好きだけで好きでいられるほどタフじゃない(みちのく末枯紀行_Ⅰ)
プシュ、と缶のプルトップを開ける音。
自分のために確保された席。
車窓の外に流れる空と緑の鮮やかな田園風景、夜であれば深い山並みにぽつりぽつりと灯る民家の明かり、もしくは真っ暗なトンネルの中でぱっと現れる、窓に反射したどこか他人のような自分の顔。
遠出にはしゃぐ家族連れや若者たちの声、出張の合間にいっとき羽を休めて弛緩した空気をかもすサラリーマン。
座席から引き下ろした簡易なプラスチックの机、その上の駅弁。
新幹線での飲食、特にビールはたまらない。
主要駅を発車してから間もなくあちらこちらから聞こえるアルミ缶を開ける音には、その背後に、移動時間を以ってやっとひと息つける労働者たちのため息と開放感がこもっている。スーツのジャケットを脱いで、腕時計も外して、首元を緩めて、さあ、やっとビールだ、という静かな喜びが見えるようだ。
席を回転させ輪になってトランプゲームに興じる大学生たちよりも、今はもう断然にそういうサラリーマンたちのほうに親近感を覚える。
おつかれさま、労働者たち。おつかれさま、自分。
「……ッ」
――缶ビール、旨ぁ。疲れがほどけていく。
しみじみと新幹線でのビールを味わっていれば、伊達眼鏡とキャップを身につけた玲が、前の座席の上からひょこりと顔を覗かせて声をかけてきた。
「幸せそうだねえ」
「幸せだねえ。たまらんよ。このために労働してる」
ワイングラスを掲げるように優雅に銀色の缶ビールを持ち上げてみせたのに、
「なんだか悲哀を感じる」
悲哀を感じさせてしまった。
「労働者のちっぽけな幸せには悲哀が詰まっている。でも私はそれを誇りに思う。若者には理解されずともね……」
「辛気臭いしジジむさい」
「うるさい。危ないからちゃんと座りなさい」
ぺろりと舌を出して彼女はひっこむ。
駅弁の包装紙を外して、薄いふたを取る。このなんともワクワクする瞬間よ。
そして、――まあ、なんと可愛らしい!
弁当箱の中を小さく正方形に区切ったそれぞれへ、素材の色味を活かした具材が鮮やかに、ちょこちょこと敷き詰まっている。
しかしてその実態はおつまみの盛り合わせ、というものだから見た目ほど可愛らしいものではないけれど、テンションはうなぎのぼりだ。
新幹線を降りたあとはもう旅館で寝るだけなので、こうして新幹線でのお酒を存分に楽しめる機会をこれ幸いと味わい尽くしております。ビールをちびちび、お酒のアテをちょびちょび、たまらん。
「美味しい?」
また前の席の上方から玲がにこにこと顔を覗かせていた。
あれっぽい。通行人が通ると、二本足で立って塀の上からぴょこりと人懐っこく顔を出してくるご近所の犬ちゃん。
「見てよ〜これ、ちょこちょこしてて超可愛いの〜」
可愛い犬ちゃんに可愛いお弁当を自慢する。
「あ、本当だ。色も綺麗だね」
「しかも美味しいよ〜お酒と合う〜」
玲がスチャリとスマートフォンを構えて、
「幸せを噛みしめてるあなたを撮っておきましょう」
にやりとして言うので、缶ビールを頬にくっつけ、写真映えするお弁当が映るようにして、目をつむって至福を表現。
「ふふ、めちゃくちゃ幸せそう」
撮り終えた写真を見て改めて笑っている玲。すると、通路を挟んで私の横に位置する女子大生らしき二人が、「ね、やっぱそうじゃない!?」「だよね!」と興奮しながら囁き合っているのが耳に入った。
玲の手を軽く叩いて注意をひく。女子大生たちには見えないように立てた片手のうちで、あちらを指し示し、
(バレてる)
と口パクで伝えると、彼女は一瞬残念そうな表情を浮かべて、すぐさま自分の席へ戻った。ハウス、と命じられた犬ちゃんがしっぽを下げてすごすごと小屋へ帰る様が目に浮かんだ。
