鏡越しの恋歌
東海林 春山
若駒
プロローグ - 初茜の出会い
――まるで天から落ちてきた人みたい。
扉のないメイク室に入って、探すことなくすぐに目が惹きつけられた。
彼女の存在するそこの空間だけ、光が射しているように感じた。
神様が間違ってこの子を雲の上から地上に落としてしまったのなら、さぞかし嘆くことだろう。
この子を探すよう神様に遣わされたなんらかの獣や精霊が、今も世界中を駆け回り、凡百の人間を驚かせたり、恐怖に身をすくませたりしているのを想像した。
肌は、丁寧に焼き上げられた磁器のごとく白くなめらかに透き通り、澄んだ印象を与える。
アーモンド型の目と、熟練の書家が見事なストロークでりきみなく書いたようなのびやかな軌跡の眉との調和は、彼女の意志と芯の強さを伝えてくる。
小さくて形のよい顔の真ん中をまっすぐ通る鼻筋は、きっと横顔の影だけでも見る人をうっとりとさせてくれるだろう。
少し大きめの口は、口角がきゅ、と上がっていて、快活さと知性を感じさせる。
そして、何でも知り尽くしているような透徹した、あるいは何も知らないような無垢の色のどちらも宿した大きな瞳に見つめ返されると、なぜだか身を投げ打ってありもしない罪の告白をしたくなる。それを縁取る長いまつげは、朝露に濡れて新しい一日の始まりを静かに歓ぶ草花のような瑞々しさがあった。
その美しさに息を呑んで見惚れたのち。
さて、この彼女の美しさをどう利用しようか、と考える。
生まれ落ちた瞬間からこの世の全てに祝福されたようなこの彼女を、悪魔にだって、片田舎の農家の娘にだって化けさせることができる。
今とはまったく方向性の異なる可憐さを添えたり、蠱惑的な傾国の美女に仕立てあげたり、あるいは冴えない女子大生や、疲れた中年にも、望むのならばゾンビにだって変えられる。
私にはそれができる。
私だけでなく、協力者がもっといれば、その変貌の説得力は増すだろう。
衣装、照明、空間、カメラマン。それらがそれぞれの能力を紡ぎ合わせて、類稀なる容姿を持った人間を媒介にして、虚構を作り出す。
だが、そのフィクションの完成には、何より彼女自身の力が必要不可欠だ。いくら美貌に恵まれていても、それだけでは人の目や興味を強く惹きつける"魅力"というものはつくりえない。
ここまでは一瞬のこと。部屋に入った直後、鏡越しに視線が交錯した彼女は椅子から軽やかに立ち上がり、振り向いて頭を深く下げた。つやめく豊かな長い黒髪からふわりとよい香りが届く。
「"
スケジュールが合わなかったために、本来なら事務所での新人紹介を通じて知るはずだった彼女を、今日こうして初めて知ることとなった。
同僚から噂には聞いていたが実物を間近に見ると、この世ならざるその麗しさ、艶やかさ、華やかさにやはり圧倒された。
そして、浮世離れしたこんなに整った姿形をした人間はどんな声をしているのだろうか、どんな声もありえるし、どんな声も似合わなさそうだ、と最初によぎった疑問に対する回答は、不思議なほどすとんと納得感をもたらした。よく通りはきはきとしゃべる声はソプラノとアルトの中間で、落ち着きと心地よさを与えてくれる。
「今日のヘアメイクを担当します、瀬戸
こちらの返答に柔らかく微笑んだ彼女は、それまでのどこか迫力のある美しさからひと息に、春のうららかな日向の空気をまとった。その印象の変わりように驚かされる。
芽吹いた草花を見て人はほころんでしまうように、私もまた自然と笑顔を返した。
私はヘアメイク担当で、彼女は新人モデル。
これが彼女との出会いだった。
ただ単純に、メイクをする人間と、メイクされる綺麗な女の子、という無数に繰り返された関係性を、ほんの少しの時間結ぶだけと思っていた、その彼女との。
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