするのだと話していた。

 インタビューのあとに、記念日はいつなのかと訊けば、数日後の今日だとわかった。

 忙しくなってからもうずっと実家へ帰れていないけれど、弟も今年から大学へ進学して一人暮らしを始めているので、今年は両親二人だけのお祝いになるかな、と申し訳なさそうに微笑む彼女が印象に残っていた。


 仕事のスケジュールを確認してみると、その結婚記念日は、地方ロケと短い仕事が夜に一本だけ入っているロケ予備日の、ちょうど境目の日だった。

 もし、天気がよく、撮影が順調に終われば予備に確保してあった明日の夕方まではフリーとなって、夜の短いインタビューの仕事だけだ。さらにその仕事も、わりと気の知れた人との間のものだったので、事情を伝えてどうにか明後日へとずらしてもらった。

 ――その代わり、明後日は少し微修正を方々へお願いしていて、みちみちのスケジュールとなっているが。


 そんなこんなで、玲の緊急連絡先として把握している玲ママの香織さんへ、「もしお天気に恵まれてトラブルもなければ、今年も娘さんがご実家へお祝いに行けそうなんですが、どうでしょう」という連絡を水面下でとること数日。

 都度都度お天気を気にして、各方面と調整を重ねて、やっと無事迎えた今日。玲のご両親の結婚記念日。

 ……



「レッツゴートゥヨア実家! 祝おうぜ結婚を!」


 拳を振り上げネタばらし。


「ウェルカムトゥマイ実家……祝ってくれ両親を……」


 片手で顔を覆い、玲も力なく握った拳を天に伸ばす。


 その様子に、まさかの事態を確認せねばならない。


「……たまにそういう人いるけど、君、サプライズ嫌いだったりする……?」


 多少苦労しながらこの瞬間まで辿り着いた思いがあるので、どうしても声が震えてしまう。

 玲はぶんぶんと頭を振った。


「嫌いじゃないです、むしろ嬉しい派だけど、ああっ……今回はサプライズされ側としては最悪の反応だったと思って……顔向けができないだけ……。……私だけはしゃいでばかみたいって思って、勝手にふてくされて、たぶん、色々あれこれ裏で奔走してくれてただろうあなたに……感じ悪い態度とって、……ほんとに……ああ、私、子どもだなって……」


 話しているうちにどんどん自己嫌悪が募っていったようで、彼女は両手でまた顔を覆ってうずくまってしまう。


「……せっかくの旅館だったから、一緒に楽しめればよかったんだけど」


 ぽんぽんと彼女の頭に手をやって、顔を上げてよと示す。

 今にも泣き出しそうな顔で彼女はこちらを見上げる。


「うーん、今日の撮影、山だったから天気どうなるかわかんなかったじゃん。それで撮影押しちゃって、結局ご実家行く時間もなくなっちゃって……みたいになると、不確定な段階で嬉しがらせるのもどうかなって思ったりして。それでコソコソお母様とか仕事関係の人と連絡取ったり、詳しい天気予報とか、行き方とかレンタカーとか、いつまでならぎりぎり時間押しても大丈夫そうか、とか調べてたんだけど、ポケットWiFiの調子は悪いし、旅館のロビーのWiFiがおっそいんだわこれが。時間かかっちゃって。――旅館、楽しみにしてたろうに、あんまり一緒にいられなくてごめんね。今度スピードもやろうね」


 ゆるゆると首を振って、懺悔するような表情で彼女は言う。


「こちらこそ、そんなこと思いもしないで、あんな態度とってごめんなさい……。……でも、ね……でも……ほんっっとにどの立場からって感じなんですけど、少し言ってもいいですか…?」

「言うてみい」

「……、欲を言えば……できることならば……ちゃんと構ってくれつつ、サプライズしてくれたら、最高だった……」


 そう、それね。それが今回の敗因。

 がくんとハンドルにしがみついて湿った息を大量に吐き出さざるをえない。


「そうだよねえ〜〜本っ当にね〜〜〜途中心折れそうだった〜〜ぁ」

「――え?」

「もうさあ、私だってそりゃあゆっくりお山を玲ちゃんと散策したいわけよ。でも時間がそれを許さないわけよ、だから苦渋の選択をするじゃない、そしたらさあ、君が私との縁切りを決意する瞬間がはっきり見えたもんね〜〜。マネージャー首にする勢いだったよね〜〜」


 がっしりと彼女の両腕を捕まえて泣きつくと、


「そ、そこまで思ってないよ」


困った顔で否定するものの、


「いいや、プチって縁切ってたの、私には見えたもん〜〜。ああ、もうほんっと怖かったぁ〜……。生きた心地しなかったよぉ〜……。ほら見て、今思い出してもちょっと涙が出てくる……」

「……ごめん、そんな大袈裟なこと考えてなかったけど、でも確かに相当感じ悪かったよね。ごめん……」


 しゅん、と小さくなって彼女は頭を改めて下げる。

 ここはきちんと確認せねばならない。


「縁繋ぎ直した?」

「え?」


 握った掌から小指だけをぴんと伸ばして訴えかける。


「まだ繋がってる? さっきあんさんがパチーン切ってた縁繋いで? あたいのこと捨てんといてッ?」


 もつれたいざこざの渦中、どうにかして捨てられまいと必死に取りすがる場末のオンナを気迫たっぷりに演じる私を、彼女は若干引き気味に見ている。


「小指だと、運命の赤い糸的なやつじゃん……」

「じゃあ何、人差し指? 親指? まさかの……中指?」


 一本ずつ指を差し出し、中指のときだけ手首を返してみせると、


「中指立てて甲向けないでくれる」


そう彼女は無愛想に言って私の手を取ると、中指をしまわせ、小指をつまみだす。

 そして、透明の糸を巻きつけて伸ばし、自らの小指に結びつけるような仕草。


「……これでいいでしょ」


 投げやりな言い方ながらも、照れが見えて可愛らしい。


「玲さん、男前やん……?」

「ああもう恥ずかしいったら! 早く行こうよ!」



 どの時点で打ち明けるべきだったか。撮影完了が確定した時点で明かしてもよかったけれど、どうせなら驚かせたいと私が欲張ったばかりに、彼女にはいらぬ嫌な思いをさせてしまったかもしれない。


「――色々ばたばたしてごめんね」

「こちらこそ……ううん、ありがとう! 嬉しい。久しぶりに帰ってくる!」


 いつまでもくよくよしていては悪いしもったいないと考えたのだろう、首をひと振り、莞爾と笑って彼女は言った。

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