キャップを被って眼鏡をかけていようと、頭が小さく手足がすらりと伸びた玲のそのシルエットは常人とは異なって目立つ。彼女の顔も売れてきて、普通に外を歩いているとすぐ声をかけられるようになった。新幹線という長時間閉鎖された空間で騒ぎが大きくなると、周りにも迷惑をかけてしまう。
たぶんもう玲はこちらへちょっかいをかけてこないだろうが、心の中の犬ちゃんがクーンと細く鳴いている。
今はまだ私の隣には人が座っていないけれど、次の駅で乗り込んでくるかもしれない。移動するなら今のうちが楽だろう。駅弁のふたを閉じて荷物を手早くまとめる。立ち上がり、前の席を覗きこんで黙々と駅弁をつつく玲の頭へビールの底を当てると、彼女がぱっとこちらを見上げた。
「ビール、前に置いておいて」
そう言うと、彼女はにわかに顔を輝かせて缶を受け取る。ぱたぱたと振られるしっぽが幻視される。さびしん坊の犬ちゃんめ。
食べかけのお弁当と手荷物を持って、玲の隣へどさりと座った。
「どうせ君の隣へ召喚されるんだから、もう佐々木さんには座席予約はふた席だけでいいって言っておこう」
「そうそう、無駄無駄」
お弁当を広げ直す私の机へビールを置きながら、玲は調子よく言う。
総務課の佐々木さんというおじいちゃんは、新幹線での移動中、タレントがゆったりと気兼ねなく過ごせるよう、彼女らの席とその隣、その前後にマネージャーの席、といつも三席を予約してくれるが、私が玲の後ろであれば彼女は今日のようにたびたび顔を覗かせ、前に座れば後ろからちょっかいを出してきて落ち着きなく構ってくるので、だいたい最終的には私が玲の横へ移動することになる。
「食事は誰かと一緒のほうが美味しいでしょ」
そう言って機嫌よく峠の釜飯弁当を頬張る玲を見ていると、確かにビールも進む。
軽くなってきた缶が心許ない。――もう一本いっちゃおうか。……いっちゃえ。
頃合いよく、通路の前方から飲み物やおつまみを満載にしたカゴ車を押すお姉さんが近付いてきていたので、手を上げて購買の意思を示せば、にこやかに会釈を返される。
「そりゃまあそうだけど。……旅館のお夕飯食べたかったなあ〜」
直前の仕事が押して、旅館での夕飯には間に合わなくなってしまった。
販売員のお姉さんからビールを買い足す私を待って、
「残念だったね。でも新幹線でお弁当とビールするの、好きでしょ。よかったじゃん」
と彼女が笑う。プシュ、本日の二本目。ああ。
「大好きです。幸せ……」
実感をこめてしみじみ言えば、彼女がお茶のペットボトルを掲げてきてくれたので、缶ビールをこつんと合わせて乾杯。ごくり。くー。
オジサン度が過ぎるでしょうか。若々しく健康にるんるんとしている玲の隣だと、自分のくたびれ具合が際立つ。
地方ロケはちょっとした旅行のようで私たちは移動も含めてこれを楽しむが、特に今日の玲はいつにも増して遠足へ行く子どものようにはしゃいでいる。
注文の厳しい監督のもと、朝も早い午前中から一日たっぷりと続いた撮影を終えたあととは思えない。息詰まる緊張感を持続した現場は、外から見ているだけでもどっと疲れた。
「君は元気だねえ。よく体力が続くよ」
呆れ半分、誉め称える気持ち半分で語りかけると、彼女はやや気遣わしげに、
「――うるさい?」
と訊くので、ちょっと考えて答える。
「かわうるさい」
「かわいいとうるさいの複合体と理解したけど、心なし、うるさいが勝ってない?」
「じゃあ、うるさかわいい。うるかわ」
「ウルトラかわいいってことかな?」
「うるさい」
ふふ、と笑い合ってお互いお弁当へ集中する。
ちょびりちょびり食べ進める私より一足早くお弁当を食べ終わって手を合わせている玲へ声をかける。
「今朝もあんまり眠れてないんじゃない。明日も早いし、今のうち寝ておいたら」
昨日は深夜まで打ち合わせが続き、朝は早い時間からみっちりと撮影が入っていた。このところあまりゆったりした時間を取れていない。気を張っていると案外疲れを感じないものだが、ある日ぷっつりだめになることもある。
彼女はぐぐっと伸びをして、
「そうだね。あなたももう目がとろんとしてる」
「ビールと駅弁で幸せいっぱいっす」
長時間の移動時に欠かせない、簡易の枕を手渡しておく。
上着を毛布のように上半身へかけ、眠るのに快適なポジションを探しながら玲がつぶやいた。
「紅葉綺麗かなあ」
「見事な紅葉のために行くからねえ、綺麗であってもらわないと」
「なんかあそこらへん、冬は凍ってる滝が有名らしいよ」
「ああ、なんか氷瀑とかいう」
「それ。今はまだ凍ってないだろうけど」
彼女は窓にもたれる姿勢に決めたようだ。眠ると決めてからが早い、窓に映る彼女の顔はすでに眠そう。こんなところも睡眠時間が不足しがちな仕事に適している。
「そのあたりまで行くかわからないけど、見られるといいね」
ビルの明かりなど見当たらない、真っ暗な山あいの風景を映す窓ガラスの上の彼女に笑いかけると、彼女も窓から微笑み返して、「おやすみ」と目をつむった。
いつの間に眠っていたのだろう。
電車でのうたた寝とも、飛行機の中のむしろ疲労が貯まるような睡眠とも異なる、新幹線の中の透明な眠りから覚める。
慌てて腕時計を確かめれば、数分居眠りをした程度だった。
隣を見ると、窓にもたれかかってぐたりと脱力しきっている玲がいる。キャップがずれまくって仮面みたいに顔全体を覆っている。長い手足を投げ出して爆睡している彼女をスマートフォンで撮っておいた。
と、明後日の仕事について調整をお願いしていた相手からメールが届く。すぐに短く感謝の返信を打ち、立ち上がる。
これで会いにいけそうだ。まだ夜更けではないけれど、この時間帯にあの人へ電話をしても迷惑ではないだろうか。
心証を悪くするかと思うと、ほろ酔いもすっかり冷める。デッキへ足早に向かう。
===============
仲居さんに案内された部屋は、広々としてひとつひとつの調度品も格調高く、畳の香りが爽やかでとても居心地がよさそうな空間だった。
大きな窓の外には、秋に色づいた山が様々な表情で月に照らされて広がっている。
仲居さんが楚々とした動作で部屋を退出してすぐ、
「わー広いねっ!」
玲は声を弾ませて雰囲気のよい部屋を見渡す。
「高そうな部屋だね」
深い飴色に輝く卓も、その上に置かれた茶器や添えられたお茶菓子も、どれも丁寧に作りましたって感じだ。
佐々木さんは、老齢に差し掛かった見た目にも関わらず、デジタルガジェットを使いこなすフットワークの軽い人で、あまり事務所にいることがない。ノマドワーカーのようにして自分の居たいところで飄々と仕事をしていて、チャットツールでも電話でも連絡をとればすぐに仕事を完遂してくれる。
だがたまに抜けていて、今夜の宿も本来なら一人一部屋でとるべきところ、紅葉でオンシーズンにも関わらずすっかり部屋の予約作業を忘れていたため、どうにかロケ現場の山に近い場所で予約できたのが、この高そうな旅館の二人部屋だったということだ。
駆け出しの頃は、玲と私は同性同士であるし同じ部屋でもやむをえないかなと思っていたが、最近は事務所の稼ぎ頭にさえなっているのだから、タレント本人に気兼ねなくゆっくり休養をとってもらうためにも、そこらへんはしっかりとした環境を整えてほしいと思っている。
チャットツール上で『ごめんねえ、でもいいお値段の部屋だから!』とあまり悪びれた様子のない佐々木さんにふと疑念が起こり、『まさか新人さんの場合、異性でもマネージャーと同室なんてこと、なさってないですよね?』と丁寧に問うたら、『ないない! そこはさすがに!』と文面からも焦りが伺えた。
たまの地方での撮影はいつも簡素なホテル泊で初めての旅館だし、窓へ駆け寄って風景にはしゃいでいる玲を見ていると、まあありがたいかと思える。
とはいえ、部屋に着いた時間はもう遅かったため、間接照明の暖かい光でほの明るく調整された室内の様子や、すでに敷かれたふた組の布団の距離が少しそわそわとさせる。私たちに何かが起こりえるはずはないものの、普段敷き布団に馴染みのない生活をしているので、床に横たわる布団に隠微な何かを感じてしまう。
翌朝も早い時間から撮影は始まるので、出入り口に近いほうの布団を陣取ってとっとと荷解きをしていると、もう一方の布団にずさーっと玲が転がりこんできた。
「あとで枕投げしよう!」
両頬に手をついて目をきらきらさせて言うので、ここははっきりと己の立場を表明しておきたい。
「絶対やだ」
「えっなんで!?」
「ドッジボールとか枕投げを楽しむ人間の気が知れないよ。物を人に向かって投げつけるなんて、野蛮が過ぎる」
あれらをやろうと言い出す人間に、私は常々断絶を感じてきた。あ、雪合戦も同様だ。それがごつごつに固められた玉でなく、たとえ粉砂糖を丸く集めたみたいなふわふわの物体であろうと、それを意思をもって人にぶつけようだなんて。あれらを楽しいと思ったことがない。
「物をわざわざぶつけて楽しむ? はっ、同じ人間とは思えない。愚かしい」
こちらの吐き捨てるような口調に恐れをなしたか、
「そ、そこまで言わなくったっていいじゃん」
と彼女は怯んでいる。
「枕は、眠る時に頭の下へ置くためにある物。投げた瞬間に枕ではなくなるし、投げた人間は文明を持った人類とは認めない。今夜君は、人類という立場を自ら降りて、枕ではない何かをこの私にぶつけようというのですか?」
「わかった、あなたの並々ならぬ枕投げへの敵意はわかったから。おとなしく人類でいようと思います」
興醒めした彼女は布団の上に正座して、私の枕投げへの呪詛を片手で押しとどめた。そして、
「じゃあ、トランプしよ。スピード。あれ久しぶりにやりたい」
「いいけど、トランプないよ」
「大丈夫、」
そう言って、彼女は手をついて自らの鞄へにじり寄り、
「持ってきました」
トランプカード一式を印籠のように見せてきた。
「修学旅行かよ」
「畳でトランプ、いいじゃんか〜」
「はいはい。でもその前にお風呂入っておかないと」
仲居さんから、大浴場へ入れるのはあと数時間だから早めにどうぞ、と釘をさされていた。
「あ、うん……」
少しはにかんだ様子で彼女は頷いた。
うん、照れるよね。よく見知った人と同じお風呂に入るのって。
銭湯で一緒になっただけの人の裸はどうとも思わないのに、人となりを知っている誰かの裸はどうにも気まずい。
ポーチや着替えの浴衣を用意する間、なんだかすでに「へへ……」と照れくさい雰囲気が二人に満ちる。
照れ隠しのためにふとよぎったメロディを口ずさむと、彼女は疑問を投げかけてきた。
「なんで、雪やこんこの歌?」
「♪ い〜ぬは喜び、庭駆け回り、のフレーズがさ……今日の玲を見てると思い出されて……」
「なにそれ、駆け回ってないって」
「そうなんだよね、駆け回ってないのにね」
犬と関連させられた彼女は不服そう。
あ、でも。
この時間は彼女と分かれて連絡その他を行うのに適しているのでは。そう思いついて手を合わせる。
「やっぱり、ごめん、もう少しあとで行くから先に入ってて」
「え? でも早くしないと入れる時間終わっちゃうよ?」
「うん、ちょっとやること片付けたら行くから」
「わかった、けど……」
釈然としない様子で彼女は浴場へ向かった。
よし。これで存分に連絡と調べ物ができる。
まずは改めて天気予報だ。
===============
持参していたWiFiルーターの調子が悪かったため、旅館のロビーの無料WiFiを利用して色々と調べ物と連絡、片手間に仕事を進めていたが、どうにも通信速度が遅くて、結局作業が終わったのは大浴場の営業時間もとうに過ぎた頃だった。
ノートPCを携えてそっと部屋へ戻ってみると、薄暗い間接照明の室内の一部をテレビの明かりが煌々と照らすなか、浴衣姿の玲が座椅子に座っていた。
「あれ、まだ起きてたの?」
てっきり、明朝に備えてもう眠りに就いている頃合いだろうと思っていたので、ついそう声をかけたが彼女は、
「……どこ行ってたの」
とくぐもった声で問う。
「持ってきてたWiFiルーターがなんかだめでロビーに行ってたんだけど、そこのWiFiが遅くてさあ」
「――そう」
お、なんだか……。
誰かが面白いことを言ったのか、ワッと盛り上がったテレビの音声が耳に痛く響く。
玲は気怠げにリモコンでテレビを消した。訪れた静寂が息苦しい。
「……露天風呂逃しちゃったよー」
たはは、と笑ってみせるが、
「……ね」
彼女は上機嫌という状態とは程遠そうだ。
「部屋のお風呂これから使うけど、先に寝ててね。うるさくしてごめん」
「うん……おやすみ」
彼女は静かに布団へ体を潜り込ませた。
浴衣を持って立ち上がった瞬間、座卓の上のトランプカードが目に入った。
あ、と思うが、今さら彼女に何か言えるわけもなく。
なるべく足音をひそめて風呂場へ向かった。
慣れない布団での就寝だったが、意外にも眠気は早くやってきた。
入浴前の玲の様子が気になっていたけれど、風呂から上がると彼女は小さな寝息を立てて穏やかな顔で眠っていたのでほっとした。
すとん、と眠りに落ちてどれぐらい時間が経ったか、ふと目覚めた。
隣の布団は空で、窓際に目を向けると窓枠に玲が腰掛けて外を眺めている。
月明かりを浴びて白く浮かぶ横顔。
額から鼻筋、あごにかけて描かれた芸術品のような線、固く閉じ合わされた薄い色の唇。高い位置で結われた黒髪の下、浴衣の無防備な襟へ吸い込まれていく細い首。
昔話のかぐや姫みたいだ、と咄嗟に思う。
帰れぬ故郷を思ってか、あるいはもうすぐ離れる地球を思ってか、いずれにせよ遠くへ向けられる瞳は今ここの地点にはなく、儚い色を灯していた。
「――月に帰っちゃうの?」
寝転んだまま、窓際の彼女へ話しかけると、まさか私が起きていると思わなかったのだろう、「えっ?」とびっくりした様子で玲がこちらへ振り返った。
「あんまり綺麗だから、月に帰っちゃうかぐや姫みたいだなって」
彼女は淡く笑ってまた外を見上げる。
「……月がすごく大きいから、見てたの」
「……眠れない?」
そう訊いて布団から半身起き上がった私を見て、気まずげに玲が目を逸らす。
はたとして胸元を見れば大きくはだけていた。旅館あるある。浴衣で眠って着崩れしない人間っているのだろうか。
そこが豊かな丸みを帯びた稜線を描くなら、多少なりはだけたとしても、そのカーブをゆっくりと続かせながら布の奥まで頂きを秘すのだろうが、単純明快な平野が広がるのであれば、少し入り口がめくれただけで、情緒もミステリーもじらすこともなく頂上がすぐさまお目見えする。
残念ながら私は後者の標高が低いほうの人間だ。
――あるいはむちゃくちゃ元気玉みたいなばいんばいんの場合でも、それを御すること叶わずぽろりしやすいってこともありえるのかもしれない。そんな事態、私には想像が及ばないが。
「失敬」
胸元を直しつつ、へら、と笑って玲を見ると、笑いかけられた彼女は頬を硬くして、傷ついたような表情をした。
頂がヤッホーしていたほどはだけていたようにも思えなかったけれど、そんなに不快な光景だったでしょうか。傷付かれたことにこそ傷付く。
「……なんか目が冴えちゃって」
先ほどの眠れないかとの問いかけに、遅れて彼女が答えた。
お互いこれ以上不要に悲しい思いをしないためにも、布団の中で裾をきちんと整えてから窓際の藤椅子へと近付いた。
「へえ、新幹線の中で寝たからかな」
曲線の優美な藤椅子に腰掛けて窓の外を見ると、なるほど月がとても大きい。白く輝いて眩しいほどで、窓際のここは月光で照明いらずだ。
少し開けられた窓から、冷たい風に乗って虫の声や森の匂いが届いて気持ち良い。
そうしてつかの間、秋の夜長の空気を味わっていれば、やがて彼女がぽつりと言う。
「あなた寝言言ってたよ」
「あは、よく言われる。なんて言ってた?」
寝室を共にするほど気を許している仲の人にしか聞かせる機会はないけれど、寝言は無意識のものなので聞かれるのはなかなか恥ずかしい。
彼女はひと呼吸置いてそれを再現する。
「――玲、おいでって」
おお。本人ご登場パターンとは。
「あら……それは、恥ずかしい」
だいぶ、いやとても恥ずかしい。しかも何だ、おいでって。
しかし。
「そのあと、おすわりって」
「え、ぶっ」
「よーしよしよしって褒めてた。ムツゴロウさんばりに」
「ひー、ははは」
「叩き起こしたいくらいむかっとしたけど、あなた眠ってるくせに笑ってるから、怒る気も失せちゃったよ」
「はー、そりゃあ笑ってただろうねえ」
まったく記憶がないが、そのときの夢の内容を想像してひとしきり笑った。
けれど、まなじりに浮かんだ涙を拭って対面の玲を見ると、なんとなく笑いもすぼむ。
そうして彼女は意外なほど静かなトーンで問いかけるのだ。
「――私ってさ、所詮わんこ扱い?」
白々と注がれる月の光が、彼女の顔を痛々しいほどに晒していて、はっとする。
「……」
咄嗟に言葉を継げない。
普段通り、何言ってるの、と笑って返したって不自然ではない問いかけのはずなのに、どうしても何も言葉が浮かばない。月に照らされて静かに光る彼女の瞳と、固く結ばれた唇が、私の道化を拒絶する。
虫の声だけが聞こえるなか、風に乗った雲が月をさっと遮り、光源を月に頼っていた部屋も暗くなる。
すると薄暗くなる部屋へ紛れるように、彼女の視線もふいと逸らされた。
そこには痛切な何かがあるような気がして。
「そんな、こと――」
やっと口から出た言葉は最後まで聞かれることなく、
「――なんてね」
暗がりのなかで不確かながら、自嘲的な笑みを浮かべた玲の言葉に遮られる。
雲が過ぎ去って再び月の光が部屋に射してくる。
「夢の中だって出演料徴収するから、私の夢を見たらちゃんと申告してよね」
ついさっき見せた陰のある表情なんて見間違いだったかのように、いつもと変わらない笑顔で彼女は言った。
だが果たして本当に"いつも通り"か?
「……うん」
「……眠たくなったから私寝るね」
「……おやすみ」
窓をつ、と離れて、玲は布団へ入る。そして背中が向けられる。
さっき見た彼女の表情がうまく思い出せない。大事なことのはずなのに。
それを思い出そうとすると胸が苦しくなる。
息を詰めてしばらくの間、月に照らされてこちらを見る玲の顔、闇に紛れて薄く笑った玲の顔を思い出そうとしたが、月が明るすぎて、頭の中も真っ白に塗りつぶされてしまう。
唯一確かなのは、喪失感だけだ。
思わず月を見上げて、胸の内で「玲を連れて行かないで」と懇願してしまう。
馬鹿げている。とは思うけれど。
細く開けられていた窓をそっと閉める。虫の声が遠くなり、しんとなった。
身じろぎひとつしない彼女の背中を見る。
何か声をかけようとして、でも何を話すべきかわからなくて、言葉にならない何かを飲み込んだ。
柔らかな畳を踏む自分の足音だけが室内に響く。
途中、座卓の上にあったはずのトランプがないことに気付いた。
すっかり冷たくなった布団の中へ脚をすべりこませ、横向きになって寝そべる。
そうして同室の人に背中を向け、どうにか再び眠った。
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